そなたの仕事、思いつき結構であるが、神の御意志を頂かねば成就せん。
神と申しても、そなたが勝手に決めた神や宗教で固めた制限された神ではないぞ。
わかっただけでは駄目ぞ。行じねばならん。生活しなければならん。
芸術しなければならん。
昭和34年1月3日(1959年 皇紀2619年 己亥)
はじめまして。
「それでも煩悩が巡っている」の「108」と申します。日月神示の考察と日夜起こる出来事をこじつける罰当たりなブログです(いいのか?)。とは言え「神の御意志を頂かねば成就せん」とありますし、「ひつくの神にひと時拝せよ」ともありますので、2024年1月1日に千葉県成田市台方にある麻賀多神社に参拝に行きました。
地つ巻 第九帖
ひつくの神にひと時拝せよ、神の恵み身にも受けよ、からだ甦るぞ、
神の光を着よ、御光を頂けよ、食べよ、神ほど結構なものないぞ、
今の臣民 日を頂かぬから病になるのだぞ、神の子は日の子と申してあろうがな。
昭和19年9月20日(1944年 皇紀2604年 甲申)

ついでに「初日の出も見たい」と思いまして、正月は深夜運行している京成線の駅まで歩き、なんとか暗い内に印旛沼のほとりに着きました。前日は雲が多かったので元旦晴れてくれるかどうか心配しておりましたが、御覧のとおりすっきり晴れてくれました。元旦ってあんまり天気が悪い記憶ないのです、忘れているだけかもしれませんが。感謝。

暗い内から待っていたので「寒い!」としか言いようがないです。実は着いた頃に撮った写真はあまりに暗過ぎでした…所詮は三脚無し、且つスマホ。


それでは麻賀多神社に向かうことにします。「一の鳥居」のそばには、かつての渡船の史跡がありました。昭和43年まで橋が無かったというのが驚き。下のリンク見ると印旛沼開発の完成は昭和44年と、思っていたよりは近年ではあります。
印旛沼開発の歴史 1. 近代までの開発経緯 【事業に至る経緯】
ttps://www.maff.go.jp/kanto/nouson/sekkei/kokuei/inba/keii/01.html
私は千葉県で育ったので、学生時代に「香取海」から利根川、江戸川、手賀沼、そして印旛沼干拓の歴史とかある程度サクッと教わっており、この地がかつて「香取海」の一部だった事は知ってはおりました。田沼意次とか。ですから「海マアカタとは印旛」は、かつての「香取海」の事かな?と思います。それでも埋立地ゆえ、今でも問題あるかもです。実際2011年の東日本大震災の後には、対岸の印西市に「液状化」が見られましたし。
日の出の巻 第十八帖
富士の御用は奥山に祀りくれよ、カイの御用も続けてくれよ、
江戸一の宮作ってくれよ、道場も同じぞ、海の御用とは
海の鳴門と
海の諏訪と
海のマアカタと三所へ祀りくれよ。
その前の御用、言葉で知らせたこと済んだぞ、海マアカタとは印旛ぞ。
十柱とは火の神、木の神、金の神、日の出の神、竜宮の乙姫、
雨の神、風の神、地震の神、荒れの神、岩の神であるぞ。辛酉の日に祀りてくれよ。
しばらく御神示出ないぞ。皆の者 早う今までの神示 肚に入れてくれよ、
神急けるぞ。神示読めば神示出て来るぞ。神祀り早く済ませてくれよ。
昭和19年12月21日(1944年 皇紀2604年 甲申)
アイキャッチで使った写真が、大伴家持が寄進したという「一の鳥居」です。「鳥居とは水のことぞ、海の水ある それ鳥居ぞ」との事だそうです。「下つ巻 第一帖」が指す御用の話と思いますが、「要らぬ」のでしょうか?
下つ巻 第一帖
富士は晴れたり日本晴れ。
青垣山めぐれる下つ岩根に祀りてくれた、御苦労ぞ、いよいよ神も嬉しいぞ。
鳥居は要らぬぞ、鳥居とは水のことぞ、海の水ある それ鳥居ぞ。皆の者 御苦労ぞ。
邪が岳は昔から神が隠しておった大切の山だから、
人の登らぬようにして、竜神となって護ってくれた神々様にも御礼申すぞ。
富士は晴れたり日本晴れ。
いよいよ次の仕組みにかかるから、早う次の御用聞いてくれよ、神急けるぞ、
山晴れ、地晴れ、海晴れて、始めて天晴れるぞ。
天晴れて神の働き いよいよ烈しくなったら、臣民いよいよわからなくなるから、
早う神心になっておりて下されよ。
次々に書かせておくから、よく心に留めておいて下されよ。
この道は宗教ではないぞ、教会ではないぞ、道だから、今までの様な教会作らせんぞ。
道とは臣民に神が満ちることぞ、神の国の中に神が満ち満つることぞ。
金儲けさせんぞ、欲すてて下されよ。
昭和19年7月12日(1944年 皇紀2604年 甲申)

