第二十七話「日月の巻 第六帖」

天地の時、天御中主の命、アのアに為りましき、高天原の命となり給いき。

今の経済は悪の経済と申してあろうがな、もの殺すのぞ。神の国の経済はもの生む経済ぞ。
今の政治はもの毀す政治ぞ、神の政治は与える政治と申してあろうが。配給は配給、統制は統制ぞ。
一度は何もかも天地に引き上げと申してあるが、
次の四(世)の種だけは地に埋めておかねばならんのだぞ。それで神がくどく申しているのぞ。
種は落ちぶれていなさる方で守られているぞ。上下に引っ繰り返ると申してあること近づいて来たぞ。
種は百姓に与えてあるぞ。種蒔くのは百姓ぞ。

昭和19年10月22日(1944年 皇紀2604年 甲申)

近所のスーパーの売れ残りで、子持ちシシャモのフライが半額の149円だったのでGetしました。ここのパック、一食のおかずになる位の分量があるので。ありがたい話ではあるのですが、昨今の燃料費高騰の最中、漁師や農家の方々に申し訳ないなあと思いつつ、経済とかいう仕組みに依存せざるを得ない自分がホント、イヤになる。

1、〇△県で収穫された□■を市場に集める。

4、□■の配送をスーパーのセンターに配送する。え、配送先?

まだこれならマシ。

福島第一原発の作業員を狙う「危険な下請け会社」

ttps://wpb.shueisha.co.jp/news/society/2014/01/15/24173/

福島県発注工事における元請・下請関係の適正化の取組み

ttps://www.pref.fukushima.lg.jp/uploaded/attachment/7267.pdf

東京五輪談合、下請け業者も一覧表に 電通出向者らが意向確認

ttps://mainichi.jp/articles/20221129/k00/00m/040/327000c

トヨタ系に公取委勧告 時代錯誤の下請けいじめ

ttps://mainichi.jp/articles/20240712/ddm/005/070/140000c

トヨタなど5社が型式指定申請で不正、国交省が立ち入り検査へ

ttps://xtech.nikkei.com/atcl/nxt/news/24/00908/

トヨタ式「カイゼン」とは?5S活動、3M削減など企業の成長を促す取り組み事例

ttps://hibiki.dreamarts.co.jp/smartdb/learning/le210719/

小集団活動

ttps://ja.wikipedia.org/wiki/小集団活動

かつて私が在籍していた会社の社長がトヨタ出身で、「カイゼン」を掲げて小集団活動を推進、三か月に一度、班ごとにプレゼンテーションを行っておりました。当時の勤務体制が3交代制で、発表直前になると夜勤明けなのに、その日の夜までパソコンに向かっていたのなんて当たり前でした。これで残業代なんてありません。ここで問題なのは、三か月に一度の発表という高頻度にも拘らず、残業代が付かない事、準備期間もあるので結構な時間になります。次にやる奴とやらない奴が必ず出るという事。ストレスになってきてその会社辞めたんですが。

以上は個人的な問題でしたが、活動すること自体が目的になってしまうのはどうなの?最初の内は良いのです。実は私の入社当時は発表が半年ごとだったのです。それがいつのまにやら三か月ごとに発表しなければならなくなったのは、目的がすり替わったからでしょう。即ち、意識が入れ替わったのだと。まるで感染防止の為にワクチン接種して感染しているようなナンセンスさ。

日本農業が抱える3つの問題|農家ができる未来へ向けた解決策とは?

ttps://minorasu.basf.co.jp/80466

新型コロナワクチンの接種回数について (令和6年4月1日公表)

ttps://www.mhlw.go.jp/stf/seisakunitsuite/bunya/kenkou_iryou/kenkou/kekkaku-kansenshou/yobou-sesshu/syukeihou_00002.html

都道府県別等の実績

ttps://www.mhlw.go.jp/content/kenbetsu-vaccination_data3.pdf

年齢階級別の実績

ttps://www.mhlw.go.jp/content/nenreikaikyubetsu-vaccination_data.pdf

In Deepの管理人さんは、当初からワクチンの危険性を訴えてきた方です。読みに行ってくださった方が良いのですが、

という事です。このワクチンの真の恐ろしさは、「7番目の年の終わり」2025年末から、「10番目の910コトの年」2028年に「周知」される事になると思いますが、一番かわいそうなのは「次の四(世)の種」抵抗力の弱い子供です。

第7回ワクチン非接種・未接種の方の出逢いの会

ttps://www.yokohama-ryoen.jp/7th-Nonvaccinatedevent

恋愛はロジックに非ず。「余命〇〇」という深刻な話では無いものの、かつて「理想に相反する相手を求めた」事による苦しみを味わった者の成れの果ての戯言です。

第二十六話「松の巻 第十二帖」

前にも建て替えはあったのだが、三千世界の建て替えではなかったから、
どの世界にでも少しでも曇りあったら、それが大きくなって、悪は走れば苦労に甘いから、
神々様でも、悪に知らず知らずになって来るのだぞ。
それで今度は元の生き神が天晴れ現れて、悪は影さえ残らぬよう、根本からの大洗濯するのぞ、
神々様、守護神様、今度は悪は影も残さんぞ。早う改心なされよ。
建て替えのこと 学や智ではわからんぞ。

昭和20年6月28日(1945年 皇紀2605年 乙酉)

8月8日に日向灘で発生した地震で被災された方をはじめ、周辺地域の方々にお見舞い申し上げます。この暑い最中に水道の水が濁っているとされる話もあり、地震そのものは勿論ですが、体調管理の程くれぐれもお気を付けください。今回の地震は噴火によるものでは無いのですが、先日の第二十話で「姶良カルデラ」、「鬼界カルデラ」等について言及した事もあって、それらとの関連はどうなのかという懸念もあります。特に鬼界カルデラの噴火については「たったの」約7,300年前に過ぎないのですから。

令和5年度 日向市権現原浄水場水安全計画 (PDF/614.87キロバイト)

ttps://www.hyugacity.jp/tempimg/20230907151406.pdf

大型河川の存在は頼もしいのですが、いかんせん浄水場が被災地に集中しているところが…。あと、pdfを見る限り、ろ過地以降で毒物(シアン化合物、水銀、ヒ素など)が「d」、大腸菌、ウイルス、クリプトスポリジウム等(耐塩素性病原生物)が「e」というのが気になるところです。取水~ろ過地までは水源と同様、素人目には問題が少ない様に見えるのですが、ろ過地以降でリスクが跳ね上がるというのは…。こういう事があったからたまたま目についているだけで、今日、私たちの住んでいるところも実態はこんな感じなんでしょうか?更にひどいのでしょうか?何にせよ、ろ過地以降のリスク上昇の原因は看過して良いものでは無いでしょう。

宮崎県日向灘を震源とする地震による被害状況等について(第 3 報)

ttps://www.mlit.go.jp/common/001758871.pdf

断水に至っているのは8日の時点で宮崎県串間市だけのようです。点検対象ダムについては、その全てで一次点検で異常無しだそうです。9日の時点でJR九州は通常のダイヤに戻っているようです。BRTひこぼしラインについては、7月2日から日田市内 国道386号線の一部区間が災害の影響により通行止となっているため、夜明駅~光岡駅間の一部で迂回運転しているので、今回の地震とは関係ない別の理由です。

本日の規制情報

ttps://roadi.pref.miyazaki.lg.jp/roadinfo/public/index.htm

宮崎県域の道路状況です。交通規制もだいぶ解除されたみたいです。

松の巻 第二十九帖

豊受の大神様 お山の富士に祀り、箸供えて、お下げした箸、皆に分けてやれよ。
饌に難儀せんよう守り下さるぞ。
仕組み少し早うなったから、かねて見せてあったこと八月八日から始めてくれよ。
火(ひ)と水(み)に気つけよ。拝めよ。
キの御用大切ぞ。ケの御用大切ぞ。クの御用大切ぞ。
神は気引いた上にも気引くから、とことん試すから、そのつもりでお蔭落とさんようにせよ。
二十五柱 役員ぞ。慢心すれば替え身魂使うぞ。この巻、松の巻。

