岩戸閉めの始めはナギ(伊邪那岐命)ナミ(伊邪那美命)の命の時であるぞ、
ナミの神が火の神を生んで黄泉国に入られたのが、そもそもであるぞ、
十の卵を八つ生んで二つ残して行かれたのであるぞ、
十二の卵を十生んだことにもなるのであるぞ、
五つの卵を四つ生んだとも言えるのであるぞ、すべて神界のこと、
霊界のことは、現界から見れば妙なことであるなれど、それでちゃんと道にはまっているのであるぞ。
一ヒネリしてあるのじゃ、天と地との間に大きなレンズがあると思えば段々にわかって来るぞ。
夫神、妻神、別れ別れになったから、一方的となったから、
岩戸が閉められたのである道理、わかるであろうがな。
その後、独り神となられた夫神が三神をはじめ、色々なものをお生みになったのであるが、
それが一方的であることは申すまでもないことであろう、
妻神も同様、黄泉大神となられて、黄泉国のすべてを生み育て給うたのであるぞ、
この夫婦神が、時めぐり来て、千引きの岩戸をひらかれて相抱き給う時節来たのであるぞ、
うれしうれしの時代となって来たのであるぞ。
同じ名の神が至るところに現れて来るのだぞ、名は同じでも、はたらきは逆なのであるぞ、
この二つがそろって、三つとなるのぞ、三が道ぞと知らせてあろうがな。
時来たりなば この千引きの岩戸を倶にひらかんと申してあろうがな。
次の岩戸閉めは天照大神の時ぞ、大神はまだ岩戸の中にましますのぞ、
ダマシタ岩戸からはダマシタ神がお出ましぞと知らせてあろう。
いよいよとなってマコトの天照大神、天照皇大神、日の大神、そろってお出まし近くなって来たぞ。
次の岩戸閉めは素盞鳴命にすべての罪を着せてネの国に追いやった時であるぞ、
素盞鳴命は天下を治しめす御役の神であるぞ。
天ヶ下は重きものが積もって固まったものであるからツミと見えるのであって、
よろずの天の神々が積もる(と言う)ツミ(積)をよく理解せずして罪神と誤ってしまったので、
これが正しく岩戸閉めであったぞ、
命をアラブル神なりと申して伝えているなれど、アラブル神とは粗暴な神ではないぞ、
あばれ廻り、こわし廻る神ではないぞ、アラフル(現生る)神であるぞ、
天ヶ下、大国土を守り育て給う神であるぞ、取り違いしていて申し訳あるまいがな。
このことよく理解できねば、今度の大峠は越せんぞ。
絶対の御力を発揮し給う、ナギ・ナミ両神が、
天ヶ下を治らす御役目を命じられてお生みなされた尊き御神であるぞ。
素盞鳴の命にも二通りあるぞ。
一神で生み給える御神と、夫婦呼吸を合わせて生み給える御神と二通りあるぞ、
間違えてはならんことぞ。
神武天皇の岩戸閉めは、御自ら人皇を名乗り給うより他に道なきまでの御働きをなされたからであるぞ。
神の世から人の世への移り変わりの事柄を、一応、岩戸に隠して神ヤマトイワレ彦命として、
人皇として立たれたのであるから、大きな岩戸閉めの一つであるぞ。
仏教の渡来までは、わずかながらもマコトの神道の光が差していたのであるなれど、
仏教と共に仏魔渡って来て完全に岩戸が閉められて、クラヤミの世となったのであるぞ、
その後はもう乱れ放題、やり放題の世となったのであるぞ、これが五度目の大き岩戸閉めであるぞ。
昭和36年5月6日(1961年 皇紀2621年 辛丑)
煮詰まってきたので気晴らししたいんですけど、いつのまにやら調べ物してる…やらなきゃいけない事あるんですけどね…逃げてるだけなのでしょうか。そしたらこんなの見つけてしまったのです、しかもよりにもよって「麻賀多神社」だと?!
