あら楽し、あなさやけ、元津御神の御光の、輝く御代ぞ近づけり。
岩戸開けたり野も山も、草の片葉も言止めて、大御光に寄り集う、誠の御代ぞ楽しけれ。
今一苦労二苦労、とことん苦労あるなれど、楽しき苦労ぞめでたけれ。
申、酉過ぎて戌の年、子の年 めでたけれ。
一二三の裏の御用する身魂も今に引き寄せるから、
その覚悟せよ。覚悟よいか。待ちに待ちにし秋来たぞ。
昭和20年8月7日(1945年 皇紀2605年 乙酉)
ひふみ、よいむなや、こともちろらね、しきる、ゆゐつわぬ、そおたはくめか、
うをえ、にさりへて、のます、あせえほれけ。
昭和20年8月8日(1945年 皇紀2605年 乙酉)
夜中、散歩していたら「カサッ」と音がしたので見てみたら、どうやらカブトムシを蹴ってしまったらしく、ひっくり返って手足をジタバタさせていた。とりあえず踏まないで良かった。すまなかったなと思いつつ起こしてあげたが、8月と言うヤツは、余りにも「生と死」のギャップが激しい。私はセミの鳴き声を聞くのが好きなのですけど、そんな彼らは人生の大半を暗い土の中で過ごし、晴れて表に出てもその先、生きられるのは僅か数日間。そんな事を考えるのは日本に生まれた者というだけではなく、母親を19で、父親を37で亡くした事の方が大きいと思います。とりわけ母親の齢を過ぎた時の心境といったら…。
夜明けの巻 第十一帖
岩戸開きのはじめの幕 開いたばかりぞ。
今度はみづ逆さに戻るのだから、人民の力ばかりでは成就せんぞ。
奥の神界では済みているが、中の神界では今最中だぞ。
時待てと申してあろうが。人民 大変な取り違いしているぞ。
次の世の型 急ぐ急ぐ。
昭和20年8月6日(1945年 皇紀2605年 乙酉)
神示読まないで、智や学でやろうとて、何もかも九分九厘で終局(厘止まり)ぞ。
我が我がが取れたらわかって来るぞ。慢心恐ろしいぞ。
昭和20年8月7日(1945年 皇紀2605年 乙酉)
広島原爆投下翌日の神示です。上に挙げた第十一帖もそうですが、一帖が二日に渡って記述されているという珍しい神示でもあります。「待ちに待ちにし秋来たぞ」の「秋」は、「安芸国」を指しているというのが定説かと思います。この秋を「とき」と読ませておりますが、第十一帖の「時待て」や、第七帖の「時、来たぞ」がどのように記述されていたのか?という点はには大変興味があります。また、第十二帖で目を引くところは「申、酉過ぎて戌の年、子の年 めでたけれ」という記述。これは第十一話、第二十三話で挙げた磐戸の巻 第十六帖の「子の歳真ん中にして前後十年が正念場、世の建て替えは水と火とだぞ」という記述の「建て替え」という部分を終末予言と結び付けている事に対する戒めが第十一帖の「大変な取り違いしているぞ」と思います。そうとはいえ、終戦までに解読されていた神示の少なさと、当時の切羽詰まった状況を考えるなら、そう思っても仕方がないように思えます。
ところで原爆投下と建て替えに比定される事によって、第十二帖冒頭の「元津御神の御光の、輝く御代ぞ近づけり」という「未然形」の記述に注目されている方はどれだけいらっしゃるのでしょうか?