昭和20年7月19日(1945年 皇紀2605年 乙酉)

8月8日

ttps://ja.wikipedia.org/wiki/8月8日

ソ連対日参戦

ttps://ja.wikipedia.org/wiki/ソ連対日参戦

郵政解散

ttps://ja.wikipedia.org/wiki/郵政解散

象徴としてのお務めについての天皇陛下のおことば

ttps://ja.wikipedia.org/wiki/象徴としてのお務めについての天皇陛下のおことば

これみよがしっぽくてタイトルにはしなかったのですが、特に20世紀に入ってからの日本において、「8月8日」は「結構な日」だと思います。郵政解散がショボいって?私から言わせれば、国の財産売り渡すなんて「売国奴の所業」ですよ?「金大中事件」、「ウォーターゲート事件」もこの日です…。

五葉之巻 第十二帖

八のつく日に気つけてあろうが、八とはひらくことぞ。
今が八から九に入る時ぞ、天も地も大岩戸ひらき、
人民の岩戸ひらきにもっとも都合のよい時ぞ。天地の波にのればよいのじゃ。
楽し楽しで大峠越せるぞ、神は無理申さん、やればやれる時ぞ、
ヘタをすると世界は泥の海、神々様も人民様も心の目ひらいて下されよ、
新しき太陽は昇っているでないか。

昭和36年9月1日(1961年 皇紀2621年 辛丑)

第二十五話「地つ巻 第十一帖」

世界丸めて一つの国にするぞと申してあるが、
国はそれぞれの色の違う臣民によって一つ一つの国作らすぞ。
その心々によって、それぞれの教え作らすのぞ。旧きものまかりて、また新しくなるのぞ。
その心々の国と申すは、心々の国であるぞ、一つの王で治めるのだぞ。
天つ日嗣の実子様が世界照らすのぞ。国のひつきの御役も大切の御役ぞ。
道とは三つの道が一つになることぞ、みち満つことぞ、
元の昔に返すのだぞ、つくり固めの終わりの仕組みぞ、
終わりは始めぞ、始めは霊ぞ、富士、都となるのだぞ、幽国行きは外国行きぞ。
神の国光って目あけて見れんことになるのだぞ、臣民の身体からも光が出るのだぞ、
その光によって その御役、位、わかるのだから、
みろくの世となったら何もかもハッキリして うれしうれしの世となるのぞ、
今の文明なくなるのでないぞ、たま入れていよいよ光って来るのぞ、
手握って草木も四つ足もみな唄うこととなるのぞ、
御光に みな集まって来るのだぞ、てんし様の御光は神の光であるのだぞ。

昭和19年9月21日(1944年 皇紀2604年 甲申)

神典研究家で神名には明るかった天明氏でさえ、天之日月神がいかなる神なのか、また、どこに鎮座され祀られている神なのか分からなかったそうですが、私が調べた限りでは、享保7年(1722年)成立の『佐倉風土記』の記述が最も古かったです。上のページの次にアイキャッチという順番が本来です。第十七話の佐倉惣五郎事件当時の藩主・堀田正信から堀田氏が再び佐倉藩を治めるまでの間に幾度か藩主が交代したのですが、稲葉正往が治めていた時代、藩儒・磯辺昌言によって佐倉風土記は執筆されました。約百年の後、堀田正信の孫である堀田正亮が佐倉藩に戻ってくると、「前期堀田氏」の改易と結びつける伝承が生じていた、佐倉惣五郎父子の慰霊を行いました。それ以降、幕末に至るまで佐倉藩を治めていた堀田氏を指して「後期堀田氏」と呼ぶそうです。安政4年(1857年)10月に完成した『利根川図誌』(赤松宗旦氏/著)についての麻賀多神社の記述は、その佐倉風土記を参照しているようです。戻ってきた堀田氏は信心深くなったようで、佐倉市鏑木町にある麻賀多神社は「佐倉藩総鎮守」です。

麻賀多十八社 社殿/鳥居 比較

ttps://chiba.jinja.love/?p=12472

かつては三十八座あったものの、享保7年時点での摂社・末社は五座で、印波國造社、幸靈さきたま神社、馬來田まくた朗女いらつめ神社、猿田彦神社、天日津久神社となっていたようです。まず伊都許利命を祀るのは分かる、猿田彦神社も分かるのですが、ここからが問題です。幸靈さきたま神社(幸霊神社)?愛知県に幸霊社という神社があるそうですが、あちらも由来不明だそうです。島根県松江市に、三穂津姫命を祀るという幸魂神社があるそうですが、断定まではちょっと…。馬來田まくた朗女いらつめ神社(馬来太郎女神社)という名前から察するに木更津市馬来田辺りに由来する神社だと思うんですが…。「が」ばっかり。縁起不明神社ばっかり。

日の出の巻 第十五帖

十柱の神様 奥山に祀りてくれよ、九柱でよいぞ、
いずれの神々様も世の元からの肉体持たれた生き通しの神様であるぞ、
この方合わせて十柱となるのだぞ。御神体の石 集めさせてあろうがな、
篤く祀りて、辛酉の日にお祭りしてくれよ。病あるかないか、災難来るか来ないかは、
手届くか届かないかでわかると申してあろうがな。届くとは注ぐことぞ、
手首の息と腹の息と首の息と頭の息と足の息と胸の息と臍の息と脊首の息と手の息と
八所十所の息合っていれば病ないのだぞ、
災難見ないのだから、毎朝 神拝みてから よく合わせてみよ、
合っていたらその日には災難無いのだぞ、殊に臍の息一番大切だぞ、
もしも息合っていない時には一二三唱えよ、唱え唱えて息合うまで祷れよ、
どんな難儀も災難も無くしてやるぞ、この方 意富加牟豆美神であるぞ。
神の息と合わされると災難、病無くなるのだぞ、大難小難にしてやるぞ、生命助けてやるぞ、
このことはこの方信じる人でないと誤るから知らすではないぞ、
手二本 足二本いれて十柱ぞ、手足一本として八柱ぞ、
このこと 早う皆に知らして どしどしと安心して働くようにしてやれよ。
飛行機の災難も地震罪穢れの禍いも、大きい災難ある時には息乱れるのだぞ、
「一二三祝詞」と「祓え祝詞」と神の息吹きと息と一つになっておれば災難逃れるぞ、
信じる者ばかりに知らせてやってくれよ。

昭和19年12月18日(1944年 皇紀2604年 甲申)

オオカムヅミ

ttps://ja.wikipedia.org/wiki/オオカムヅミ

賀茂神社 (阿波市)

ttps://ja.wikipedia.org/wiki/賀茂神社_(阿波市)

桃太郎神社 (犬山市)

ttps://ja.wikipedia.org/wiki/桃太郎神社_(犬山市)

天明氏は日月神示について、実際は色々な霊が懸かってきたと証言しておりますし、鳴門の御用(イイヨリの御用)は香川県高松市庵治町の太鼓岩と言われてますし、尾張の御用の詳細は不明ですが、立ち寄ってはいないと思われます。一方、日月神示が降りる前、天明氏は桃太郎の絵を描いて生計を立てていた時期があったそうです。その意味では天明氏を助けた神様という事になります。

麻賀多神社縁起

ttp://www14.plala.or.jp/nikorobin/magataengi.html

何か十八社以上あるのは気にしないとして、小麻賀多神社(駒形神社)って何?

