世界丸めて一つの国にするぞと申してあるが、
国はそれぞれの色の違う臣民によって一つ一つの国作らすぞ。
その心々によって、それぞれの教え作らすのぞ。旧きものまかりて、また新しくなるのぞ。
その心々の国と申すは、心々の国であるぞ、一つの王で治めるのだぞ。
天つ日嗣の実子様が世界照らすのぞ。国のひつきの御役も大切の御役ぞ。
道とは三つの道が一つになることぞ、みち満つことぞ、
元の昔に返すのだぞ、つくり固めの終わりの仕組みぞ、
終わりは始めぞ、始めは霊ぞ、富士、都となるのだぞ、幽国行きは外国行きぞ。
神の国光って目あけて見れんことになるのだぞ、臣民の身体からも光が出るのだぞ、
その光によって その御役、位、わかるのだから、
みろくの世となったら何もかもハッキリして うれしうれしの世となるのぞ、
今の文明なくなるのでないぞ、たま入れていよいよ光って来るのぞ、
手握って草木も四つ足もみな唄うこととなるのぞ、
御光に みな集まって来るのだぞ、てんし様の御光は神の光であるのだぞ。
昭和19年9月21日(1944年 皇紀2604年 甲申)
神典研究家で神名には明るかった天明氏でさえ、天之日月神がいかなる神なのか、また、どこに鎮座され祀られている神なのか分からなかったそうですが、私が調べた限りでは、享保7年(1722年)成立の『佐倉風土記』の記述が最も古かったです。上のページの次にアイキャッチという順番が本来です。第十七話の佐倉惣五郎事件当時の藩主・堀田正信から堀田氏が再び佐倉藩を治めるまでの間に幾度か藩主が交代したのですが、稲葉正往が治めていた時代、藩儒・磯辺昌言によって佐倉風土記は執筆されました。約百年の後、堀田正信の孫である堀田正亮が佐倉藩に戻ってくると、「前期堀田氏」の改易と結びつける伝承が生じていた、佐倉惣五郎父子の慰霊を行いました。それ以降、幕末に至るまで佐倉藩を治めていた堀田氏を指して「後期堀田氏」と呼ぶそうです。安政4年(1857年)10月に完成した『利根川図誌』(赤松宗旦氏/著)についての麻賀多神社の記述は、その佐倉風土記を参照しているようです。戻ってきた堀田氏は信心深くなったようで、佐倉市鏑木町にある麻賀多神社は「佐倉藩総鎮守」です。
麻賀多十八社 社殿/鳥居 比較
ttps://chiba.jinja.love/?p=12472
昔は「麻賀多大明神」とされ、今でも各社の鳥居などにかつての名残を残しています。奥宮は公津村稷山の上にあり、台方は「臺方」、公津は「神津」と表記したそうで。「稷」とは「きび」「たおさ」って読みであり、穀物をつかさどる神。五穀の神、又はそれを祭る場所を意味し、「臺」は「うてな」という読みで台地、高台という意味の他に「極楽に往生した者の座る蓮の花の形をした台」という意味があるそうです…。何か、既にすごい話を目の当たりにしているような気がしてきました。
かつては三十八座あったものの、享保7年時点での摂社・末社は五座で、印波國造社、幸靈神社、馬來田朗女神社、猿田彦神社、天日津久神社となっていたようです。まず伊都許利命を祀るのは分かる、猿田彦神社も分かるのですが、ここからが問題です。幸靈神社(幸霊神社)?愛知県に幸霊社という神社があるそうですが、あちらも由来不明だそうです。島根県松江市に、三穂津姫命を祀るという幸魂神社があるそうですが、断定まではちょっと…。馬來田朗女神社(馬来太郎女神社)という名前から察するに木更津市馬来田辺りに由来する神社だと思うんですが…。「が」ばっかり。縁起不明神社ばっかり。
日の出の巻 第十五帖
十柱の神様 奥山に祀りてくれよ、九柱でよいぞ、
いずれの神々様も世の元からの肉体持たれた生き通しの神様であるぞ、
この方合わせて十柱となるのだぞ。御神体の石 集めさせてあろうがな、
