第二十五話「地つ巻 第十一帖」

世界丸めて一つの国にするぞと申してあるが、
国はそれぞれの色の違う臣民によって一つ一つの国作らすぞ。
その心々によって、それぞれの教え作らすのぞ。旧きものまかりて、また新しくなるのぞ。
その心々の国と申すは、心々の国であるぞ、一つの王で治めるのだぞ。
天つ日嗣の実子様が世界照らすのぞ。国のひつきの御役も大切の御役ぞ。
道とは三つの道が一つになることぞ、みち満つことぞ、
元の昔に返すのだぞ、つくり固めの終わりの仕組みぞ、
終わりは始めぞ、始めは霊ぞ、富士、都となるのだぞ、幽国行きは外国行きぞ。
神の国光って目あけて見れんことになるのだぞ、臣民の身体からも光が出るのだぞ、
その光によって その御役、位、わかるのだから、
みろくの世となったら何もかもハッキリして うれしうれしの世となるのぞ、
今の文明なくなるのでないぞ、たま入れていよいよ光って来るのぞ、
手握って草木も四つ足もみな唄うこととなるのぞ、
御光に みな集まって来るのだぞ、てんし様の御光は神の光であるのだぞ。

昭和19年9月21日(1944年 皇紀2604年 甲申)

神典研究家で神名には明るかった天明氏でさえ、天之日月神がいかなる神なのか、また、どこに鎮座され祀られている神なのか分からなかったそうですが、私が調べた限りでは、享保7年(1722年)成立の『佐倉風土記』の記述が最も古かったです。上のページの次にアイキャッチという順番が本来です。第十七話の佐倉惣五郎事件当時の藩主・堀田正信から堀田氏が再び佐倉藩を治めるまでの間に幾度か藩主が交代したのですが、稲葉正往が治めていた時代、藩儒・磯辺昌言によって佐倉風土記は執筆されました。約百年の後、堀田正信の孫である堀田正亮が佐倉藩に戻ってくると、「前期堀田氏」の改易と結びつける伝承が生じていた、佐倉惣五郎父子の慰霊を行いました。それ以降、幕末に至るまで佐倉藩を治めていた堀田氏を指して「後期堀田氏」と呼ぶそうです。安政4年(1857年)10月に完成した『利根川図誌』(赤松宗旦氏/著)についての麻賀多神社の記述は、その佐倉風土記を参照しているようです。戻ってきた堀田氏は信心深くなったようで、佐倉市鏑木町にある麻賀多神社は「佐倉藩総鎮守」です。

麻賀多十八社 社殿/鳥居 比較

ttps://chiba.jinja.love/?p=12472

かつては三十八座あったものの、享保7年時点での摂社・末社は五座で、印波國造社、幸靈さきたま神社、馬來田まくた朗女いらつめ神社、猿田彦神社、天日津久神社となっていたようです。まず伊都許利命を祀るのは分かる、猿田彦神社も分かるのですが、ここからが問題です。幸靈さきたま神社(幸霊神社)?愛知県に幸霊社という神社があるそうですが、あちらも由来不明だそうです。島根県松江市に、三穂津姫命を祀るという幸魂神社があるそうですが、断定まではちょっと…。馬來田まくた朗女いらつめ神社(馬来太郎女神社)という名前から察するに木更津市馬来田辺りに由来する神社だと思うんですが…。「が」ばっかり。縁起不明神社ばっかり。