駒形神社

ttps://ja.wikipedia.org/wiki/駒形神社

とはいっても小麻賀多神社の祭神は稚産霊神になっているようなので、やっぱり麻賀多神社なんだなと。

皇位

ttps://ja.wikipedia.org/wiki/皇位

ところで、「あまのひつく」、「日嗣」という神名は、古代では「日嗣(ひつぎ)」が皇位と同義語であり、大本事件に巻き込まれた天明氏にとっては、大変危険な名前だったと言えます。一応官憲に対する配慮はあったのか、戦後の「雨の巻 第一帖」までは「日津久」表記でした。(例外は終戦十日前の「夜明けの巻 第九帖」で「天津日嗣皇尊大神」を称した。)実は「あまのひつぎ」で検索すると、こういうサイトもヒットするようになるのです。

あまのひつぎ

ttp://jmapps.ne.jp/kokugakuin/det.html?data_id=31655

郷社麻賀多神社。
●台方にあり祭神を稚産霊神となす。応神帝の朝印波国造伊都許利命の齋祀せる所なりという延喜式内神社の1つ。(中略)印旛沼畔に一大華表あり延歴2年9月勅使大伴家持卿始めて建立せる所なりと云う。爾来61年毎に建替を定例とする又郡内の一勝地なり。

以下、万葉百科 奈良県立万葉文化館 様

ttps://manyo-hyakka.pref.nara.jp/db/detail?cls=db_manyo&pkey=4089

巻18-4089 獨居幄裏、遥聞霍公鳥喧作歌一首〔并短歌〕

高御座天の日継と天皇の神の命の聞し食す国のまほらに山をしもさはに多みと百鳥の来居て鳴く声春されば聞きのかなしもいづれをか別きてしのはむ卯の花の咲く月立てばめづらしく鳴くほととぎすあやめぐさ玉貫くまでに昼暮らし夜渡し聞けど聞くごとに心つごきてうち嘆きあはれの鳥と言はぬ時なし

高御座にあって、天日をうけ嗣ぐものとして、天皇たる神の命がお治めになる国、この秀れた国土には山があちこちに多いので、いろいろな鳥がやって来て鳴く。その声は春になると聞いていてかわいいことよ。どの声がいいというのでもないが、中でも卯の花の咲く月になると、愛らしく鳴くほととぎすは、菖蒲草を薬玉に通す五月まで、昼は一日中、夜は一晩中聞いても聞くたびに心が動いて感嘆し、興尽きない鳥だといわない時はない。

ttps://manyo-hyakka.pref.nara.jp/db/detailLink?cls=db_manyo&pkey=4094

巻18-4094 賀陸奥國出金詔書歌一首〔并短歌〕

葦原の瑞穂の国を天降り領らしめしける皇御祖の神の命の御代重ね天の日嗣と領らし来る君の御代御代敷きませる四方の国には山川を広み厚みと奉る御調宝は数へ得ず尽しもかねつ然れどもわが大君の諸人を誘ひ給ひ善き事を始め給ひて黄金かもたしけくあらむと思ほして下悩ますに鶏が鳴く東の国の陸奥の小田なる山に黄金ありと申し給へれ御心を明らめ給ひ天地の神相誘なひ皇御祖の御霊助けて遠き代にかかりし事を朕が御代に顕はしてあれば食国は栄えむものと神ながら思ほしめして物部の八十伴の緒を服従の向けのまにまに老人も女童児も其が願ふ心足ひに撫で給ひ治め給へば此をしもあやに貴み嬉しけくいよよ思ひて大伴の遠つ神祖のその名をば大来目主と負ひ持ちて仕へし官海行かば水浸く屍山行かば草生す屍大君の辺にこそ死なめ顧みはせじと言立てますらをの清きその名を古よ今の現に流さへる祖の子等そ大伴と佐伯の氏は人の祖の立つる言立て人の子は祖の名絶たず大君に奉仕ふものと言ひ継げる言の官そ梓弓手に取り持ちて剣大刀腰に取り佩き朝守り夕の守りに大君の御門の守りわれをおきてまた人はあらじといや立て思ひし増る大君の御言の幸の/ [一は云はく、を]聞けば貴み[一は云はく、貴くしあれば]

葦がしげるみのり豊かなこの国土を、天から降ってお治めになった皇祖の神の御代を重ねて、天日を継承するものとして支配なさる天皇の御代御代に、統治なさる四方の国には、山や川が広く豊かなので、貢上する宝物は数えきれず尽くすこともできない。しかしながらわが大君は、多くの人々をさそってりっぱな事業をお始めになってから、黄金がたしかにあるだろうかとお考えになり、心を悩ませておいでだった。ところが鶏の鳴く東の方、陸奥の小田という山に黄金があると申しあげると、御心のふさぎをお晴らしになった。「天地の神々も尊いこととお思いなさり、皇祖の御魂も恩恵を施され、遠い昔にあった、こうした事を、またわが御代にもお見せくださったので、わが統治の国は繁栄するにちがいない」と、大君は神の御心にお考えになり、多くの廷臣たちを従え政治に向かわせる一方、老人も、女も子供も、その願いが心のままに満足するように安らかにさせ、治めなさる。そのことを私は、ふしぎに尊く嬉しいことと、ますます考える。大伴という、遠い祖先の名を大来目主として掲げもち、朝廷奉仕を役目として来た氏は「海に征けば水につかる屍、山に戦えば草のはえる屍。大君のかたわらに死のう。わが身をふりむくまい」と言立てをして、勇敢な男の清らかな名を昔から今の現実に伝えて来た末の一族であるよ。大伴・佐伯の両氏は、祖先の立てた言立てによって、子孫が祖先の名を絶やさず大君に奉仕するものと言い伝えて来た、そのことばどおりの役目の氏であるよ。梓の弓を手に握り持ち、剣太刀を腰に帯び「朝の守護・夜の守護に大君の御門の守護をするのには、自分以外に人がいまい」と、ますます心をふるい立たせ、気持は高ぶる。大君のおことばの幸いが〔一ハ云ワク、を〕、聞けば尊いので〔一ハ云ワク、尊く思われるので〕。

ttps://manyo-hyakka.pref.nara.jp/db/detail?cls=db_manyo&pkey=4098&dicCls=d_kanno&dicDataId=18&detaillnkIdx=0

巻18-4098 為幸行芳野離宮之時、儲作歌一首〔并短歌〕

高御座天の日継と天の下知らしめしける皇祖の神の命の恐くも始めたまひて貴くも定めたまへるみ吉野のこの大宮にあり通ひ見したまふらしもののふの八十伴の緒も己が負へる己が名負ふ負ふ大君の任けのまくまくこの川の絶ゆることなくこの山のいや継ぎ継ぎにかくしこそ仕へ奉らめいや遠長に

高御座にあって、天日を承けつぐものとして天下をお治めになった遠い天子が、畏れ多くも始めなさり貴くもお定めになったみ吉野のこの大宮に、わが大君は通いつづけて風景を御覧になるらしい。多くの廷臣たちも、それぞれがもつ氏の名にたえず背かず、大君の任命に応じつづけ、この川が絶えることのないように、この山が次々と重なるように、このようにお仕え申し上げよう。一層永遠に。

ttps://manyo-hyakka.pref.nara.jp/db/detail?cls=db_manyo&pkey=4254

巻19-4254 向京路上、依興預作侍宴應詔歌一首〔并短歌〕

あきづ島大和の国を天雲に磐船浮かべ艫に舳にま櫂しじ貫きい漕ぎつつ国見しせして天降りまし払ひ言向け千代重ねいや継ぎ継ぎに知らしける天の日継と神ながら我ご大君の天の下治めたまへばもののふの八十伴の緒を撫でたまひ整へたまひ食す国の四方の人をもあぶさはず恵みたまへば古ゆなかりし瑞度まねく申したまひぬ手抱きて事なき御代と天地日月と共に万代に記し継がむそやすみしし我ご大君秋の花しが色々に見したまひ明らめたまひ酒みづき栄ゆる今日のあやに貴