五葉之巻 第十五帖
今に大き呼吸もできんことになると知らせてあろうが、その時来たぞ、
岩戸がひらけると言うことは
【半分のところは天界となることじゃ、天界の半分は地となることじゃ】、
今の肉体、今の理念、今の宗教、今の科学のままでは岩戸は開けんぞ、
今の肉体のままでは、人民は生きて行けんぞ、
一度は仮死の状態にして魂も肉体も、半分のところは入れ変えて、
ミロクの世の人民として よみがえらす仕組み、心得なされよ、
神様でさえ、このことわからん御方あるぞ、大地も転位、天も転位するぞ。
昭和36年9月1日(1961年 皇紀2621年 辛丑)
五葉之巻 第十六帖
マコトでもって洗濯すれば霊化される、半霊半物質の世界に移行するのであるから、
半霊半物の肉体とならねばならん、今のやり方ではどうにもならなくなるぞ、
今の世は灰にするより他に方法のないところがたくさんあるぞ、
灰になる肉体であってはならん、原爆も水爆もビクともしない肉体となれるのであるぞ、
今の物質で作った何物にも影響されない新しき生命が生まれつつあるのぞ。
岩戸ひらきとはこのことであるぞ、
少しくらいは人民つらいであろうなれど勇んでやりて下されよ、大弥栄の仕組み。
昭和36年9月1日(1961年 皇紀2621年 辛丑)
夜明けの巻 第十一帖で「今度はみづ逆さに戻るのだから」としている以上、これが、黄泉比良坂の岩戸明けに関連しているのは間違いないでしょう。しかも原爆投下のタイミングで言及した意味は、その事が原理を同じくするのではないかという「憶測」が成り立ちます(あえて憶測という言葉にしておきます)。ただし、ビキニ環礁どころかツァーリ・ボンバでさえも岩戸明けに至らしめられなかったのであるから、単純にそんなレベルでは無いです。現状、岩戸明けに至るプロセスは二点ほど考えられますが、それを口に出しても形を変えて現れてしまいますし、これらは既に顕在化してしまったので、仮に核兵器の全廃を為し得たとしても、異なるプロセスで起こる可能性があります。それは岡本天明伝[日月神示]夜明けの御用(黒川柚月氏/著)の273ページの[注2]の記述にもありますが、この事を説明するのは正直難しいのです。
神界のさまは中々教えられんのぢゃ、文字に書けばそれだけ真実をはなれ言葉に出しても真実から遠くなる。(中略)世直しの事もはっきりと申されんでナ、神の経綸はうかつには伝えられんのぢゃよ。(後略)
だから第二話のような日食・月食予想など、予め確定している話を出す程度で、未来の話はもちろん、今日現在進行形の話ですらしないようにしているのです。経綸の邪魔はしたくないからです。だからと言って、私はこの経綸に納得しているわけではありません。第十六帖においては更に踏み込んで「半霊半物質の世界」とまで記述されているのですが、正直、私はそのような世界を望んではいないのです。私の経綸の解釈が間違いであって欲しいとさえ思っているのですが。これには子供の頃に「さよなら銀河鉄道999・アンドロメダ終着駅」という作品に触れた事が大きく影響しています。
銀河鉄道999 (アニメ)
ttps://ja.wikipedia.org/wiki/銀河鉄道999_(アニメ)
漫画版か、TV版か、劇場版か、というのはあるんですけど、私はTV版の第一話から見ていた事から、最初の劇場版の鉄郎のデザイン変更に違和感を感じたものの、見終わってみると大好きな作品になりました。まだ少年キングを手軽に買えるほどの年齢では無かったので、漫画版を見たのは、単行本が発売されて友人が買ったのを見せてもらってからです。さよなら銀河鉄道999・アンドロメダ終着駅は、1981年夏に公開されたのですが、私が見たのは公開時ではなく、アンコール公開された時です。何故かというと、この頃は既に「鉄」への興味も薄れていた事に加え、ガンダムに毒されていたからです、どうでもいい事ですが。