日の出の巻 第十五帖

十柱の神様 奥山に祀りてくれよ、九柱でよいぞ、
いずれの神々様も世の元からの肉体持たれた生き通しの神様であるぞ、
この方合わせて十柱となるのだぞ。御神体の石 集めさせてあろうがな、
篤く祀りて、辛酉の日にお祭りしてくれよ。病あるかないか、災難来るか来ないかは、
手届くか届かないかでわかると申してあろうがな。届くとは注ぐことぞ、
手首の息と腹の息と首の息と頭の息と足の息と胸の息と臍の息と脊首の息と手の息と
八所十所の息合っていれば病ないのだぞ、
災難見ないのだから、毎朝 神拝みてから よく合わせてみよ、
合っていたらその日には災難無いのだぞ、殊に臍の息一番大切だぞ、
もしも息合っていない時には一二三唱えよ、唱え唱えて息合うまで祷れよ、
どんな難儀も災難も無くしてやるぞ、この方 意富加牟豆美神であるぞ。
神の息と合わされると災難、病無くなるのだぞ、大難小難にしてやるぞ、生命助けてやるぞ、
このことはこの方信じる人でないと誤るから知らすではないぞ、
手二本 足二本いれて十柱ぞ、手足一本として八柱ぞ、
このこと 早う皆に知らして どしどしと安心して働くようにしてやれよ。
飛行機の災難も地震罪穢れの禍いも、大きい災難ある時には息乱れるのだぞ、
「一二三祝詞」と「祓え祝詞」と神の息吹きと息と一つになっておれば災難逃れるぞ、
信じる者ばかりに知らせてやってくれよ。

昭和19年12月18日(1944年 皇紀2604年 甲申)

オオカムヅミ

ttps://ja.wikipedia.org/wiki/オオカムヅミ

賀茂神社 (阿波市)

ttps://ja.wikipedia.org/wiki/賀茂神社_(阿波市)

桃太郎神社 (犬山市)

ttps://ja.wikipedia.org/wiki/桃太郎神社_(犬山市)

天明氏は日月神示について、実際は色々な霊が懸かってきたと証言しておりますし、鳴門の御用(イイヨリの御用)は香川県高松市庵治町の太鼓岩と言われてますし、尾張の御用の詳細は不明ですが、立ち寄ってはいないと思われます。一方、日月神示が降りる前、天明氏は桃太郎の絵を描いて生計を立てていた時期があったそうです。その意味では天明氏を助けた神様という事になります。

麻賀多神社縁起

ttp://www14.plala.or.jp/nikorobin/magataengi.html

何か十八社以上あるのは気にしないとして、小麻賀多神社(駒形神社)って何?

駒形神社

ttps://ja.wikipedia.org/wiki/駒形神社

とはいっても小麻賀多神社の祭神は稚産霊神になっているようなので、やっぱり麻賀多神社なんだなと。

皇位

ttps://ja.wikipedia.org/wiki/皇位

ところで、「あまのひつく」、「日嗣」という神名は、古代では「日嗣(ひつぎ)」が皇位と同義語であり、大本事件に巻き込まれた天明氏にとっては、大変危険な名前だったと言えます。一応官憲に対する配慮はあったのか、戦後の「雨の巻 第一帖」までは「日津久」表記でした。(例外は終戦十日前の「夜明けの巻 第九帖」で「天津日嗣皇尊大神」を称した。)実は「あまのひつぎ」で検索すると、こういうサイトもヒットするようになるのです。

あまのひつぎ

ttp://jmapps.ne.jp/kokugakuin/det.html?data_id=31655

郷社麻賀多神社。
●台方にあり祭神を稚産霊神となす。応神帝の朝印波国造伊都許利命の齋祀せる所なりという延喜式内神社の1つ。(中略)印旛沼畔に一大華表あり延歴2年9月勅使大伴家持卿始めて建立せる所なりと云う。爾来61年毎に建替を定例とする又郡内の一勝地なり。

以下、万葉百科 奈良県立万葉文化館 様

ttps://manyo-hyakka.pref.nara.jp/db/detail?cls=db_manyo&pkey=4089

巻18-4089 獨居幄裏、遥聞霍公鳥喧作歌一首〔并短歌〕

高御座天の日継と天皇の神の命の聞し食す国のまほらに山をしもさはに多みと百鳥の来居て鳴く声春されば聞きのかなしもいづれをか別きてしのはむ卯の花の咲く月立てばめづらしく鳴くほととぎすあやめぐさ玉貫くまでに昼暮らし夜渡し聞けど聞くごとに心つごきてうち嘆きあはれの鳥と言はぬ時なし