【ムー謎の古代文字】新資料公開! 麻賀多神社に伝来した神代文字文献
ttps://www.excite.co.jp/news/article/Getnavi_366635/
麻賀多神社神代文字 出雲文字
ttp://www14.plala.or.jp/nikorobin/magata2.html
出雲文字
ttps://ja.wikipedia.org/wiki/出雲文字
「伊都許利命がこの地に来た時に地味が悪いので里長に聞けば、日本武尊が東征の折に、この地に寄って祈りを捧げた。それによって五穀豊穣となり人々を助け、その方法を記したので子々孫々これを守れ。」という事らしいのですけど、逆に、もしこの文字が日本武尊に由来するものであるなら、意富比神社(船橋大神宮)を始め、日本武尊が参拝したとされる神社に同様の縁起が存在したと思います。私は神代文字の存在に対しては、可能な限り中立の立場であろうとしておりますが、これらの存在の否定説の根拠にあげられているのが「上代日本語」と五十音順の成立時期です。
上代日本語
ttps://ja.wikipedia.org/wiki/上代日本語
漢字
ttps://ja.wikipedia.org/wiki/漢字
仮名 (文字)
ttps://ja.wikipedia.org/wiki/仮名_(文字)
五十音
ttps://ja.wikipedia.org/wiki/五十音
第四話で宋書に出て来る「倭の五王」についての話で、477年~478年頃の「武」と見なされる雄略天皇の宋への朝貢と邪馬台国について書いたのですが、古墳時代に相当する時期の有力者は大陸の先進文明をこぞって求め、次々と歴代の中国王朝に媚びるようになります。当然の事ながら彼らとのコンタクトは「漢字」であり、漢字を書けるのは渡来人であるため、時の有力者は渡来人を、後の世で言う「官位」のような役職に就けるようになります。ここまで言えば「文字が漢字化するのは当たり前」だと思うのです。ところが仮名 (文字)のWikiにもある様に、
「漢文」は当然ながら中国語に基づいた書記法であり、音韻や構文の異なる日本語を書き記すものではなかった。この「漢文」を日本語として理解するために生まれたのが「漢文訓読」である。しかし地名や人名などの日本語の固有名詞は、漢字をそのまま使ってもその音を書き記すことはできない。そこで使われたのが漢字本来の意味を無視してその発音だけを利用し、日本語の音に当てる「借字」(しゃくじ)であった。これはたとえば漢字の「阿」が持つ本来の意味を無視して「ア」という音だけを抽出し、「阿」を日本語の「ア」として読ませるという方法である。この借字によって日本語が漢字で表記されるようになった。この表記法を俗に「万葉仮名」とも呼ぶ。
この事は、太安万侶が和銅5年(712年)編纂の『古事記』序文において、「已に訓に因りて述ぶれば、詞は心に逮らず。全く音を以ちて連ぬれば、事の趣更に長し」と嘆いているように、日本語に用いる書記体系として、漢字は扱いやすいものではなかったはずです。その渡来人の発音形態がおそらく「上代日本語」の一子音につき合計8種の音節が使い分けられていたのであり、古墳時代頃から奈良時代頃まで日本(特に、都のあった奈良付近)でしか使用されずに廃れた理由だと思うのです。太宰春台ら儒者の「漢字文明による『聖人の道』が入ってくるまでは我が国は野蛮な国だった」だの、蝦夷という概念に見られるように、何時の世にも「東」は低く見られてきたのです。つまりロジックが全て逆。
日月の巻 第二十六帖
㋰、㋒、㋒、ウ、うにアエオイウだぞ。昔の世の元ぞ。
㋐、㋳、㋻、ヤ、ワあるぞ。世の元ぞ。サタナハマからあるぞ
一柱、二柱、三柱、五柱、七柱、八柱、九柱、十柱、と申してあろうがな。
五十九の柱の神、七十五柱これでわかったか。㋰はゝだぞ。
ゝには裏表上下あるのだぞ。
冬の先 春とばかりとは限らんと申してあること忘れるなよ。
用意せよ。冬に桜咲くぞ。
昭和19年11月22日(1944年 皇紀2604年 甲申)