着きました。
ですが、中では写真撮っていないのです。私に霊感は無いと思っているのですが、プレッシャーがキツイ。神示の印象に囚われているだけかも知れませんが。それでいてこんな文章ブログに挙げようというのだから全く以ってどうかしてます。しかしながら神社に来て、こんなにも緊張するのは台方だけです。参拝に来るたびに叱られに来ているような気分なのは、私が至らぬ故なのでしょう。
下つ巻 第二十七帖
この方は祓い戸の神とも現れるぞ。
この方祀るのは富士に三と所、海に三と所、江戸にも三と所ぞ、奥山、中山、一の宮ぞ。
富士は、榛名に祀りてくれて御苦労であったが、これは中山ぞ、
一の宮と奥の山にまた祀らねばならんぞ、
海の仕組みも急ぐなれどカイの仕組み早うさせるぞ。
江戸にも三と所、天明(岡本天明)の住んでいるところ奥山ぞ。
あめのひつく(天の日津久)の家、中山ぞ、富士(二二)が一の宮だから気つけておくぞ。
この方祀るのは、真ん中に神の石鎮め、そのあとにひもろぎ、前の右左にひもろぎ、
それが「あ」と「や」と「わ」ぞ、
そのあとに三つ七五三とひもろ木立てさすぞ。
少し離れて四隅にイウエオの言霊石置いてくれよ。
鳥居も注連も要らぬと申してあろうがな、このことぞ。
この方祀るのも、役員の仕事も、この世の仕組みも、
みな七七七七と申して聞かせてあるのに気がまだ付かんのか、
臣民の家に祀るのは神の石だけでよいぞ、
天のひつくの家には、どこでも前に言うようにして祀りてくれよ。
江戸の奥山には八日、秋立つ日に祀りてくれよ、
中山九日、一の宮には十日に祀りてくれよ。
気つけてあるのに神の神示読まぬからわからんのぞ、このこと、よく読めばわかるぞ。
今の様なことでは神の御用つとまらんぞ、正直だけでは神の御用つとまらんぞ。
裏と表とあると申して気つけてあろうがな、
シッカリ神示読んで、スッキリと腹に入れてくれよ、
読む度たびに神が気つけるように声出して読めば、読むだけお蔭あるのぞ。
昭和19年7月31日(1944年 皇紀2604年 甲申)
ところで[日月神示]夜明けの御用 岡本天明伝(黒川柚月氏/著)の177ページ[注3]に「天明第一仮約」で「富士(二二)が一の宮だから」となっている部分が、(本文太字)現在は「ここが一の宮だから」になっており、これでは意味が通らないと述べています。私は「日月神示 謄写版第一訳文」(ビオ・マガジン)と「新版 ひふみ神示」(コスモビジョン)を所持しておりますが、「謄写版第一訳文」でさえ「ここが一の宮だから」に変えられておりました。第二仮訳を底本にしていると思われるオンライン上の神示の多くもそうなっていると思います。実際読んでみると変ですもんね。
…とりあえず、報告完了。奥宮に向かいます。

上の写真は岡本天明氏の住居の跡地です。この日は人がいたので、別の機会に訪問した時の写真を。後ろ側には奥宮への案内板が地面に小さく刺さっています。

奥宮です。写真右側がこの地に社殿を造営した伊都許利命の墳墓です。ここはホント落ち着きます(全く失礼なヤツだな)。実は以前していた仕事で、成田駅西口大通りから国道464号線に至る道を通っていました。通りには看板もありますし、なんとなく覚えていた。だから初めて来る前から、ここに奥宮があるのは知っていたのです。最もその当時は寧ろ日月神示の方を知らなかったのですが。
…と、2024年元旦に麻賀多神社を参拝した話を1月2日にアップして、以降10数話の記事アップしていたのですが、Exif消してないや、この記事文章変えたいとか始まりまして、まだGoogleにも検索されていないうちに、いっそ記事全部消して、0から書き直ししているのが本記事であります。画像のプロパティ消して再アップして、ちょこっと書き直しすれば済む話なのですが、原稿丸めて捨てちゃうとか、パソコン以前のアナログな物書きみたいで、そう言う感覚もたまにはイイかな?と。
最後になりましたが、本ブログ日月神示の表記の記号は「日月神示普及委員会」様からお借りしております。この場を借りて御礼申し上げます。