高御座にあって、天日をうけ嗣ぐものとして、天皇たる神の命がお治めになる国、この秀れた国土には山があちこちに多いので、いろいろな鳥がやって来て鳴く。その声は春になると聞いていてかわいいことよ。どの声がいいというのでもないが、中でも卯の花の咲く月になると、愛らしく鳴くほととぎすは、菖蒲草を薬玉に通す五月まで、昼は一日中、夜は一晩中聞いても聞くたびに心が動いて感嘆し、興尽きない鳥だといわない時はない。

ttps://manyo-hyakka.pref.nara.jp/db/detailLink?cls=db_manyo&pkey=4094

巻18-4094 賀陸奥國出金詔書歌一首〔并短歌〕

葦原の瑞穂の国を天降り領らしめしける皇御祖の神の命の御代重ね天の日嗣と領らし来る君の御代御代敷きませる四方の国には山川を広み厚みと奉る御調宝は数へ得ず尽しもかねつ然れどもわが大君の諸人を誘ひ給ひ善き事を始め給ひて黄金かもたしけくあらむと思ほして下悩ますに鶏が鳴く東の国の陸奥の小田なる山に黄金ありと申し給へれ御心を明らめ給ひ天地の神相誘なひ皇御祖の御霊助けて遠き代にかかりし事を朕が御代に顕はしてあれば食国は栄えむものと神ながら思ほしめして物部の八十伴の緒を服従の向けのまにまに老人も女童児も其が願ふ心足ひに撫で給ひ治め給へば此をしもあやに貴み嬉しけくいよよ思ひて大伴の遠つ神祖のその名をば大来目主と負ひ持ちて仕へし官海行かば水浸く屍山行かば草生す屍大君の辺にこそ死なめ顧みはせじと言立てますらをの清きその名を古よ今の現に流さへる祖の子等そ大伴と佐伯の氏は人の祖の立つる言立て人の子は祖の名絶たず大君に奉仕ふものと言ひ継げる言の官そ梓弓手に取り持ちて剣大刀腰に取り佩き朝守り夕の守りに大君の御門の守りわれをおきてまた人はあらじといや立て思ひし増る大君の御言の幸の/ [一は云はく、を]聞けば貴み[一は云はく、貴くしあれば]

葦がしげるみのり豊かなこの国土を、天から降ってお治めになった皇祖の神の御代を重ねて、天日を継承するものとして支配なさる天皇の御代御代に、統治なさる四方の国には、山や川が広く豊かなので、貢上する宝物は数えきれず尽くすこともできない。しかしながらわが大君は、多くの人々をさそってりっぱな事業をお始めになってから、黄金がたしかにあるだろうかとお考えになり、心を悩ませておいでだった。ところが鶏の鳴く東の方、陸奥の小田という山に黄金があると申しあげると、御心のふさぎをお晴らしになった。「天地の神々も尊いこととお思いなさり、皇祖の御魂も恩恵を施され、遠い昔にあった、こうした事を、またわが御代にもお見せくださったので、わが統治の国は繁栄するにちがいない」と、大君は神の御心にお考えになり、多くの廷臣たちを従え政治に向かわせる一方、老人も、女も子供も、その願いが心のままに満足するように安らかにさせ、治めなさる。そのことを私は、ふしぎに尊く嬉しいことと、ますます考える。大伴という、遠い祖先の名を大来目主として掲げもち、朝廷奉仕を役目として来た氏は「海に征けば水につかる屍、山に戦えば草のはえる屍。大君のかたわらに死のう。わが身をふりむくまい」と言立てをして、勇敢な男の清らかな名を昔から今の現実に伝えて来た末の一族であるよ。大伴・佐伯の両氏は、祖先の立てた言立てによって、子孫が祖先の名を絶やさず大君に奉仕するものと言い伝えて来た、そのことばどおりの役目の氏であるよ。梓の弓を手に握り持ち、剣太刀を腰に帯び「朝の守護・夜の守護に大君の御門の守護をするのには、自分以外に人がいまい」と、ますます心をふるい立たせ、気持は高ぶる。大君のおことばの幸いが〔一ハ云ワク、を〕、聞けば尊いので〔一ハ云ワク、尊く思われるので〕。

ttps://manyo-hyakka.pref.nara.jp/db/detail?cls=db_manyo&pkey=4098&dicCls=d_kanno&dicDataId=18&detaillnkIdx=0