今回はハルマゲドンの話をする気無いので、「七十五」について。
真素美の鏡
ttps://onipedia.info/wiki/真素美の鏡
大石凝真素美
ttps://ja.wikipedia.org/wiki/大石凝真素美
オリジナルは徳川末期の言霊学者中村孝道の門人である大石凝真素美で、原本は『大日本皇国言霊の巻』です。なんでも遠祖は大伴氏とか。㋐㋔㋒㋓㋑の並びって『真訓古事記 上の巻』に記述あるのですね。
夜明けの巻 第十三帖
あら楽し、すがすがし、世は朝晴れたり、昼晴れたり、夜も晴れたり。
あら楽し、すがすがし、世は岩戸明けたり、待ちに待ちし岩戸開けたり。
この神示の臣民と言うても、人間界ばかりでないぞ。
神界幽界のことも言って知らせてあると、申してあろうが。
取り違い慢心一等恐いと申してあろうが。
祭典、国民服もんぺでも良いぞ。
天明(岡本天明)まつりの真似するでないぞ。役員まつりせい。何も言うでないぞ。
言って良い時は知らせるぞよ。わかったか。
仕える者無き宮、産土様の真下にいくら祀ってもよいぞ。
天明は祈れ。祈れ。天に祈れ、地に祈れ、
引き潮の時引けよ。満ち潮の時進めよ。大難小難にと役員も祈れよ。
口先ばかりでなく、誠祈れよ。祈らねばならんぞ。口先ばかりでは悪となるぞ。わかったか。
今度は借銭済しになるまでやめんから、誰によらず借銭無くなるまで苦しい行せなならんぞ、
借銭なしでないと、お土の上には住めんことに今度はなるぞ。
イシの人と、キの人と、ヒの人と、ミヅの人と、できるぞ。
今にチリチリバラバラに一時はなるのであるから、その覚悟よいか。
毎度知らせてあること忘れるなよ。神示 腹の腹底まで浸むまで読んで下されよ。神頼むぞ。
悟った方 神示説けよ。解いて聞かせよ。役員 皆 説けよ。信じる者 皆 人に知らせてやれよ。
神示読んで嬉しかったら、知らせてやれよ申してあろうが。
天明は神示書かす役ぞ。アホになれと申してあろうが、まだまだぞ、役員 気つけてくれよ。
神示の代わりにミ身に知らせると申してある時来たぞ。いよいよの時ぞ。
神示で知らせることの始めは済みたぞ。実身掃除せよ。ミ身に知らすぞ。実身に聞かすぞ、
聞かな聞くようにして知らすぞ。つらいなれど、我慢せよ。ゆめゆめ利巧出すでないぞ。
わかったか、百姓にもなれ、大工にもなれ、絵描きにもなれ。
何にでもなれるようにしてあるでないか。役員も同様ぞ。
集団作るでないぞ、金取るでないぞ、神に供えられたものはみな分けて、
喜ばせてやれと申してあろうが。この方 喜ぶこと好きぞ、好きのこと栄えるぞ。弥栄えるぞ。
信者作るでないぞ。道伝えなならんぞ。取り違いせんように慢心せんように、
生まれ赤児の心で神示読めよ。神示いただけよ。
日本の臣民 皆勇むよう、祈りてくれよ。世界の人民 皆喜ぶ世が来るよう 祈りてくれよ。
てんし様まつれよ。みことに服ろえよ。このことできれば他に何もわからんでも、峠越せるぞ。
御民いのち捨てて生命に生きよ。
「鳥鳴く声す夢覚ませ、見よ あけ渡るひむかしを、空色晴れて沖つ辺に、千船行きかう靄の裡」
「いろは、にほへとち、りぬるをわかよ、たれそ、つねならむ、うゐのおくやま、
けふこ、えてあさき、ゆめみしゑひもせすん」
「アオウエイ、カコクケキ、サソスセシ、タトツテチ、ナノヌネニ、ハホフヘヒ、
マモムメミ、ヤヨユエイ、ラロルレリ、ワヲウヱヰ」
「アイウエオ、ヤイユエヨ、ワヰエヲ、カキクケコ、サシスセソ、タチツテト、
ナニヌネノ、ハヒフヘホ、マミムメモ、ヤイユエヨ、ラリルレロ、ワヰウヱヲ」
五十九柱ぞ。この巻夜明けの巻とせよ。この十二の巻 よく腹に入れておけば何でもわかるぞ。
無事に峠越せるぞ。わからんことは自分で伺えよ。それぞれに取れるぞ。
天津日嗣皇尊 弥栄弥栄。あら楽し、あら楽し、あなさやけ、あなさやけ、おけ。
一二三四五六七八九十百千卍。
昭和20年8月10日(1945年 皇紀2605年 乙酉)
「五十」と「六十」と「七十五」の最小公倍数って「三百」ですよね?