篤く祀りて、辛酉の日にお祭りしてくれよ。病あるかないか、災難来るか来ないかは、
手届くか届かないかでわかると申してあろうがな。届くとは注ぐことぞ、
手首の息と腹の息と首の息と頭の息と足の息と胸の息と臍の息と脊首の息と手の息と
八所十所の息合っていれば病ないのだぞ、
災難見ないのだから、毎朝 神拝みてから よく合わせてみよ、
合っていたらその日には災難無いのだぞ、殊に臍の息一番大切だぞ、
もしも息合っていない時には一二三唱えよ、唱え唱えて息合うまで祷れよ、
どんな難儀も災難も無くしてやるぞ、この方 意富加牟豆美神であるぞ。
神の息と合わされると災難、病無くなるのだぞ、大難小難にしてやるぞ、生命助けてやるぞ、
このことはこの方信じる人でないと誤るから知らすではないぞ、
手二本 足二本いれて十柱ぞ、手足一本として八柱ぞ、
このこと 早う皆に知らして どしどしと安心して働くようにしてやれよ。
飛行機の災難も地震罪穢れの禍いも、大きい災難ある時には息乱れるのだぞ、
「一二三祝詞」と「祓え祝詞」と神の息吹きと息と一つになっておれば災難逃れるぞ、
信じる者ばかりに知らせてやってくれよ。
昭和19年12月18日(1944年 皇紀2604年 甲申)
オオカムヅミ
ttps://ja.wikipedia.org/wiki/オオカムヅミ
賀茂神社 (阿波市)
ttps://ja.wikipedia.org/wiki/賀茂神社_(阿波市)
桃太郎神社 (犬山市)
ttps://ja.wikipedia.org/wiki/桃太郎神社_(犬山市)
天明氏は日月神示について、実際は色々な霊が懸かってきたと証言しておりますし、鳴門の御用(イイヨリの御用)は香川県高松市庵治町の太鼓岩と言われてますし、尾張の御用の詳細は不明ですが、立ち寄ってはいないと思われます。一方、日月神示が降りる前、天明氏は桃太郎の絵を描いて生計を立てていた時期があったそうです。その意味では天明氏を助けた神様という事になります。
麻賀多神社縁起
ttp://www14.plala.or.jp/nikorobin/magataengi.html
何か十八社以上あるのは気にしないとして、小麻賀多神社(駒形神社)って何?
駒形神社
ttps://ja.wikipedia.org/wiki/駒形神社
とはいっても小麻賀多神社の祭神は稚産霊神になっているようなので、やっぱり麻賀多神社なんだなと。
皇位
ttps://ja.wikipedia.org/wiki/皇位
ところで、「あまのひつく」、「日嗣」という神名は、古代では「日嗣(ひつぎ)」が皇位と同義語であり、大本事件に巻き込まれた天明氏にとっては、大変危険な名前だったと言えます。一応官憲に対する配慮はあったのか、戦後の「雨の巻 第一帖」までは「日津久」表記でした。(例外は終戦十日前の「夜明けの巻 第九帖」で「天津日嗣皇尊大神」を称した。)実は「あまのひつぎ」で検索すると、こういうサイトもヒットするようになるのです。
あまのひつぎ
ttp://jmapps.ne.jp/kokugakuin/det.html?data_id=31655
記紀・宣命・祝詞等に「天津日継」(記)、「宝祚」「天業」(紀)、「天日嗣」(宣命)、「天津日嗣」(祝詞)等多くの用例を見るが、いずれも「あまつひつぎ」と読み、「皇位につく」の意で用いられている。万葉集では、この句は「あまのひつぎ」という形で5首の歌に詠まれている。作者はすべて大伴家持である。
郷社麻賀多神社。
●台方にあり祭神を稚産霊神となす。応神帝の朝印波国造伊都許利命の齋祀せる所なりという延喜式内神社の1つ。(中略)印旛沼畔に一大華表あり延歴2年9月勅使大伴家持卿始めて建立せる所なりと云う。爾来61年毎に建替を定例とする又郡内の一勝地なり。
これって、偶然なんですか?