巻18-4098 為幸行芳野離宮之時、儲作歌一首〔并短歌〕

高御座天の日継と天の下知らしめしける皇祖の神の命の恐くも始めたまひて貴くも定めたまへるみ吉野のこの大宮にあり通ひ見したまふらしもののふの八十伴の緒も己が負へる己が名負ふ負ふ大君の任けのまくまくこの川の絶ゆることなくこの山のいや継ぎ継ぎにかくしこそ仕へ奉らめいや遠長に

高御座にあって、天日を承けつぐものとして天下をお治めになった遠い天子が、畏れ多くも始めなさり貴くもお定めになったみ吉野のこの大宮に、わが大君は通いつづけて風景を御覧になるらしい。多くの廷臣たちも、それぞれがもつ氏の名にたえず背かず、大君の任命に応じつづけ、この川が絶えることのないように、この山が次々と重なるように、このようにお仕え申し上げよう。一層永遠に。

ttps://manyo-hyakka.pref.nara.jp/db/detail?cls=db_manyo&pkey=4254

巻19-4254 向京路上、依興預作侍宴應詔歌一首〔并短歌〕

あきづ島大和の国を天雲に磐船浮かべ艫に舳にま櫂しじ貫きい漕ぎつつ国見しせして天降りまし払ひ言向け千代重ねいや継ぎ継ぎに知らしける天の日継と神ながら我ご大君の天の下治めたまへばもののふの八十伴の緒を撫でたまひ整へたまひ食す国の四方の人をもあぶさはず恵みたまへば古ゆなかりし瑞度まねく申したまひぬ手抱きて事なき御代と天地日月と共に万代に記し継がむそやすみしし我ご大君秋の花しが色々に見したまひ明らめたまひ酒みづき栄ゆる今日のあやに貴

秋津島の大和の国を、天雲に磐船を浮かべ、船尾にも船首にも左右の櫂を一面に通して漕ぎながら国見をなさって地上にお降りになり、邪魔者を掃い従え、千代を重ねて一層次々と平定なさってきた天皇の御位にあって、神のままにわが大君が天下をお治めになると、廷臣の多くの者どもをいつくしみなさり、整備なさり、支配する国土のあらゆる人々をも残さずお恵みになるので、昔からなかった瑞祥が度々奏上されることだ。何もせず手を組んでいても太平な御代として、天地・日月と共に万代の後までも記録しつがれるだろう。八方を支配されるわが大君が、秋の花のさまさまな色どりを、それぞれに御覧になって御心を晴らす、酒宴が賑やかな今日の、ふしぎな貴さよ。

ttps://manyo-hyakka.pref.nara.jp/db/detail?cls=db_manyo&pkey=4465

巻20-4465 喩族歌一首〔并短歌〕

ひさかたの天の門開き高千穂の岳に天降りし皇祖の神の御代よりはじ弓を手握り持たし真鹿児矢を手挟み添へて大久米のますら健男を先に立て靫取り負ほせ山川を岩根さくみて踏み通り国求ぎしつつちはやぶる神を言向けまつろはぬ人をも和し掃き清め仕へ奉りてあきづ島大和の国の橿原の畝傍の宮に宮柱太知り立てて天の下知らしめしける天皇の天の日継と継ぎて来る君の御代御代隠さはぬ明き心を皇辺に極め尽くして仕へ来る祖の官と言立てて授けたまへる子孫のいや継ぎ継ぎに見る人の語り次てて聞く人の鑑にせむをあたらしき清きその名そおぼろかに心思ひて空言も祖の名絶つな大伴の氏と名に負へるますらをの伴

ひさかたの天の戸を開き、高千穂の嶺に天降った、天皇の祖先神の昔から、わが一族は櫨弓を手に握り持ち、真鹿児矢を脇にかかえて、大久米部の勇敢な男たちを先頭に立て、靱を背に山川の岩を踏み分け踏みくだいて国土を求めつつ、ちはやぶる神を平定し、反抗する人々も従え、邪悪なものを一掃して、お仕え申して来た。また、秋津島の大和の国の橿原の畝傍の宮に、宮殿の柱をりっぱに立てて天下を支配なさった皇祖の、それ以来の御位として引き継いで来た君の御代御代に、隠しへだてなく赤心を、天皇に向けて極め尽してお仕えして来た。そうした祖先代々の役目としてことばにあげて天皇が官をお授けになるわれら子孫は、一層次々と、見る人が語りつぎ聞く人が手本にするはずのものを。惜しむべき清らかなその名であるよ。あさはかに思慮して、かりそめにも祖先の名を絶やすな。大伴を氏の名にもつ大夫たちよ。