ま、それはともかく、五十音図は清音だけですし、その成立が後の世であったとしても、丁度渡来人の来日時期に重なる上代日本語が8種の音節だったとしても、本来の話し言葉どおりに戻ったとすればスッキリすると思うのです。それまでは知らず知らずに使っていたであろう日本語の五十音体系は、既に完璧だったのだと。
神代文字
ttps://ja.wikipedia.org/wiki/神代文字#cite_ref-19
神代巻口訣
ttps://ja.wikipedia.org/wiki/神代巻口訣
近世の偽作説もある忌部正通が執筆した神代巻口訣より、「神代文字は象形なり。応神天皇の御宇、異域の典経始めて来朝す。推古天皇の朝に至って、聖徳太子漢字を以て和字に附す」とあります。邪馬台国は別にして、倭の五王の一人「応神天皇の御宇、異域の典経始めて来朝」した段階で「漢字」と共に渡来人が来日した事によって日本の文字の歴史が始まったとするのが現代の風潮ですが、出雲や飛騨だけでなく日本各地において、象形文字やヒエログリフが見つかっている事実は認めざるを得ません。にも拘らず今日、神代文字に対する研究費用が下りない、というのを耳にするのですが、これは相対性理論やビッグバンに反対する研究費用が下りないようなもので、既に学会が宗教化、利権化しているのが問題です、否、どこの業界も。
出雲、ときたらいよいよこの方の登場か。
スサノオ
ttps://ja.wikipedia.org/wiki/スサノオ
我の潔白が誓約によって証明されたとしたが、勝ったに任せてと次々と粗暴を行い、天照大御神は恐れて天の岩屋に隠れてしまった。そのため、彼は高天原を追放された(神逐)。
天岩戸
ttps://ja.wikipedia.org/wiki/天岩戸
何だ、日本書紀の第七段一書(一)、(二)、(三)って…。古事記とも違うし…。この点、古語拾遺ではシンプルに語られているようで。
素戔嗚神は毀畔(あはなち)・埋溝(みぞうみ)・放樋(ひはなち)・重播(しきまき)・刺串(くしさし)・生剥(いけはぎ)・逆剥(さかはぎ)・屎戸(くそと)といった天つ罪を犯した。天照大神は怒り、天岩窟に入り磐戸を閉ざして籠もってしまった。国の内は常闇となり、昼夜の別がなくなった。高皇産霊神は八十万の神を天八湍河原(あめのやせのかはら)に会し、謝る方途を議論した。(中略)
素戔嗚神は罪を問われ、科すにあたっては千座の置戸(多数の祓物)を以てし、首の髪、手足の爪を抜かれ、罪を贖わされた。これによって罪を解除(はら)い、地上に追放された。
伊邪那岐命と伊邪那美命の話や、天の岩戸、素盞鳴命の話については、神示と記紀の双方で記述されている話ですので、その経緯を知らされた誰かがいた事は確か。ただ、神界で為される事がこの世界に反映される事を考えると、この「天つ罪」とはホントに悪行なのか?という話ではないかと思うのです。例えば農家の方なら「糞をまく→堆肥」や「生剥→動物避け」をイメージできると思うのですが、その知識が無い人は、単に嫌がらせにしか見えないのかもしれません。この誤解こそが本質のねじれを産み出したのだとすれば、悲劇としか言いようがありません。確かにこれは一方的な見方ではあります。