作者である松本零士氏は、1981年9月の原作終了と同年夏公開『さよなら銀河鉄道999・アンドロメダ終着駅』を以って本作は完結、それを無理につなげて創作するのは「デッチあげ」であってもう2度と作らないとしていたのですが、後の1996年、「エターナル編」がスタートしています。令和5年(2023年)2月13日、松本零士氏は85歳で亡くなりました。進駐軍兵士がばら撒くキャンディーなどを「食べたくて仕方なかったが全部下駄で踏みつけて潰した」というエピソードが残る筋の通った方でもあったようです。先生の言うように、『さよなら銀河鉄道999・アンドロメダ終着駅』は、物語の流れからしても完結編のように思えます。Wikiにも書かれているように、本作は「生きるとは何か」「永遠に生きることは果たして本当に幸せなのか」といった人生観の模索こそが大きなテーマである事は明白にされています。
白銀の巻 第一帖
「天地のことわり書き知らすぞ」この巻しろかねの巻。
天国じゃ、地獄じゃ、浄土じゃ、穢土じゃと申しているが、そんな分けへだてはないのであるぞ。
時、所、位に応じて色々に説き聞かせてあるのじゃが、
時節到来したので、まことの天地のことわりを書き知らすぞ。
三千の世界の中の一つがそなたたちの世界であるぞ。
この世もまた三千に分かれ、更に五千に分かれているぞ。このほう五千の山にまつれと申してあろう。
今の人民の知り得る世界はその中の八つであるぞ。人民のタネによっては七つしかわからんのであるぞ。
日の光を七つと思うているが、八であり、九であり、十であるぞ。
人民では六つか七つにしか分けられまいが、岩戸がひらけると更に九、十となるぞ。
「隠してある一厘の仕組み、九十の経綸、成就した暁には何も彼もわかる」と申してあろうが。
八つの世界とは、、△、▽、ア、オ、ウ、エ、イであるぞ。
八は固、七は液、六は気、五はキ、四は霊の固、三は霊の液、二は霊の気、一は霊のキ、と考えてよいのじゃ。
キとは気の気であるぞ。その他に逆の力があるぞ。九と十であるぞ。
その上にまた霊の霊の個から始まっているのであるが、それはムの世界、無限の世界と心得よ。
霊界に入って行けば、その一部は知れるなれど、皆ただちにはわからないのであるぞ。
わからんことはわからんと、わからねばならんと申してあろうがな。
天、息吹けば、地、息吹くと申してあろう。このことよくわきまえよ。
地の規則、天の規則となることあると申して知らせてあろう。この大切こと忘れるでないぞ。
おもいの世界が天ぞ。にくの世界が地ぞ。おもいは肉体と一つぞ。二つぞ。三つぞ。
おもい起こって肉体動くぞ。肉体動いておもい動くこともあるぞ。
生まれ赤児の心になって聞いて下されよ。何も彼も、ハッキリうつるぞ。
陰と陽、右と左、上と下、前と後、男と女と考えているなれど、
タカミムスビとカミムスビと考えているなれど、別のミナカヌシ、現れるぞ。、
、
、
、⊕、
、
、
、卍、卐、+、+、よく見て下されよ。
一であり、二であり、三であろうがな。三が道と申してあろう。陰陽二元でないぞ。三元ぞ。三つであるぞ。
ゝなくてはならん。ゝにもかくれたゝと現れたゝとがあるぞ。このことまず心得て下されよ。
そなたたちは父と母と二人から生まれ出たのか。そうではあるまいがな。
三人から生まれ出ていることわかるであろうがな。どの世界にも人が住んでいるのであるぞ。の中に
があり、その中にまた
があり、限りないのだと知らせてあろうが。
そなたたちの中にまた人がいて限りないのじゃ。このほう人民の中にいると知らせてあろうがな。
そなたたちも八人、十人の人によって生きているのぞ。また十二人でもあるぞ。
守護神と申すのは心のそなたたちのことであるが、段々変わるのであるぞ。
自分と自分と和合せよと申すのは、八人十人のそなたたちが和合することぞ。
それを改心と申すのだぞ。和合した姿を善と申すのじゃ。
今までの宗教は肉体を悪と申し、心を善と申して、肉体をおろそかにしていたが、
それが間違いであること合点か。一切がよいのじゃということ合点か。地獄ないこと合点か。