大伴宿禰家持

ttps://manyo-hyakka.pref.nara.jp/db/detail?cls=db_manyo&pkey=4509&dicCls=d_utabito&dicDataId=174&detaillnkIdx=0&lnkDic=true

巻20-4509 波布久受能多要受之努波牟於保吉美乃賣之思野邊尒波之米由布倍之母

延ふ葛の絶えず偲はむ大君の見しし野辺には標結ふべしも

蔓(つる)を伸ばす葛のように絶えずお慕いしよう。大君が御覧になった高円の野辺には標縄(しめなわ)を張っておくべきであるよ。

「一の鳥居」第0話のカット違いです。

大伴家持

ttps://ja.wikipedia.org/wiki/大伴家持

大伴馬来田

ttps://ja.wikipedia.org/wiki/大伴馬来田

大伴吹負

ttps://ja.wikipedia.org/wiki/大伴吹負

天武天皇の代には、弟の吹負が常道頭(常陸国の守)を務めたとあるので、兄の馬来田も馬来田を治めた可能性は高いです。従って家持の頃、大伴家は上総国から常陸国にかけて一定の影響力があった。伴氏神社の創祀が平安京遷都時(延暦13年/794年)とされているので、一の鳥居を寄進した当時は、大伴氏は祭祀する神社を持っていなかったと考えられます。

ただ一点、疑問が残ります。

第二十一話 「碧玉之巻 第十帖」➂

岩戸閉めの始めはナギ(伊邪那岐命)ナミ(伊邪那美命)の命の時であるぞ、
ナミの神が火の神を生んで黄泉国に入られたのが、そもそもであるぞ、
十の卵を八つ生んで二つ残して行かれたのであるぞ、
十二の卵を十生んだことにもなるのであるぞ、
五つの卵を四つ生んだとも言えるのであるぞ、すべて神界のこと、
霊界のことは、現界から見れば妙なことであるなれど、それでちゃんと道にはまっているのであるぞ。
一ヒネリしてあるのじゃ、天と地との間に大きなレンズがあると思えば段々にわかって来るぞ。
夫神、妻神、別れ別れになったから、一方的となったから、
岩戸が閉められたのである道理、わかるであろうがな。
その後、独り神となられた夫神が三神をはじめ、色々なものをお生みになったのであるが、
それが一方的であることは申すまでもないことであろう、
妻神も同様、黄泉大神となられて、黄泉国のすべてを生み育て給うたのであるぞ、
この夫婦神が、時めぐり来て、千引きの岩戸をひらかれて相抱き給う時節来たのであるぞ、
うれしうれしの時代となって来たのであるぞ。
同じ名の神が至るところに現れて来るのだぞ、名は同じでも、はたらきは逆なのであるぞ、
この二つがそろって、三つとなるのぞ、三が道ぞと知らせてあろうがな。
時来たりなば この千引きの岩戸を倶にひらかんと申してあろうがな。

次の岩戸閉めは天照大神の時ぞ、大神はまだ岩戸の中にましますのぞ、
ダマシタ岩戸からはダマシタ神がお出ましぞと知らせてあろう。
いよいよとなってマコトの天照大神、天照皇大神、日の大神、そろってお出まし近くなって来たぞ。

次の岩戸閉めは素盞鳴命にすべての罪を着せてネの国に追いやった時であるぞ、
素盞鳴命は天下を治しめす御役の神であるぞ。
天ヶ下は重きものが積もって固まったものであるからツミと見えるのであって、
よろずの天の神々が積もる(と言う)ツミ(積)をよく理解せずして罪神と誤ってしまったので、
これが正しく岩戸閉めであったぞ、
命をアラブル神なりと申して伝えているなれど、アラブル神とは粗暴な神ではないぞ、
あばれ廻り、こわし廻る神ではないぞ、アラフル(現生る)神であるぞ、
天ヶ下、大国土を守り育て給う神であるぞ、取り違いしていて申し訳あるまいがな。
このことよく理解できねば、今度の大峠は越せんぞ。
絶対の御力を発揮し給う、ナギ・ナミ両神が、
天ヶ下を治らす御役目を命じられてお生みなされた尊き御神であるぞ。
素盞鳴の命にも二通りあるぞ。
一神で生み給える御神と、夫婦呼吸を合わせて生み給える御神と二通りあるぞ、
間違えてはならんことぞ。