大国主の神話
ttps://ja.wikipedia.org/wiki/大国主の神話#根の国訪問
大国主
ttps://ja.wikipedia.org/wiki/大国主
大国主の神話において根の国のスサノオの元にやってきた葦原色許男神(あしはらしこを、後の大国主命)は、スサノオの娘である須世理比売(すせりひめ)と互いに一目惚れするが、スサノオは葦原色許男神に様々な試練を与える。葦原色許男神は須世理比売の助けを得ながらそれらを克服したので、スサノオは葦原色許男神に、須世理比売を妻とすることを認め、生大刀、生弓矢、天詔琴を譲り、大国主という名を贈った。
はなからそのつもりだったのではないですか?アラぶ(荒ぶ)ってますけどw当の大国主は生きた心地しなかったでしょうが。
国譲り
ttps://ja.wikipedia.org/wiki/国譲り
事代主
ttps://ja.wikipedia.org/wiki/事代主
タケミナカタ
ttps://ja.wikipedia.org/wiki/タケミナカタ
タケミカヅチ
ttps://ja.wikipedia.org/wiki/タケミカヅチ
経津主神
ttps://ja.wikipedia.org/wiki/経津主神
正直言って、全く納得いかないのが「国譲り」の神話です。カツアゲにしか見えない。出雲大社の祭神は大国主大神ですが、国譲りを迫られた際には、息子の事代主神が答えると述べ、タケミカヅチが美保ヶ崎へと向かい、事代主神に国譲りを迫ると、「承知した」と言って、船を踏み傾け、天ノ逆手を打って青柴垣に変え、その中に隠れてしまいました。次に建御名方神が千引の石を手先で差し上げながら現れ、タケミカヅチに力競べを申し出たものの、タケミナカタの手を若葦のように握りつぶして放り投げてしまいました。更には科野国の州羽海(すわのうみ)まで追いつめて、殺そうとしたのですが、建御名方神はタケミカヅチに対し、その地から出ない旨、大国主神並びに事代主神に背かない旨、葦原中国を天津神の御子に奉る旨を約束した、というのが国譲りの概要なのですが、経津主神は古事記に出ておりません。
日の出の巻 第十八帖
富士の御用は奥山に祀りくれよ、カイの御用も続けてくれよ、
江戸一の宮作ってくれよ、道場も同じぞ、
海の御用とは 海の鳴門と 海の諏訪と 海のマアカタと三所へ祀りくれよ。
その前の御用、言葉で知らせたこと済んだぞ、海マアカタとは印旛ぞ。
十柱とは火の神、木の神、金の神、日の出の神、竜宮の乙姫、
雨の神、風の神、地震の神、荒れの神、岩の神であるぞ。
辛酉の日に祀りてくれよ。しばらく御神示出ないぞ。
皆の者 早う今までの神示 肚に入れてくれよ、神急けるぞ。
神示読めば神示出て来るぞ。神祀り早く済ませてくれよ
昭和19年12月21日(1944年 皇紀2604年 甲申)
諏訪湖の鳴門神業は、昭和20年1月8日、天明氏の代理で三枝今朝春氏が修めたそうです。「原典日月神示の磐戸の巻 第八帖」には、「三枝、御苦労であったぞ。」という記述があるそうです。(岡本天明伝[日月神示]夜明けの御用・黒川柚月氏/著)この話がらみかな?