以下、万葉百科 奈良県立万葉文化館 様
ttps://manyo-hyakka.pref.nara.jp/db/detail?cls=db_manyo&pkey=4089
巻18-4089 獨居幄裏、遥聞霍公鳥喧作歌一首〔并短歌〕
高御座天の日継と天皇の神の命の聞し食す国のまほらに山をしもさはに多みと百鳥の来居て鳴く声春されば聞きのかなしもいづれをか別きてしのはむ卯の花の咲く月立てばめづらしく鳴くほととぎすあやめぐさ玉貫くまでに昼暮らし夜渡し聞けど聞くごとに心つごきてうち嘆きあはれの鳥と言はぬ時なし
高御座にあって、天日をうけ嗣ぐものとして、天皇たる神の命がお治めになる国、この秀れた国土には山があちこちに多いので、いろいろな鳥がやって来て鳴く。その声は春になると聞いていてかわいいことよ。どの声がいいというのでもないが、中でも卯の花の咲く月になると、愛らしく鳴くほととぎすは、菖蒲草を薬玉に通す五月まで、昼は一日中、夜は一晩中聞いても聞くたびに心が動いて感嘆し、興尽きない鳥だといわない時はない。
ttps://manyo-hyakka.pref.nara.jp/db/detailLink?cls=db_manyo&pkey=4094
巻18-4094 賀陸奥國出金詔書歌一首〔并短歌〕
葦原の瑞穂の国を天降り領らしめしける皇御祖の神の命の御代重ね天の日嗣と領らし来る君の御代御代敷きませる四方の国には山川を広み厚みと奉る御調宝は数へ得ず尽しもかねつ然れどもわが大君の諸人を誘ひ給ひ善き事を始め給ひて黄金かもたしけくあらむと思ほして下悩ますに鶏が鳴く東の国の陸奥の小田なる山に黄金ありと申し給へれ御心を明らめ給ひ天地の神相誘なひ皇御祖の御霊助けて遠き代にかかりし事を朕が御代に顕はしてあれば食国は栄えむものと神ながら思ほしめして物部の八十伴の緒を服従の向けのまにまに老人も女童児も其が願ふ心足ひに撫で給ひ治め給へば此をしもあやに貴み嬉しけくいよよ思ひて大伴の遠つ神祖のその名をば大来目主と負ひ持ちて仕へし官海行かば水浸く屍山行かば草生す屍大君の辺にこそ死なめ顧みはせじと言立てますらをの清きその名を古よ今の現に流さへる祖の子等そ大伴と佐伯の氏は人の祖の立つる言立て人の子は祖の名絶たず大君に奉仕ふものと言ひ継げる言の官そ梓弓手に取り持ちて剣大刀腰に取り佩き朝守り夕の守りに大君の御門の守りわれをおきてまた人はあらじといや立て思ひし増る大君の御言の幸の/ [一は云はく、を]聞けば貴み[一は云はく、貴くしあれば]
葦がしげるみのり豊かなこの国土を、天から降ってお治めになった皇祖の神の御代を重ねて、天日を継承するものとして支配なさる天皇の御代御代に、統治なさる四方の国には、山や川が広く豊かなので、貢上する宝物は数えきれず尽くすこともできない。しかしながらわが大君は、多くの人々をさそってりっぱな事業をお始めになってから、黄金がたしかにあるだろうかとお考えになり、心を悩ませておいでだった。ところが鶏の鳴く東の方、陸奥の小田という山に黄金があると申しあげると、御心のふさぎをお晴らしになった。「天地の神々も尊いこととお思いなさり、皇祖の御魂も恩恵を施され、遠い昔にあった、こうした事を、またわが御代にもお見せくださったので、わが統治の国は繁栄するにちがいない」と、大君は神の御心にお考えになり、多くの廷臣たちを従え政治に向かわせる一方、老人も、女も子供も、その願いが心のままに満足するように安らかにさせ、治めなさる。