神武天皇の岩戸閉めは、御自ら人皇を名乗り給うより他に道なきまでの御働きをなされたからであるぞ。
神の世から人の世への移り変わりの事柄を、一応、岩戸に隠して神ヤマトイワレ彦命として、
人皇として立たれたのであるから、大きな岩戸閉めの一つであるぞ。

仏教の渡来までは、わずかながらもマコトの神道の光が差していたのであるなれど、
仏教と共に仏魔渡って来て完全に岩戸が閉められて、クラヤミの世となったのであるぞ、
その後はもう乱れ放題、やり放題の世となったのであるぞ、これが五度目の大き岩戸閉めであるぞ。

昭和36年5月6日(1961年 皇紀2621年 辛丑)

第十八話で素羽鷹神社の写真を撮り損ね(そんなはずないような気がするんだけど)、その本宮は香取市大倉にある側高神社であり、その側高神社も香取神宮の摂社とされている事から、香取神宮へ参拝に行く事にしました。「匝瑳市の龍尾寺」はどうした?いえ、龍尾寺行くと歩きが確実に「10キロオーバー」になってしまうので、肉離れの病み上がりの足には駅から近い方が良いかと思いまして。側高神社も寄れるかなって思っていたのですが…。

令和八年だと!?

…私は時間凍結されていたのでしょうか?

…まさかね。

しかしさっきからさっぱり人気ひとけが無いのですが。

そんなはずもなく。アイキャッチの写真なんて奇跡的に人がいなかっただけで。

参道が広いです。これが神宮か。高校の時、明治神宮に行った事があるとはいえ、人大杉でそれを実感するどころではなく。

今井健彦

ttps://ja.wikipedia.org/wiki/今井健彦

今井信郎

ttps://ja.wikipedia.org/wiki/今井信郎

今井信郎は、近江屋事件の件で嫌疑をかけられ、坂本龍馬暗殺の際には見張り役だったとして、禁固刑二ヶ年の判決を受けた後、釈放されております。氏の三男が今井健彦であり、衆議院議員(立憲政友会)、文部政務次官、商工政務次官、農林参与官、ジャーナリスト、東京毎日新聞社社長を務めたそうです。

奥に進みます。

ここだけでも普通の神社の広さあるわ。

護国神社

ttps://ja.wikipedia.org/wiki/護国神社

こちらは香取神宮内にあるから良いとしても、戦没者を直接知る遺族や戦友たちの高齢化、引き継ぐ管理者がいなくなると存続が厳しいか…。あ、この左側奥にある「要石」行くの忘れた。道戻っちゃったのです。

やっと…と思ったらまだ先なのです。

( ゚д゚)ハッ!

と、思っていたら正面は手水舎、拝殿は右へ。

…。

…。

ちょ…こんなシーン何時かも見た気がするぞ…デジャヴ?

香取神宮

ttps://ja.wikipedia.org/wiki/香取神宮

神宮の祭祀氏族は、古くは香取連(かとりのむらじ、香取氏)の一族とされますが、系図によれば、大中臣氏から大中臣清暢が香取連五百島の養子に入る事で香取大宮司を、清暢の子の秋雄が香取大禰宜を担う事となります。その後の平安時代末期までは中央の藤原氏に管掌されていたところ、鹿島神宮大宮司の中臣氏一族から、香取神宮大宮司への任命があって以降は、香取大中臣氏と鹿島中臣氏とが香取の大宮司職を巡って対立を見せ、大中臣氏一族の内部で大宮司・大禰宜職や社領を巡っての抗争が展開、近世の江戸幕府の統制下に入っても、抗争は繰り返されていたことが散見されています。…えっと、このさまは何の例えなのですか?