出雲大社
ttps://ja.wikipedia.org/wiki/出雲大社
物部神社 (大田市)
ttps://ja.wikipedia.org/wiki/物部神社_(大田市)
素盞嗚神社 (福山市新市町戸手)
ttps://ja.wikipedia.org/wiki/素盞嗚神社_(福山市新市町戸手)
籠神社
ttps://ja.wikipedia.org/wiki/籠神社
真名井神社
ttps://ja.wikipedia.org/wiki/真名井神社
海部氏
ttps://ja.wikipedia.org/wiki/海部氏
物部氏
ttps://ja.wikipedia.org/wiki/物部氏
第四話で「可怜国」の倭姫命は、第10代崇神天皇の皇女、豊鍬入姫命の後を継いで、神託によって、皇大神宮(伊勢神宮内宮)を創建した事を書きました。伊勢神宮外宮に祀られている豊受大神は、「真名井原」の地(籠神社の現在の奥宮である真名井神社)に鎮座したとされており、天照大神が4年間営んだ元伊勢の「吉佐宮」にあたる、とされています。籠神社の宮司を世襲しているのは、海部氏=丹波国海部氏=尾張物部氏です。籠神社の奥宮となっている真名井神社の東方に「真名井の滝」があって、この滝壺で汲まれた水は、古来より出雲国造の神火相続式や、新嘗祭の際に用いられたとされるのだとか…。そういえば第十二話で、上総一ノ宮の玉前神社に参拝した時、「茅の輪」があったのですけど、茅の輪くぐりとは、夏越神事とされ、疫隈國社・素盞嗚神社の蘇民将来説話に基づいているそうです。更に出雲大社の側にわざわざ物部神社を創建するというのは、「物部氏の正体」(関裕二氏/著)で主張されるように「出雲の国譲りが、物部の出雲いじめにそっくり」に見えます。
ハプログループO1b2 (Y染色体)
ttps://ja.wikipedia.org/wiki/ハプログループO1b2_(Y染色体)
私は同氏の「藤原氏の正体」の方については、納得できるところが多かったのですが、今回の話を検証するまでは正直、ピンとこなかったのです。これは物部氏が渡来人であれば話が繋がります。彼らの瀬戸内海から関門海峡を抜ける海上物流ルート利権です。その代表とされるのが備前物部氏でしょう。物部氏には、「物部+地名」や「物部+職業」という複姓を持つ一族が存在しており、彼らが全国に文明をもたらしたと共に、各地におけるスパイ網として機能したのでしょう。これが後発であるはずのハプログループO1b2が、何故か日本全土に分布している理由でもあり、上代日本語が8種の音節であったのは、「日本語を覚え始めた外国人のようなイントネーションだったから」でしょう。
縄文人には土地所有の概念が気薄であったのに対し、渡来人はより良い水と土地を必要とする民族です。当時の大陸の情勢は危険極まりなく、それは歴代の中国王朝の移り変わりを見る限り、彼らが大陸の敗残兵とその家族だった可能性があります。そんな「渡来人の東征」を古来から日本に住んでいた人たちは、指を咥えて黙って見ていたのでしょうか?
旧石器時代の遺跡一覧
ttps://ja.wikipedia.org/wiki/旧石器時代の遺跡一覧
34,000年前、墨古沢は日本の中心であった
ttps://sitereports.nabunken.go.jp/ja/91124
墨古沢遺跡
ttps://www.town.shisui.chiba.jp/docs/2018032200037/
墨古沢遺跡
ttps://ja.wikipedia.org/wiki/墨古沢遺跡
使用石材は、群馬県域のガラス質黒色安山岩が70パーセント以上を占めるが、ほかにも茨城県産の玉髄(メノウ含む)や、栃木県(高原山)・長野県・神津島産の黒曜石、東北地方産と思われる硬質頁岩などが含まれており、石材を求めて北関東地方などの集団と広範囲での交流が行われていたことが判明した。
見に行ってから書こうかと思っていたのですが、現在は埋め戻しているようですし、私の足が肉離れを起こしてしまっているので、行くに行けないのです。旧石器時代の環状ブロック群として、現在確認されている中では日本最大級のものとして、「国の史跡」に指定されております。注目すべきは「神津島産の黒曜石、東北地方産と思われる硬質頁岩」という記述。それらをこの地に集めるだけの能力を有していたという事実です。因みに上の図は、原日本人到達以降で、最も海水面が低かったとされている約二万年前の地形図と、旧石器時代の分布図です。これより後は「縄文海進」の影響で海水面が上昇して、至る所が水没するようになるのです。これを右の図で例えるなら、古東京湾、香取海に該当するところになります。