そのことを私は、ふしぎに尊く嬉しいことと、ますます考える。大伴という、遠い祖先の名を大来目主として掲げもち、朝廷奉仕を役目として来た氏は「海に征けば水につかる屍、山に戦えば草のはえる屍。大君のかたわらに死のう。わが身をふりむくまい」と言立てをして、勇敢な男の清らかな名を昔から今の現実に伝えて来た末の一族であるよ。大伴・佐伯の両氏は、祖先の立てた言立てによって、子孫が祖先の名を絶やさず大君に奉仕するものと言い伝えて来た、そのことばどおりの役目の氏であるよ。梓の弓を手に握り持ち、剣太刀を腰に帯び「朝の守護・夜の守護に大君の御門の守護をするのには、自分以外に人がいまい」と、ますます心をふるい立たせ、気持は高ぶる。大君のおことばの幸いが〔一ハ云ワク、を〕、聞けば尊いので〔一ハ云ワク、尊く思われるので〕。
ttps://manyo-hyakka.pref.nara.jp/db/detail?cls=db_manyo&pkey=4098&dicCls=d_kanno&dicDataId=18&detaillnkIdx=0
巻18-4098 為幸行芳野離宮之時、儲作歌一首〔并短歌〕
高御座天の日継と天の下知らしめしける皇祖の神の命の恐くも始めたまひて貴くも定めたまへるみ吉野のこの大宮にあり通ひ見したまふらしもののふの八十伴の緒も己が負へる己が名負ふ負ふ大君の任けのまくまくこの川の絶ゆることなくこの山のいや継ぎ継ぎにかくしこそ仕へ奉らめいや遠長に
高御座にあって、天日を承けつぐものとして天下をお治めになった遠い天子が、畏れ多くも始めなさり貴くもお定めになったみ吉野のこの大宮に、わが大君は通いつづけて風景を御覧になるらしい。多くの廷臣たちも、それぞれがもつ氏の名にたえず背かず、大君の任命に応じつづけ、この川が絶えることのないように、この山が次々と重なるように、このようにお仕え申し上げよう。一層永遠に。
ttps://manyo-hyakka.pref.nara.jp/db/detail?cls=db_manyo&pkey=4254
巻19-4254 向京路上、依興預作侍宴應詔歌一首〔并短歌〕
あきづ島大和の国を天雲に磐船浮かべ艫に舳にま櫂しじ貫きい漕ぎつつ国見しせして天降りまし払ひ言向け千代重ねいや継ぎ継ぎに知らしける天の日継と神ながら我ご大君の天の下治めたまへばもののふの八十伴の緒を撫でたまひ整へたまひ食す国の四方の人をもあぶさはず恵みたまへば古ゆなかりし瑞度まねく申したまひぬ手抱きて事なき御代と天地日月と共に万代に記し継がむそやすみしし我ご大君秋の花しが色々に見したまひ明らめたまひ酒みづき栄ゆる今日のあやに貴さ
秋津島の大和の国を、天雲に磐船を浮かべ、船尾にも船首にも左右の櫂を一面に通して漕ぎながら国見をなさって地上にお降りになり、邪魔者を掃い従え、千代を重ねて一層次々と平定なさってきた天皇の御位にあって、神のままにわが大君が天下をお治めになると、廷臣の多くの者どもをいつくしみなさり、整備なさり、支配する国土のあらゆる人々をも残さずお恵みになるので、昔からなかった瑞祥が度々奏上されることだ。何もせず手を組んでいても太平な御代として、天地・日月と共に万代の後までも記録しつがれるだろう。八方を支配されるわが大君が、秋の花のさまさまな色どりを、それぞれに御覧になって御心を晴らす、酒宴が賑やかな今日の、ふしぎな貴さよ。