秋津島の大和の国を、天雲に磐船を浮かべ、船尾にも船首にも左右の櫂を一面に通して漕ぎながら国見をなさって地上にお降りになり、邪魔者を掃い従え、千代を重ねて一層次々と平定なさってきた天皇の御位にあって、神のままにわが大君が天下をお治めになると、廷臣の多くの者どもをいつくしみなさり、整備なさり、支配する国土のあらゆる人々をも残さずお恵みになるので、昔からなかった瑞祥が度々奏上されることだ。何もせず手を組んでいても太平な御代として、天地・日月と共に万代の後までも記録しつがれるだろう。八方を支配されるわが大君が、秋の花のさまさまな色どりを、それぞれに御覧になって御心を晴らす、酒宴が賑やかな今日の、ふしぎな貴さよ。

ttps://manyo-hyakka.pref.nara.jp/db/detail?cls=db_manyo&pkey=4465

巻20-4465 喩族歌一首〔并短歌〕

ひさかたの天の門開き高千穂の岳に天降りし皇祖の神の御代よりはじ弓を手握り持たし真鹿児矢を手挟み添へて大久米のますら健男を先に立て靫取り負ほせ山川を岩根さくみて踏み通り国求ぎしつつちはやぶる神を言向けまつろはぬ人をも和し掃き清め仕へ奉りてあきづ島大和の国の橿原の畝傍の宮に宮柱太知り立てて天の下知らしめしける天皇の天の日継と継ぎて来る君の御代御代隠さはぬ明き心を皇辺に極め尽くして仕へ来る祖の官と言立てて授けたまへる子孫のいや継ぎ継ぎに見る人の語り次てて聞く人の鑑にせむをあたらしき清きその名そおぼろかに心思ひて空言も祖の名絶つな大伴の氏と名に負へるますらをの伴

ひさかたの天の戸を開き、高千穂の嶺に天降った、天皇の祖先神の昔から、わが一族は櫨弓を手に握り持ち、真鹿児矢を脇にかかえて、大久米部の勇敢な男たちを先頭に立て、靱を背に山川の岩を踏み分け踏みくだいて国土を求めつつ、ちはやぶる神を平定し、反抗する人々も従え、邪悪なものを一掃して、お仕え申して来た。また、秋津島の大和の国の橿原の畝傍の宮に、宮殿の柱をりっぱに立てて天下を支配なさった皇祖の、それ以来の御位として引き継いで来た君の御代御代に、隠しへだてなく赤心を、天皇に向けて極め尽してお仕えして来た。そうした祖先代々の役目としてことばにあげて天皇が官をお授けになるわれら子孫は、一層次々と、見る人が語りつぎ聞く人が手本にするはずのものを。惜しむべき清らかなその名であるよ。あさはかに思慮して、かりそめにも祖先の名を絶やすな。大伴を氏の名にもつ大夫たちよ。

大伴宿禰家持

ttps://manyo-hyakka.pref.nara.jp/db/detail?cls=db_manyo&pkey=4509&dicCls=d_utabito&dicDataId=174&detaillnkIdx=0&lnkDic=true

巻20-4509 波布久受能多要受之努波牟於保吉美乃賣之思野邊尒波之米由布倍之母

延ふ葛の絶えず偲はむ大君の見しし野辺には標結ふべしも

蔓(つる)を伸ばす葛のように絶えずお慕いしよう。大君が御覧になった高円の野辺には標縄(しめなわ)を張っておくべきであるよ。

「一の鳥居」第0話のカット違いです。

大伴家持

ttps://ja.wikipedia.org/wiki/大伴家持

大伴馬来田

ttps://ja.wikipedia.org/wiki/大伴馬来田

大伴吹負

ttps://ja.wikipedia.org/wiki/大伴吹負

天武天皇の代には、弟の吹負が常道頭(常陸国の守)を務めたとあるので、兄の馬来田も馬来田を治めた可能性は高いです。従って家持の頃、大伴家は上総国から常陸国にかけて一定の影響力があった。伴氏神社の創祀が平安京遷都時(延暦13年/794年)とされているので、一の鳥居を寄進した当時は、大伴氏は祭祀する神社を持っていなかったと考えられます。

ただ一点、疑問が残ります。

第二十四話「夜明けの巻 第十二帖」

あら楽し、あなさやけ、元津御神の御光の、輝く御代ぞ近づけり。
岩戸開けたり野も山も、草の片葉も言止めて、大御光に寄り集う、誠の御代ぞ楽しけれ。
今一苦労二苦労、とことん苦労あるなれど、楽しき苦労ぞめでたけれ。
申、酉過ぎて戌の年、子の年 めでたけれ。
一二三の裏の御用する身魂も今に引き寄せるから、
その覚悟せよ。覚悟よいか。待ちに待ちにし秋来たぞ。

昭和20年8月7日(1945年 皇紀2605年 乙酉)

ひふみ、よいむなや、こともちろらね、しきる、ゆゐつわぬ、そおたはくめか、
うをえ、にさりへて、のます、あせえほれけ。

昭和20年8月8日(1945年 皇紀2605年 乙酉)

夜中、散歩していたら「カサッ」と音がしたので見てみたら、どうやらカブトムシを蹴ってしまったらしく、ひっくり返って手足をジタバタさせていた。とりあえず踏まないで良かった。すまなかったなと思いつつ起こしてあげたが、8月と言うヤツは、余りにも「生と死」のギャップが激しい。私はセミの鳴き声を聞くのが好きなのですけど、そんな彼らは人生の大半を暗い土の中で過ごし、晴れて表に出てもその先、生きられるのは僅か数日間。そんな事を考えるのは日本に生まれた者というだけではなく、母親を19で、父親を37で亡くした事の方が大きいと思います。とりわけ母親の齢を過ぎた時の心境といったら…。

夜明けの巻 第十一帖

岩戸開きのはじめの幕 開いたばかりぞ。
今度はみづ逆さに戻るのだから、人民の力ばかりでは成就せんぞ。
奥の神界では済みているが、中の神界では今最中だぞ。
時待てと申してあろうが。人民 大変な取り違いしているぞ。
次の世の型 急ぐ急ぐ。

昭和20年8月6日(1945年 皇紀2605年 乙酉)

神示読まないで、智や学でやろうとて、何もかも九分九厘で終局(厘止まり)ぞ。
我が我がが取れたらわかって来るぞ。慢心恐ろしいぞ。

昭和20年8月7日(1945年 皇紀2605年 乙酉)

広島原爆投下翌日の神示です。上に挙げた第十一帖もそうですが、一帖が二日に渡って記述されているという珍しい神示でもあります。「待ちに待ちにし秋来たぞ」の「秋」は、「安芸国」を指しているというのが定説かと思います。この秋を「とき」と読ませておりますが、第十一帖の「時待て」や、第七帖の「時、来たぞ」がどのように記述されていたのか?という点はには大変興味があります。また、第十二帖で目を引くところは「申、酉過ぎて戌の年、子の年 めでたけれ」という記述。これは第十一話第二十三話で挙げた磐戸の巻 第十六帖の「子の歳真ん中にして前後十年が正念場、世の建て替えは水と火とだぞ」という記述の「建て替え」という部分を終末予言と結び付けている事に対する戒めが第十一帖の「大変な取り違いしているぞ」と思います。そうとはいえ、終戦までに解読されていた神示の少なさと、当時の切羽詰まった状況を考えるなら、そう思っても仕方がないように思えます。

五葉之巻 第十五帖

今に大き呼吸もできんことになると知らせてあろうが、その時来たぞ、
岩戸がひらけると言うことは
【半分のところは天界となることじゃ、天界の半分は地となることじゃ】、
今の肉体、今の理念、今の宗教、今の科学のままでは岩戸は開けんぞ、
今の肉体のままでは、人民は生きて行けんぞ、
一度は仮死の状態にして魂も肉体も、半分のところは入れ変えて、
ミロクの世の人民として よみがえらす仕組み、心得なされよ、
神様でさえ、このことわからん御方あるぞ、大地も転位、天も転位するぞ。

昭和36年9月1日(1961年 皇紀2621年 辛丑)

五葉之巻 第十六帖

マコトでもって洗濯すれば霊化される、半霊半物質の世界に移行するのであるから、
半霊半物の肉体とならねばならん、今のやり方ではどうにもならなくなるぞ、
今の世は灰にするより他に方法のないところがたくさんあるぞ、
灰になる肉体であってはならん、原爆も水爆もビクともしない肉体となれるのであるぞ、
今の物質で作った何物にも影響されない新しき生命が生まれつつあるのぞ。
岩戸ひらきとはこのことであるぞ、
少しくらいは人民つらいであろうなれど勇んでやりて下されよ、大弥栄の仕組み。