ハプログループCT (Y染色体)
ttps://ja.wikipedia.org/wiki/ハプログループCT_(Y染色体)
ハプログループC (Y染色体)
ttps://ja.wikipedia.org/wiki/ハプログループC_(Y染色体)
ハプログループC1a1 (Y染色体)
ttps://ja.wikipedia.org/wiki/ハプログループC1a1_(Y染色体)
ハプログループD (Y染色体)
ttps://ja.wikipedia.org/wiki/ハプログループD_(Y染色体)
ハプログループD1a2a (Y染色体)
ttps://ja.wikipedia.org/wiki/ハプログループD1a2a_(Y染色体)
最初のホモサピエンス・ハプログループAから分岐した、ユーラシアン・アダムことハプログループCT、最も近縁なC1a2(V20)は、ユーラシア大陸各地、クロマニヨン人にまで及ぶ、とされるハプログループC1a1(M8)のグループは、ほぼ日本人に限られ、大陸側にはごく僅かにしか見られない事で、その移動ルートは現在に至るまで謎とされているようです。ハプログループC1a1のページを見ると、国内各地の頻度の項目で「沖縄」、「徳島」、「青森」、「宮崎」が突出しているようですが、東京が多いのは、遺伝子の検査技術なるものが首都圏に人口が一極集中した世の中になってからの産物なので、この結果は当然だと言えます。
問題は、最も近縁がアンダマン諸島のオンガン系オンゲ族とジャラワ族のD1a2b-Y34537とされるハプログループD1a2aです。更に謎を深めているのは、ハプログループD (Y染色体)の方のページの記述。
日本本土(九州、本州、四国)は、中国地方および四国、北部九州など西日本の一部地域ではやや少なく、一方で関東地方や東北地方など東日本のほか南部九州に多いなど地域差もあるが、おおよそ32%- 39% のハプログループが「D1a2a」であり、これは古代の縄文人の末裔である可能性が高い。「D1a2a*」から「D1a2a2a」まで様々なグループが見られる。
中国地方および四国、北部九州など西日本の一部地域ではやや少なく、一方で関東地方や東北地方など東日本のほか南部九州に多いなど地域差もあるが、って何?…ハプログループD1a2aのグループがアンダマン諸島残留組と別れた後、わき目もふらずに日本列島に直行したのは極めて謎なのですが、沖縄は別としても、日本列島に辿り着いた際、自然に流れ着くであろう西日本に少ない傾向はとても奇妙に見えます。
縄文時代の遺跡一覧
ttps://ja.wikipedia.org/wiki/縄文時代の遺跡一覧
弥生時代の遺跡一覧
ttps://ja.wikipedia.org/wiki/弥生時代の遺跡一覧
何故、あれだけ大陸から人が渡って来れる接点であるハズの北九州や、北海道ではなく、関東地方に人間が集中していたのでしょう?この話は首都の概念が無い古代の話です。おそらく「住みやすかった」、これに尽きると思います。趣味ならいざ知らず、大半の人は平地で暮らす方が楽ですし、それは遺跡の密度で証明されています。狩猟生活中心の旧石器時代から縄文時代初期にかけての人口集中によって、関東地方は食糧供給問題に直面したと思います。
だから「西征」したのです。縄文時代中期の東海地方、中部地方、特に不便であるハズの山岳地帯進出は、山で狩猟しなければ食べていけなくなった故だと思います。
一方で、同時期の九州地方は人口が増えていないように見えます。実はそれどころではなかったからだと思われます。
姶良カルデラ
ttps://ja.wikipedia.org/wiki/姶良カルデラ
鬼界カルデラ
ttps://ja.wikipedia.org/wiki/鬼界カルデラ
鬼界アカホヤ火山灰
ttps://ja.wikipedia.org/wiki/鬼界アカホヤ火山灰
破局噴火
ttps://ja.wikipedia.org/wiki/破局噴火
特に鬼界カルデラの約7300年前の大規模カルデラ噴火は過去1万年の内では世界最大規模で、火砕流が九州南部にも到達し、九州南部の縄文文化を壊滅させたと推測されているようです。