最初は分かりづらかったのですが、左側が市神社で、祭神は事代主神、天降神社が合祀されているようで、祭神は伊伎志爾保神、鑰守神です。右側が馬場殿神社で、祭神は建速須佐之男命です。

飯篠家直

ttps://ja.wikipedia.org/wiki/飯篠家直

お墓のたたずまいが素晴らしいです。風情があるというか。飯篠家直は18代当主千葉胤宣に仕えていたそうです。因みに、第十八話の龍角寺は第29代当主千葉邦胤が修造したそうです。余談ですが「千葉氏の輪」。

ただ、ここだけは空気が違ったような気がしました。

経津主神の荒御魂を祀る奥宮です。社殿は昭和48年(1973年)の伊勢神宮遷宮の際の古材を使用しているそうです。この竹林と杉が織りなす風景と古材を使った社殿の雰囲気と言ったら…。

よく考えたら、この二本、やけに近いような…。

Wiki見ると境内社、境外社、随分ありますね、だいぶ見落としてる…。

側高神社までは4㎞前後あります。

しかし痣だけは残った…(執筆時点では消えました)。

第二十話 「碧玉之巻 第十帖」②

岩戸閉めの始めはナギ(伊邪那岐命)ナミ(伊邪那美命)の命の時であるぞ、
ナミの神が火の神を生んで黄泉国に入られたのが、そもそもであるぞ、
十の卵を八つ生んで二つ残して行かれたのであるぞ、
十二の卵を十生んだことにもなるのであるぞ、
五つの卵を四つ生んだとも言えるのであるぞ、すべて神界のこと、
霊界のことは、現界から見れば妙なことであるなれど、それでちゃんと道にはまっているのであるぞ。
一ヒネリしてあるのじゃ、天と地との間に大きなレンズがあると思えば段々にわかって来るぞ。
夫神、妻神、別れ別れになったから、一方的となったから、
岩戸が閉められたのである道理、わかるであろうがな。
その後、独り神となられた夫神が三神をはじめ、色々なものをお生みになったのであるが、
それが一方的であることは申すまでもないことであろう、
妻神も同様、黄泉大神となられて、黄泉国のすべてを生み育て給うたのであるぞ、
この夫婦神が、時めぐり来て、千引きの岩戸をひらかれて相抱き給う時節来たのであるぞ、
うれしうれしの時代となって来たのであるぞ。
同じ名の神が至るところに現れて来るのだぞ、名は同じでも、はたらきは逆なのであるぞ、
この二つがそろって、三つとなるのぞ、三が道ぞと知らせてあろうがな。
時来たりなば この千引きの岩戸を倶にひらかんと申してあろうがな。

次の岩戸閉めは天照大神の時ぞ、大神はまだ岩戸の中にましますのぞ、
ダマシタ岩戸からはダマシタ神がお出ましぞと知らせてあろう。
いよいよとなってマコトの天照大神、天照皇大神、日の大神、そろってお出まし近くなって来たぞ。

次の岩戸閉めは素盞鳴命にすべての罪を着せてネの国に追いやった時であるぞ、
素盞鳴命は天下を治しめす御役の神であるぞ。
天ヶ下は重きものが積もって固まったものであるからツミと見えるのであって、
よろずの天の神々が積もる(と言う)ツミ(積)をよく理解せずして罪神と誤ってしまったので、
これが正しく岩戸閉めであったぞ、
命をアラブル神なりと申して伝えているなれど、アラブル神とは粗暴な神ではないぞ、
あばれ廻り、こわし廻る神ではないぞ、アラフル(現生る)神であるぞ、
天ヶ下、大国土を守り育て給う神であるぞ、取り違いしていて申し訳あるまいがな。
このことよく理解できねば、今度の大峠は越せんぞ。
絶対の御力を発揮し給う、ナギ・ナミ両神が、
天ヶ下を治らす御役目を命じられてお生みなされた尊き御神であるぞ。
素盞鳴の命にも二通りあるぞ。
一神で生み給える御神と、夫婦呼吸を合わせて生み給える御神と二通りあるぞ、
間違えてはならんことぞ。