昭和36年9月1日(1961年 皇紀2621年 辛丑)

夜明けの巻 第十一帖で「今度はみづ逆さに戻るのだから」としている以上、これが、黄泉比良坂の岩戸明けに関連しているのは間違いないでしょう。しかも原爆投下のタイミングで言及した意味は、その事が原理を同じくするのではないかという「憶測」が成り立ちます(あえて憶測という言葉にしておきます)。ただし、ビキニ環礁どころかツァーリ・ボンバでさえも岩戸明けに至らしめられなかったのであるから、単純にそんなレベルでは無いです。現状、岩戸明けに至るプロセスは二点ほど考えられますが、それを口に出しても形を変えて現れてしまいますし、これらは既に顕在化してしまったので、仮に核兵器の全廃を為し得たとしても、異なるプロセスで起こる可能性があります。それは岡本天明伝[日月神示]夜明けの御用(黒川柚月氏/著)の273ページの[注2]の記述にもありますが、この事を説明するのは正直難しいのです。

だから第二話のような日食・月食予想など、予め確定している話を出す程度で、未来の話はもちろん、今日現在進行形の話ですらしないようにしているのです。経綸の邪魔はしたくないからです。だからと言って、私はこの経綸に納得しているわけではありません。第十六帖においては更に踏み込んで「半霊半物質の世界」とまで記述されているのですが、正直、私はそのような世界を望んではいないのです。私の経綸の解釈が間違いであって欲しいとさえ思っているのですが。これには子供の頃に「さよなら銀河鉄道999・アンドロメダ終着駅」という作品に触れた事が大きく影響しています。

銀河鉄道999 (アニメ)

ttps://ja.wikipedia.org/wiki/銀河鉄道999_(アニメ)

漫画版か、TV版か、劇場版か、というのはあるんですけど、私はTV版の第一話から見ていた事から、最初の劇場版の鉄郎のデザイン変更に違和感を感じたものの、見終わってみると大好きな作品になりました。まだ少年キングを手軽に買えるほどの年齢では無かったので、漫画版を見たのは、単行本が発売されて友人が買ったのを見せてもらってからです。さよなら銀河鉄道999・アンドロメダ終着駅は、1981年夏に公開されたのですが、私が見たのは公開時ではなく、アンコール公開された時です。何故かというと、この頃は既に「鉄」への興味も薄れていた事に加え、ガンダムに毒されていたからです、どうでもいい事ですが。

作者である松本零士氏は、1981年9月の原作終了と同年夏公開『さよなら銀河鉄道999・アンドロメダ終着駅』を以って本作は完結、それを無理につなげて創作するのは「デッチあげ」であってもう2度と作らないとしていたのですが、後の1996年、「エターナル編」がスタートしています。令和5年(2023年)2月13日、松本零士氏は85歳で亡くなりました。進駐軍兵士がばら撒くキャンディーなどを「食べたくて仕方なかったが全部下駄で踏みつけて潰した」というエピソードが残る筋の通った方でもあったようです。先生の言うように、『さよなら銀河鉄道999・アンドロメダ終着駅』は、物語の流れからしても完結編のように思えます。Wikiにも書かれているように、本作は「生きるとは何か」「永遠に生きることは果たして本当に幸せなのか」といった人生観の模索こそが大きなテーマである事は明白にされています。

白銀の巻 第一帖

「天地のことわり書き知らすぞ」この巻しろかねの巻。
天国じゃ、地獄じゃ、浄土じゃ、穢土じゃと申しているが、そんな分けへだてはないのであるぞ。
時、所、位に応じて色々に説き聞かせてあるのじゃが、
時節到来したので、まことの天地のことわりを書き知らすぞ。
三千の世界の中の一つがそなたたちの世界であるぞ。
この世もまた三千に分かれ、更に五千に分かれているぞ。このほう五千の山にまつれと申してあろう。
今の人民の知り得る世界はその中の八つであるぞ。人民のタネによっては七つしかわからんのであるぞ。
日の光を七つと思うているが、八であり、九であり、十であるぞ。
人民では六つか七つにしか分けられまいが、岩戸がひらけると更に九、十となるぞ。
「隠してある一厘の仕組み、九十の経綸、成就した暁には何も彼もわかる」と申してあろうが。
八つの世界とは、
、△、▽、ア、オ、ウ、エ、イであるぞ。
八は固、七は液、六は気、五はキ、四は霊の固、三は霊の液、二は霊の気、一は霊のキ、と考えてよいのじゃ。
キとは気の気であるぞ。その他に逆の力があるぞ。九と十であるぞ。
その上にまた霊の霊の個から始まっているのであるが、それはムの世界、無限の世界と心得よ。
霊界に入って行けば、その一部は知れるなれど、皆ただちにはわからないのであるぞ。
わからんことはわからんと、わからねばならんと申してあろうがな。
天、息吹けば、地、息吹くと申してあろう。このことよくわきまえよ。
地の規則、天の規則となることあると申して知らせてあろう。この大切こと忘れるでないぞ。
おもいの世界が天ぞ。にくの世界が地ぞ。おもいは肉体と一つぞ。二つぞ。三つぞ。
おもい起こって肉体動くぞ。肉体動いておもい動くこともあるぞ。
生まれ赤児の心になって聞いて下されよ。何も彼も、ハッキリうつるぞ。
陰と陽、右と左、上と下、前と後、男と女と考えているなれど、
タカミムスビとカミムスビと考えているなれど、別のミナカヌシ、現れるぞ。
、⊕、、卍、卐、+、+、よく見て下されよ。
一であり、二であり、三であろうがな。三が道と申してあろう。陰陽二元でないぞ。三元ぞ。三つであるぞ。
ゝなくてはならん。ゝにもかくれたゝと現れたゝとがあるぞ。このことまず心得て下されよ。
そなたたちは父と母と二人から生まれ出たのか。そうではあるまいがな。
三人から生まれ出ていることわかるであろうがな。どの世界にも人が住んでいるのであるぞ。
の中にがあり、その中にまたがあり、限りないのだと知らせてあろうが。
そなたたちの中にまた人がいて限りないのじゃ。このほう人民の中にいると知らせてあろうがな。
そなたたちも八人、十人の人によって生きているのぞ。また十二人でもあるぞ。
守護神と申すのは心のそなたたちのことであるが、段々変わるのであるぞ。
自分と自分と和合せよと申すのは、八人十人のそなたたちが和合することぞ。
それを改心と申すのだぞ。和合した姿を善と申すのじゃ。
今までの宗教は肉体を悪と申し、心を善と申して、肉体をおろそかにしていたが、
それが間違いであること合点か。一切がよいのじゃということ合点か。地獄ないこと合点か。
悪抱き参らせよと申してあること、これで合点か。合点じゃなぁ。
各々の世界の人がその世界の神であるぞ。この世ではそなたたちが神であるぞ。
あの世では、そなたたちの心を肉体としての人がいるのであるぞ。それがカミと申しているものぞ。
あの世の人をこの世から見ると神であるが、その上から見ると人であるぞ。
あの世の上の世では神の心を肉体として神がいますのであって限りないのであるぞ。
裏から申せば、神様の神様は人間様じゃ。心の守護神は肉体じゃと申してあろうがな。
肉体が心を守っているのであるが、じゃと申して肉体が主人顔してはならんぞ。
どこまでも下に従うのじゃ。順乱すと悪となるぞ。生まれ赤児踏み越え、生まれ赤児になって聞いて下されよ。
そなたたちの本尊は八枚十枚の衣着ているのじゃ。死ということは、その衣、上から脱ぐことじゃ。
ぬぐと中から出て来て また八枚十枚の衣つけるようになっているのじゃ。
わかるように申しているのじゃぞ。取り違いせんようにせよ。
天から気が地に降って、ものが生命し、その地の生命の気がまた天に反影するのであるが、
まだまだ地には凸凹があるから気が天にかえらずに横にそれることあるぞ。
その横の気の世界を幽界と申すのじゃ。幽界は地で曲げられた気の作り出したところじゃ。
地獄でないぞ。