ttps://manyo-hyakka.pref.nara.jp/db/detail?cls=db_manyo&pkey=4465
巻20-4465 喩族歌一首〔并短歌〕
ひさかたの天の門開き高千穂の岳に天降りし皇祖の神の御代よりはじ弓を手握り持たし真鹿児矢を手挟み添へて大久米のますら健男を先に立て靫取り負ほせ山川を岩根さくみて踏み通り国求ぎしつつちはやぶる神を言向けまつろはぬ人をも和し掃き清め仕へ奉りてあきづ島大和の国の橿原の畝傍の宮に宮柱太知り立てて天の下知らしめしける天皇の天の日継と継ぎて来る君の御代御代隠さはぬ明き心を皇辺に極め尽くして仕へ来る祖の官と言立てて授けたまへる子孫のいや継ぎ継ぎに見る人の語り次てて聞く人の鑑にせむをあたらしき清きその名そおぼろかに心思ひて空言も祖の名絶つな大伴の氏と名に負へるますらをの伴
ひさかたの天の戸を開き、高千穂の嶺に天降った、天皇の祖先神の昔から、わが一族は櫨弓を手に握り持ち、真鹿児矢を脇にかかえて、大久米部の勇敢な男たちを先頭に立て、靱を背に山川の岩を踏み分け踏みくだいて国土を求めつつ、ちはやぶる神を平定し、反抗する人々も従え、邪悪なものを一掃して、お仕え申して来た。また、秋津島の大和の国の橿原の畝傍の宮に、宮殿の柱をりっぱに立てて天下を支配なさった皇祖の、それ以来の御位として引き継いで来た君の御代御代に、隠しへだてなく赤心を、天皇に向けて極め尽してお仕えして来た。そうした祖先代々の役目としてことばにあげて天皇が官をお授けになるわれら子孫は、一層次々と、見る人が語りつぎ聞く人が手本にするはずのものを。惜しむべき清らかなその名であるよ。あさはかに思慮して、かりそめにも祖先の名を絶やすな。大伴を氏の名にもつ大夫たちよ。
の5首ですが、以下に意味深なのを貼っておきます。
大伴宿禰家持
ttps://manyo-hyakka.pref.nara.jp/db/detail?cls=db_manyo&pkey=4509&dicCls=d_utabito&dicDataId=174&detaillnkIdx=0&lnkDic=true
巻20-4509 波布久受能多要受之努波牟於保吉美乃賣之思野邊尒波之米由布倍之母
延ふ葛の絶えず偲はむ大君の見しし野辺には標結ふべしも
蔓(つる)を伸ばす葛のように絶えずお慕いしよう。大君が御覧になった高円の野辺には標縄(しめなわ)を張っておくべきであるよ。
「一の鳥居」第0話のカット違いです。
大伴家持
ttps://ja.wikipedia.org/wiki/大伴家持
大伴馬来田
ttps://ja.wikipedia.org/wiki/大伴馬来田
大伴吹負
ttps://ja.wikipedia.org/wiki/大伴吹負
キタ━━━━(゚∀゚)━━━━!!
天武天皇の代には、弟の吹負が常道頭(常陸国の守)を務めたとあるので、兄の馬来田も馬来田を治めた可能性は高いです。従って家持の頃、大伴家は上総国から常陸国にかけて一定の影響力があった。伴氏神社の創祀が平安京遷都時(延暦13年/794年)とされているので、一の鳥居を寄進した当時は、大伴氏は祭祀する神社を持っていなかったと考えられます。
ただ一点、疑問が残ります。
天日津久神社を祀ったのが家持だったとしたら、何故「合祀」ではなく「摂社」になったのでしょう?菊の御紋があるのは台方だけなのです。
つづく?