悪抱き参らせよと申してあること、これで合点か。合点じゃなぁ。
各々の世界の人がその世界の神であるぞ。この世ではそなたたちが神であるぞ。
あの世では、そなたたちの心を肉体としての人がいるのであるぞ。それがカミと申しているものぞ。
あの世の人をこの世から見ると神であるが、その上から見ると人であるぞ。
あの世の上の世では神の心を肉体として神がいますのであって限りないのであるぞ。
裏から申せば、神様の神様は人間様じゃ。心の守護神は肉体じゃと申してあろうがな。
肉体が心を守っているのであるが、じゃと申して肉体が主人顔してはならんぞ。
どこまでも下に従うのじゃ。順乱すと悪となるぞ。生まれ赤児踏み越え、生まれ赤児になって聞いて下されよ。
そなたたちの本尊は八枚十枚の衣着ているのじゃ。死ということは、その衣、上から脱ぐことじゃ。
ぬぐと中から出て来て また八枚十枚の衣つけるようになっているのじゃ。
わかるように申しているのじゃぞ。取り違いせんようにせよ。
天から気が地に降って、ものが生命し、その地の生命の気がまた天に反影するのであるが、
まだまだ地には凸凹があるから気が天にかえらずに横にそれることあるぞ。
その横の気の世界を幽界と申すのじゃ。幽界は地で曲げられた気の作り出したところじゃ。
地獄でないぞ。
昭和24年12月14日(1949年 皇紀2609年 己丑)
因縁の身霊が生まれ変わり、死に変わりを経ている事は日月神示で明言されている事ですが、「半霊半物質の世界への移行」が意味するのは、死というプロセスが無くなるのではないか、という疑問があるのです。生まれ変わりのプロセスで、一般的には前世の記憶が無いのが普通だと思うのですが、それ故に「失くす」「亡くす」事に対して、「悲しみ」「喪失感」「あわれ」「いとしさ」などの感情を覚えてきたのだと思うのです。とりわけ「死」は「愛」への影響は多大です、時に取り返しがつかないほどに。例えば、伊邪那岐命が伊邪那美命に会いに黄泉の国へ行った結果、千引の磐戸を閉める事になったのもそうでしょう。これ、会いに行ったこと自体、本当に正しかったのか、正直疑問があります。まず、会いに行けるようであれば、死という概念が何故あるのでしょう?逆に伊邪那岐命が伊邪那美命を黄泉の国から取り戻したかったほど愛していたのは想像に難くありませんが、黄泉の国と言うものがあったとするなら何故それがあるのか?死という概念を大神様が作った以上、伊邪那岐命は禁忌を犯したのでは?と想像せざるを得ませんし、禁忌を犯してでも取り戻したかったほど愛していた、というようにも考えられます。それはかけがえが無いからこそ、そこに愛があり情熱が現れるのだと思うのです。それは失うからこそだと。
黄金の巻 第二十九帖
二二の盗み合い、世の乱れ。
心して怪しいと思うことは、たとえ神の言葉と申しても一応は考えよ。
神の言葉でも裏表の見境なく唯に信じてはならん。審神者せよ。
薬、毒となることもあると申してあろうが。馬鹿正直、まことの道 見失うことあると申してあろうが。
道は易し、楽し。楽しくないのは道ではないぞ。奉仕ではないぞ。
世界に呼びかける前に日本に呼びかけよ。目醒まさねばならんのじゃ。それが順序と申すもの。
神示で知らせてあろうが。ここは種作るところ、種は人民で作れんぞ。
神の申すよう、神の息、いただいて下されよ。
天の道、地の道、天地の道あるぞ。人の道あるぞ。何も彼も道あるぞ。道に外れたもの外道じゃぞ。
道は一筋ぞ。二筋ぞ。三筋ぞ。曲がっているぞ。真っ直ぐであるぞ。
心得なされ。節分から(オーヒツキオーカミ)と現れるぞ。讃えまつれ。
三年の大ぐれ。
昭和24年11月27日(1949年 皇紀2609年 己丑)
私が日月神示のブログを始めたのは「たとえ神の言葉と申しても一応は考えよ」という一文あってなのです。だから本ブログ冒頭に載せているのです。従ってその言葉故に思うところを書きました。
原子爆弾投下の日に。