昭和24年12月14日(1949年 皇紀2609年 己丑)

黄金の巻 第二十九帖

二二の盗み合い、世の乱れ。
心して怪しいと思うことは、たとえ神の言葉と申しても一応は考えよ。
神の言葉でも裏表の見境なく唯に信じてはならん。審神者せよ。
薬、毒となることもあると申してあろうが。馬鹿正直、まことの道 見失うことあると申してあろうが。
道は易し、楽し。楽しくないのは道ではないぞ。奉仕ではないぞ。
世界に呼びかける前に日本に呼びかけよ。目醒まさねばならんのじゃ。それが順序と申すもの。
神示で知らせてあろうが。ここは種作るところ、種は人民で作れんぞ。
神の申すよう、神の息、いただいて下されよ。
天の道、地の道、天地の道あるぞ。人の道あるぞ。何も彼も道あるぞ。道に外れたもの外道じゃぞ。
道は一筋ぞ。二筋ぞ。三筋ぞ。曲がっているぞ。真っ直ぐであるぞ。
心得なされ。節分から
オーヒツキオーカミ)と現れるぞ。讃えまつれ。
三年の大ぐれ。

昭和24年11月27日(1949年 皇紀2609年 己丑)

私が日月神示のブログを始めたのは「たとえ神の言葉と申しても一応は考えよ」という一文あってなのです。だから本ブログ冒頭に載せているのです。従ってその言葉故に思うところを書きました。

原子爆弾投下の日に。

第二十三話「祭りの巻 第一帖」

五つに咲いた桜花、五つに咲いた梅の花、どちら採る気じゃ。
今までの教えではこの道わからんぞ、
ますます食う物なく曇りて来るぞ、その国その所々で当分暮らし向きできるぞ、
野見よ、森見よと申してあろう、青山も泣き枯れる時来ると申してあろう、
海川も泣き枯れる時来るぞ、
まだ聞かず我さえよければ良いと、我よししてござる人民神々様 気の毒来るぞ、
今までは神も仏も同じぞと申していたが神と仏とは違うのだぞ、
十(キリストの神)の動くが卍(仏)ぞ、卍の動くが(神)ぞ、
の澄みきりが(大神)ぞ、神と仏と臣民とは違うのじゃぞ。

昭和21年8月8日(1946年 皇紀2606年 丙戌)

「五つに咲いた桜花、五つに咲いた梅の花、どちら採る気じゃ」っていってる所に、「水神の森の」の画像ぶち込んでる108で御座います。大本神諭の明治二十五年旧正月の御筆先の「梅で開いて松で治める」というのを見てから画像を入れたからなんですけど。そういえば水神の森(甚兵衛公園)に「の木」が植えられてました。ここ松の森ですが。それで今回の神示、というわけでもないですが、「の巻」「の巻」「五葉の巻」(おそらく五葉松)はあれど「桜の巻」が無いというのが気になるところです。実際、日月神示には未だ公開されていない神示が存在するとされておりますが、それらについては詳細不明ですので…。

大本神諭 明治二十五年旧正月

三ぜん世界一同に開く梅の花、艮の金神の世に成りたぞよ。梅で開いて松で治める、神国の世になりたぞよ。
日本は神道、神が構わな行けぬ国であるぞよ。外国は獣類の世、強いもの勝ちの、悪魔ばかりの国であるぞよ。
日本も獣の世になりて居るぞよ。
外国人にばかされて、尻の毛まで抜かれて居りても、未だ眼が覚めん暗がりの世になりて居るぞよ。
是では、国は立ちては行かんから、神が表に現はれて、三千世界の立替へ立直しを致すぞよ。用意を成されよ。
この世は全然、新つの世に替へて了ふぞよ。
三千世界の大洗濯、大掃除を致して、天下太平に世を治めて、万古末代続く神国の世に致すぞよ。
神の申した事は、一分一厘違はんぞよ。毛筋の横巾ほども間違いは無いぞよ。
これが違ふたら、神は此の世に居らんぞよ。
『東京で仕組を駿河美濃尾張大和玉芝国々に、神の柱を配り岡山』 天理、金光、黒住、妙霊、先走り、
とどめに艮の金神が現はれて、世の立替を致すぞよ。
世の立替のあるといふ事は、何の神柱にも判りて居れど、何うしたら立替が出来るといふ事は、判りて居らんぞよ。
九分九厘までは知らしてあるが、モウ一厘の肝心の事は、判りて居らんぞよ。
三千世界の事は、何一とつ判らん事の無い神であるから、淋しく成りたら、綾部の大本へ出て参りて、
お話を聞かして頂けば、何も彼も世界一目に見える、神徳を授けるぞよ。
加美となれば、スミズミまでも気を付けるが加美の役。上ばかり好くても行けぬ、上下揃はねば世は治まらんぞよ。
洋服では治まらん、上下揃へて人民を安心させて、末代潰れぬ神国の世に致すぞよ。用意を為されよ。
脚下から鳥がたつぞよ。それが日本をねらふて居る国鳥であるぞよ。
○○○[※]までも自由に致して、神は残念なぞよ。日本の人民、盲目聾ばかり、神が見て居れば、井戸の端に、
茶碗を置いた如く、危ふて見て居れんぞよ。外国人よ、今に艮の金神が、返報返しを致すぞよ。
根に葉の出るは虎耳草、上も下も花咲かねば、此世は治まらぬ。上ばかり好くても行けぬ世。
下ばかり宜くても此世は治まらぬぞよ。
てん○○[※]綾部に仕組が致してあるぞよ。○○○[※]、○○○[※]を拵へて、元の昔に返すぞよ。
洋服を着てウロツク様な事では、日本の国は治まらんぞよ。国会開きは、人民が何時までかかりても開けんぞよ。
神が開かな、ひらけんぞよ。開いて見せう。東京は元の薄野に成るぞよ。永久は続かんぞよ。
東の国は一晴れの後は暗がり。これに気の付く人民はないぞよ。神は急けるぞよ。
此世の鬼を往生さして、地震雷火の雨降らして、○○○[※]ねば、世界は神国にならんから、
昔の大本からの神の仕組が、成就致す時節が廻りて来たから、苦労はあれど、バタバタと埒を付けるぞよ。
判りた守護神は、一人なりと早く大本へ出て参りて、神国の御用を致して下されよ。
さる代わりに勤め上りたら、万古末代、名の残る事であるから、神から結構に御礼申すぞよ。
世界中の事で在るから、何程智恵や学がありても、人民では判らん事であるぞよ。
此の仕組判りては成らず、判らねば成らず判らぬので、改心が出来ず、
世の立替の、末代に一度の仕組であるから、全然学や智恵を捨て了ふて、
生れ赤児の心に立返らんと、見当が取れん、六ケ敷仕組であるぞよ。
今迄の腹の中の、ごもくをさっぱり、投り出して了はんと、今度の実地まことは分りかけが致さん、大望な仕組であるぞよ。
氏神様の庭の白藤、梅と桜は、出口直の御礼の庭木に、植さしたので在るぞよ。
白藤が栄えば、綾部宜くなりて末で都と致すぞよ。福知山、舞鶴は外囲ひ。十里四方は宮の内。
綾部はまん中になりて、金輪王で世を治めるぞよ。
綾部は結構な処、昔から神が隠して置いた、世の立替の、真誠の仕組の地場であるぞよ。
世界国々所々に、世の立替へを知らす神柱は、沢山現はれるぞよ。
皆艮金神国常立尊の仕組で、世界へ知らして在るぞよ。 
大方行き渡りた時分に、綾部へ諸国の神、守護神を集めて、それぞれの御用を申付ける、
尊い世の根の世の本の、竜門館の高天原であるから、何を致しても綾部の大本の許しの無き事は、
九分九厘で転覆るぞよ。皆神の仕組であるから、我が我がと思ふて致して居るが、
皆艮の金神が、化かして使ふて居るのであるぞよ。此の神は独り手柄をして喜ぶやうな神で無いぞよ。
大本の仕組の判る守護神でありたら、互に手を曳き合ふて、世の本の立替立直しを致すから、
是までの心を入替へて、大本へ来て肝心の事を聞いて、御用を勤めて下されよ。
三千世界の神々様、守護神殿に気を付けますぞよ。谷々の小川の水も、大河へ末で一とつに為る仕組み。
綾部世の本、誠の神の住いどころ。
からと日本の戦いがあるぞよ。此いくさは勝ち軍、神が蔭から仕組が致してあるぞよ。
神が表に現はれて、日本へ手柄致さすぞよ。露国から始まりて、モウ一と戦があるぞよ。
あとは世界の大たたかいで、是から段々判りて来るぞよ。日本は神国、世界を一つに丸めて、一つの王で治めるぞよ。
そこへ成る迄には中々骨が折れるなれど、三千年余りての仕組であるから、
日本の上に立ちて居れる守護人に、チット判りかけたら、神が力を付けるから、大丈夫であるぞよ。
世界の大峠を越すのは、神の申す様に、素直に致して、何んな苦労も致す人民でないと、
世界の物事は成就いたさんぞよ。神はくどう気を付けるぞよ。此事判ける御魂は、東から出て来るぞよ。
此御方が御出になりたら、全然日の出の守護と成るから、世界中に神徳が光り輝く神世になるぞよ。
大将を綾部の高天原の竜門館に、○○[※]さんならん事が出て来るぞよ。
中々大事業であれども、昔からの生神の仕組であるから、別条は無いぞよ。
一旦たたかい治まりても、後の悶着は中々治まらんぞよ。神が表に現はれて、神と学との力競べを致すぞよ。
学の世はモウ済みたぞよ。神には勝てんぞよ。