例えば1990年から1995年にかけて噴火した雲仙普賢岳では、火砕流1回あたりのマグマ噴出量としては10 – 1000m3(VEI=0)、5年余りに渡る活動期間中の噴出物の総量では0.2 km3(VEI=4)程度、また20世紀最大の火山噴火とされる1991年のピナトゥボ山噴火はVEI=6であった(略)日本ではVEI-7以上の噴火は7000年 – 1万年に1回程度の頻度で発生している。最後のイベントは約7,300年前の鬼界カルデラ。太字はVEI-8。
7,300年前 – 鬼界:幸屋(船倉)降下軽石・及びintra-plinian flowとして船倉火砕流 → 大地震 → 竹島(幸屋)火砕流・及びco-ignimbrite ashとして鬼界アカホヤ火山灰。総噴出量 133–183 km3 DRE以上。
3万年前 – 姶良:大隅降下軽石・及びintra-plinian flowとして垂水火砕流 → 妻屋火砕流 → 入戸火砕流・及びco-ignimbrite ashとして姶良丹沢テフラ。総噴出量 380 – 430 km3 DRE。
3.9万年前 – 屈斜路:屈斜路Ⅰ火砕流。総噴出量 45〜87 km3 DRE。
4.6万年前 – 支笏:マグマ水蒸気爆発 → 降下軽石 → 火砕流噴火。総噴出量 100〜130 km3 DRE。
8.8万年前 – 阿蘇:Aso-4火砕流。総噴出量 380 – 790 km3 DRE。
風は西から東に吹くにも関わらず、朝鮮半島まで火山灰が到達しているのですから、現代に生きる私たちが、その破壊の程を窺い知る事なんて出来ませんが、これらの火山灰は遠く東北地方にまで及んでおり、縄文後期の気象変動のトリガーになっていると思います。実際、縄文時代後期に見られる人口の減少はこれが原因になっていると思います。上の図の九州地方の人口の計算は、稲作到来前後の頃のデーターがごっちゃになっていると思います。
稲作
ttps://ja.wikipedia.org/wiki/稲作
菜畑遺跡
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ところが縄文時代後期、九州地方に稲作が伝来して、食糧事情を大幅に改善させる事となりました。伝来ルートはほぼ確実に朝鮮半島からで、第四話で邪馬台国の話をしておりますが、魏志倭人伝に記述された九州上陸地点を考えると、唐津市にある菜畑遺跡の存在は余りにも大きい。同時に稲作は、良質の水源と土地を要求するものであり、肥沃な平野を有する北九州地方の原住民が、わざわざ中国、四国地方に進出する理由が無いのです。東進するのは「渡来人」、おそらくハプログループO1b2の集団だと考えられます。
日本最古の水稲耕作遺跡とされる菜畑遺跡が「約2930年前」と見られる事と、三千年と言う神示の記述の近さは果たして偶然なのでしょうか?「神武天皇の岩戸閉めは、御自ら人皇を名乗り給うより他に道なきまでの御働きをなされたからであるぞ。」とは、約三千年前の「渡来人との遭遇」こそが原因であり、神武天皇が大和地方奪還を目指す事となり、「東国」から「西征」に向かったのではないのか?
「大和への東征」という説には問題が多過ぎるのです。「熊襲や隼人を野放しで大和に向かう」というストーリーとか、「外国から瀬戸内海を経由して大阪湾から攻め込む」とかいう余りにも無謀なストーリーに。蝦夷が危険と言うのは、渡来人のルーツである大陸からみた倭国とは、第四話で述べたように「文身国」だった事から、関東の実情を知らない渡来人のイメージなのです。その関東はといえば、北海道とまで交易をしていたのですから、蝦夷のリスクの低さは熊襲や隼人の比ではなく、香取神宮や鹿島神宮が「神武天皇の代で創建されている」というのは、関東こそが完全な安全地帯であった証明です。
だから渡来人が書いた「記紀」は曲がった。聖徳太子と蘇我馬子が編纂したとされる「天皇記」は、蘇我蝦夷と共に焼かれ、藤原氏の正統性を詐称するために書かれた日本書紀や、同時期に書かれたとされる古事記は言うまでもなく当時の権力者である藤原氏の監視の下で編纂されたのは想像に難くありません。その藤原氏に、朝廷の祭祀の役職まで横取りされた結果が斎部広成による「古語拾遺」だと思います。しかしながら最早、時代の潮流を戻す事は叶わなかったのです。