(1892年1月30日)

基本宣伝歌

朝日は照るとも曇るとも
月はつともくるとも
たとへ大地は沈むとも
曲津まがつの神はすさぶとも
誠の力は世を救ふ

三千世界の梅の花
一度に開く神ののり
開いて散りて実を結ぶ
月日とつちの恩を知れ
この世を救ふ生神いきがみ
高天原たかあまはら神集かむつど

神が表に現はれて
善と悪とを立別たてわけける
この世を造りし神直日かむなほひ
心も広き大直日おほなほひ
ただ何事も人の世は
直日なほひに見直せ聞直せ
身のあやまちり直せ。

大本の聖典『霊界物語』の冒頭の、七五調の歌が『基本宣伝歌』です。「開いて散りて実を結ぶ」のが「梅」としているのですが、この表現が日月神示に無いのが気になります。

松の巻 第一帖

富士は晴れたり世界晴れ。三千世界一度に晴れるのだぞ。
世の元の一粒種の世となったぞ。松の御代となったぞ。
世界中に揺すって眼覚まさすぞ。三千年の昔に返すぞ。
煎り豆 花咲くぞ。上下ひっくり返るぞ。水も洩らさん仕組みぞ。

昭和20年6月17日(1945年 皇紀2605年 乙酉)

失礼とは思いますが、色々とツッコみたいところが…。

これ以上に鬼が笑いそうな未来…。

ところで6月6日は梅の日なそうですが、天文14年4月17日(旧暦1545年6月6日)、賀茂神社の例祭に梅が献上されたという故事に由来?え、旧暦にしても何か違和感が…?

宣明暦

ttps://ja.wikipedia.org/wiki/宣明暦

貞観4年1月1日(862年2月3日)に大衍暦・五紀暦から改暦され、貞享元年12月30日(1685年2月3日)まで、823年間使用された。貞享2年1月1日(1685年2月4日)、貞享暦に改暦された。

また、西暦の日付は1582年10月4日まではユリウス暦表示、1582年10月15日以降はグレゴリオ暦表示となっている。

現行の旧暦は寛政暦なので(言い方がおかしいですが)、1545年6月6日は4月27日になってしまいます。従って、宣明暦計算された日付が梅の日のようです。梅の季節?…収穫の季節か。それで梅雨なのね。

ウメ

ttps://ja.wikipedia.org/wiki/ウメ

梅の季節到来!さっぱり梅酒や梅ジュースで暑い夏を乗り切ろう!

ttps://www.maff.go.jp/j/seisan/tokusan/kansho/kakudai/ume.html

梅雨

ttps://ja.wikipedia.org/wiki/梅雨

本日のお題「祭りの巻 第一帖」は昭和21年8月8日の神示です。桜花と書いているので「見る桜」の話だと思うのですが、実は「」が大きくなりません。サクランボを成す果樹はミザクラ(実桜)類の品種です。だから学校の桜では実が成っていないでしょう?とはいえ梅も自家結実しない品種があるそうですが。

海の巻 第一帖

海の巻 書きしらすぞ、五つに咲いた桜花、五つに咲いた梅の花、
皆始めは結構であったが段々と時経るに従って役員がワヤに致したのじゃ、
気の毒ぞ、神の名汚しておるぞ。
大日月と現れたら、何かのことキビシクなって来て、
建て替えの守護と建て直しの守護に廻るから、その覚悟よいか。
間違った心で信心すれば、
信心せんより、もう一つ厳しくえらいことが満ちはじめ満つようになるぞ。
今にここの悪口申してふれ歩く人出て来るぞ、
悪口言われ出したら結構近づいたのだと申してあろう、悪口は悪の白旗だぞ。
飛んで来て上に止まっている小鳥、風吹くたびにびくびくじゃ、
大嵐来ん前にねぐらに帰って下されよ、大嵐 目の前。
ここはまず苦労、その苦労に勝ったら、己に克ったら魂磨けるぞ、
段々と楽になって嬉し嬉しとなるぞ、
結構な仕組み、知らせたら邪魔入るなり、知らさんのでわからんなり、
心で取りてくれよ、世界の民の会なせばなる、なさねば後悔ぞ。

昭和22年8月13日(1947年 皇紀2607年 丁亥)

黄金の巻 第五十四帖

目的よくても実行の時に悪い念入ると悪魔に魅入られるぞ。心せよ。
雨、風、岩、いよいよ荒れの時節じゃ。
世界に何とも言われんことが、病もわからん病がはげしくなるぞ。
食うべきものでない悪食うて生きねばならん時来るぞ。
悪を消化する胃袋、早うせねば間に合わん。梅干し大切心の。

五十二才 二の世の始。五十六才七ヶ月 みろくの世。

昭和24年12月7日(1949年 皇紀2609年 己丑)

春の巻 第三十二帖

信仰の始めは感情に支配されがちじゃ。理智を強く働かせねばならんぞ。
人間は絶えず穢れてくる。穢れは清めることによって、あらたまる。
厄祓いせよ。福祓いせよ。
想念は永遠にはたらくから、悪想念は早く清算しなければならんぞ。
中の霊は天国へ行っても、外の霊はこの世に残るぞ。
残ってこの世の事物にうつって同じこと、所業を繰り返すことあるぞ。
早く洗濯せよと申してあろうがな。梅の木から梅が生えるのじゃ。
その梅に実できて また梅が生えるのじゃ。
人間も生まれかわっても死にかわっても、中々に悪い癖は直らんもんじゃぞ。
それを少しずつ直してかからねばならん。努力次第で漸次直るのじゃぞ。
宗教は霊、芸術は体ぞ。

昭和27年2月1日(1952年 皇紀2612年 壬辰)

一年後の海の巻 第一帖「五つに咲いた桜花、五つに咲いた梅の花」は「花は咲いたけど(実に成らずに)そのまま散った→「サクラチル」(受験に落ちた)というイメージを感じさせますが、二日後の8月15日に「一の岩戸はじめのいわど」が無事ひらいているので(海の巻 第五帖)、その事では無さそう。黄金の巻 第五十四帖の梅干しとは「悪を消化する胃袋」に係る言葉のように見えます。春の巻 第三十二帖は「悪い実を残さないように、つけないように直す」事を説いております。日月神示で「梅」の記述があるのは以上の4つですが、「桜」の記述があるのは12にも上ります。

キの巻 第九帖

悪いこと待つは悪魔ぞ、
いつ建て替え、大峠が来るかと待つ心は悪魔に使われているのだぞ。
この神示 世界中に知らすのだ、
今までは大目に見ていたが、もう待たれんから見直し聞き直しないぞ、
神の規則通りにビシビシと出て来るぞ、世界一平に泥の海であったのを、
つくり固めたのは国常立尊であるぞ、
親様を泥の海にお住まい申さすはもったいないぞ、それで天にお昇りなされたのぞ。
岩の神、荒れの神、雨の神、風の神、地震の神殿、
この神々様、御手伝いで この世固め致したのであるぞ、
元からの竜体持たれた荒神様でないと今度の御用はできんのだぞ、
世界つくり固めてから臣民つくったのであるぞ、
何も知らずに上に登って、神を見下ろしているようで、何でこの世が治まるものぞ。
天と地の御恩ということが神の国の守護神にわかっておらんから難儀なことが、
いよいよどうにもならんことになるのぞ、バタバタとなるのぞ。
臣民 生まれ落ちたらウブの御水を火で暖めて
ウブ湯を浴びせてもらうであろうが、その御水はお土から頂くのだぞ、
たき火ともしは皆 日の大神様から頂くのだぞ、
御水と御火と御土で この世の生きあるもの生きているのだぞ、
そんなことぐらい誰でも知っていると申すであろうが、その御恩ということ知るまいがな、
一厘のところ わかるまいがな。
守護神も曇っているから神々様にも早うこの神示読んで聞かせてやれよ。
世間話に花咲かすようでは誠の役員とはいわれんぞ、桜に花咲かせよ。
忙しくさせているのだぞ、忙しいのは神の恵みだぞ、
今の世に忙しくなかったら臣民腐ってしまうぞ、忙しく働けよ。

昭和20年3月11日(1945年 皇紀2605年 乙酉)

地つ巻 第七帖

神にまつらう者には生も死もないのぞ、死のこと「まかる」と申してあろうがな、生き通しぞ、
亡骸は臣民残さなければならないのだが、臣民でも昔は残さないで死ったのであるぞ、
それがまことの神国の臣民ぞ、みことぞ。
世の元と申すものは天も地も泥の海であったのだぞ。
その時からこの世始まってから生き通しの神々様の御働きで五六七の世が来るのだぞ。
腹ができておると、腹に神づまりますのだぞ、高天原ぞ、神漏岐、神漏美の命忘れるでないぞ。
そこからわかってくるぞ。
海をみな船で埋めねばならんぞ、海断たれて苦しまんようにしてくれよ、
海めぐらせてある神の国、清めに清めておいた神の国に、幽国(外国)の悪渡って来て神は残念ぞ。
見ておざれ、神の力現す時来たぞ。

昭和19年9月18日(1944年 皇紀2604年 甲申)

「五つに咲いた桜花、五つに咲いた梅の花」は、同時に成立しており、「桜花」とは人の生き方、「梅の花」とはその結果のように思えます。桜の散るさまは武士道にも例えられています。死して屍拾う者無し。

磐戸の巻 第十六帖

世の元からの生き神がそろって現れたら、皆腰抜かして、目パチクリさせて、
もの言えんようになるのだぞ。
神徳もらった臣民でないと中々越せん峠だぞ、神徳はいくらでも背負いきれんまでにやるぞ、
大きい器持ってござれよ、掃除した大きい入れものいくらでも持ってござれよ、
神界にはビクともせぬ仕組みできているのだから安心して御用つとめてくれよ。
今度はマコトの神の力でないと何もできはせんぞと申してあろうが、
日本の国は小さいが天と地との神力強い、神のマコトの元の国であるぞ。
洗濯と申すのは何事にもよらん、人間心捨てて仕舞って、
智恵や学に頼らずに、神の申すこと一つも疑わず生まれ赤子の心のうぶ心になって、神の教え守ることぞ。
ミタマ磨きと申すのは、神から授かっているミタマの命令に従って、
肉体心捨ててしまって、神の申す通り背かんようにすることぞ。
学や智を力と頼むうちはミタマ磨けんのだ。
学越えた学、智越えた智は、神の学、神の智だということわからんか、
今度の岩戸開きはミタマから、根本から変えていくのだから、中々であるぞ、
天災や戦ばかりでは中々埒あかんぞ、根本の改めだぞ。
小さいこと思っていると わからんことになると申してあろうがな、
この道理よく肚に入れて下されよ、
今度は上中下三段にわけてあるミタマの因縁によって、
それぞれに目鼻つけて、悪も改心させて、
善も改心させての岩戸開きだから、
根本から作り変えるよりはどれだけ難しいか、大層な骨折りだぞよ。
叱るばかりでは改心できんから喜ばせて改心させることも守護神にあってはあるのだぞ、
聞き分けよい守護神殿 少ないぞ、聞き分け良い悪の神、早く改心するぞ、聞き分け悪き善の守護神あるぞ。
この道の役員は昔からの因縁によってミタマ調べて引き寄せて御用させてあるのだ。めったに見当狂わんぞ、
神は綱かけたら中々放さんぞ、逃げられるならば逃げてみよれ、
くるくる廻って また始めからお出直しで御用せねばならんようになって来るぞ。
ミタマ磨け出したら病神などドンドン逃げ出すぞ、
出雲の神様 大切申せと知らせてあること忘れるなよ。
子の歳真ん中にして前後十年が正念場、世の建て替えは水と火とだぞ。
ひつじの三月三日、五月五日は結構な日ぞ。

昭和20年1月14日(1945年 皇紀2605年 乙酉)

「大正維新」「大正十年立て替え説」を唱えた当時の有力信者・浅野和三郎や谷口雅春を中心とする一派が王仁三郎と対立、終末論を展開していた事は「梅の実」を期待していたように見えます。これは「キの巻 第九帖」でいう「悪いこと待つは悪魔ぞ、いつ建て替え、大峠が来るかと待つ心は悪魔に使われているのだぞ」にあたるような気がします。

水の巻 第五帖

外国のコトは無くなるぞ。江戸の仕組み旧五月五日までに終わらせてくれよ。
後はいよいよとなるぞ。神が申した時にすぐ何事も致してくれよ、時過ぎると成就せんことあるのだぞ。
桜花一時に散ることあるぞ、いよいよ松の世と成るぞ、万劫変わらぬ松の世と成るぞ。
松の国 松の世 結構であるぞ。この神示 声出して読みあげてくれよ。くどう申してあろうがな。
言霊 高く読みてさえおれば結構が来るのだぞ。人間心出してはならんぞ。

昭和20年5月1日(1945年 皇紀2605年 乙酉)

日本最大・260MWのメガソーラー、美作市に稼働

ttps://project.nikkeibp.co.jp/ms/atcl/19/feature/00001/00053/?ST=msb

2040年、太陽光パネルのゴミが大量に出てくる?再エネの廃棄物問題

ttps://www.enecho.meti.go.jp/about/special/johoteikyo/taiyoukouhaiki.html

日本の火力発電所一覧

ttps://ja.wikipedia.org/wiki/日本の火力発電所一覧

上の写真は日本最大とかいうメガソーラーの地図ですが、下はこの地域におけるメガソーラーの分布です。白く塗りつぶしております。たかが260MWなんてしょぼい発電能力でしかないにも拘らず、こんな上空から見て、これほどの森林破壊です。

先日、〇〇の子孫を自称する、元民主党の某の秘書をやっていたとかいう人の動画を見たのですが、その民主党がやったのが、2012年7月の再生可能エネルギーの固定買い取り制度が導入でした。新規事業者の参入が相次いだものの、その後の買い取り価格は段階的な引き下げられ、倒産業者数も2015年度で54件、2016年には1月ー9月だけで42件(負債総額185億200万円)にもなりました。本気で現代の技術を以ってすれば、火力発電所の大気浄化能力は90年代と比較しても大幅にマシになるハズ。こんな大規模森林破壊テロ+大量の廃棄物の山と比べてどっちが良いですか?また埋める気?