神武天皇の岩戸閉めは、御自ら人皇を名乗り給うより他に道なきまでの御働きをなされたからであるぞ。
神の世から人の世への移り変わりの事柄を、一応、岩戸に隠して神ヤマトイワレ彦命として、
人皇として立たれたのであるから、大きな岩戸閉めの一つであるぞ。

仏教の渡来までは、わずかながらもマコトの神道の光が差していたのであるなれど、
仏教と共に仏魔渡って来て完全に岩戸が閉められて、クラヤミの世となったのであるぞ、
その後はもう乱れ放題、やり放題の世となったのであるぞ、これが五度目の大き岩戸閉めであるぞ。

昭和36年5月6日(1961年 皇紀2621年 辛丑)

煮詰まってきたので気晴らししたいんですけど、いつのまにやら調べ物してる…やらなきゃいけない事あるんですけどね…逃げてるだけなのでしょうか。そしたらこんなの見つけてしまったのです、しかもよりにもよって「麻賀多神社」だと?!

【ムー謎の古代文字】新資料公開! 麻賀多神社に伝来した神代文字文献

ttps://www.excite.co.jp/news/article/Getnavi_366635/

麻賀多神社神代文字 出雲文字

ttp://www14.plala.or.jp/nikorobin/magata2.html

出雲文字

ttps://ja.wikipedia.org/wiki/出雲文字

「伊都許利命がこの地に来た時に地味が悪いので里長に聞けば、日本武尊が東征の折に、この地に寄って祈りを捧げた。それによって五穀豊穣となり人々を助け、その方法を記したので子々孫々これを守れ。」という事らしいのですけど、逆に、もしこの文字が日本武尊に由来するものであるなら、意富比神社(船橋大神宮)を始め、日本武尊が参拝したとされる神社に同様の縁起が存在したと思います。私は神代文字の存在に対しては、可能な限り中立の立場であろうとしておりますが、これらの存在の否定説の根拠にあげられているのが「上代日本語」と五十音順の成立時期です。

上代日本語

ttps://ja.wikipedia.org/wiki/上代日本語

漢字

ttps://ja.wikipedia.org/wiki/漢字

仮名 (文字)

ttps://ja.wikipedia.org/wiki/仮名_(文字)

五十音

ttps://ja.wikipedia.org/wiki/五十音

第四話で宋書に出て来る「倭の五王」についての話で、477年~478年頃の「武」と見なされる雄略天皇の宋への朝貢忖度と邪馬台国について書いたのですが、古墳時代に相当する時期の有力者は大陸の先進文明をこぞって求め、次々と歴代の中国王朝に媚びるようになります。当然の事ながら彼らとのコンタクトは「漢字」であり、漢字を書けるのは渡来人であるため、時の有力者は渡来人を、後の世で言う「官位」のような役職に就けるようになります。ここまで言えば「文字が漢字化するのは当たり前」だと思うのです。ところが仮名 (文字)のWikiにもある様に、

「漢文」は当然ながら中国語に基づいた書記法であり、音韻や構文の異なる日本語を書き記すものではなかった。この「漢文」を日本語として理解するために生まれたのが「漢文訓読」である。しかし地名や人名などの日本語の固有名詞は、漢字をそのまま使ってもその音を書き記すことはできない。そこで使われたのが漢字本来の意味を無視してその発音だけを利用し、日本語の音に当てる「借字」(しゃくじ)であった。これはたとえば漢字の「阿」が持つ本来の意味を無視して「ア」という音だけを抽出し、「阿」を日本語の「ア」として読ませるという方法である。この借字によって日本語が漢字で表記されるようになった。この表記法を俗に「万葉仮名」とも呼ぶ。

この事は、太安万侶が和銅5年(712年)編纂の『古事記』序文において、「已に訓に因りて述ぶれば、詞は心に逮らず。全く音を以ちて連ぬれば、事の趣更に長し」と嘆いているように、日本語に用いる書記体系として、漢字は扱いやすいものではなかったはずです。その渡来人の発音形態がおそらく「上代日本語」の一子音につき合計8種の音節が使い分けられていたのであり、古墳時代頃から奈良時代頃まで日本(特に、都のあった奈良付近)でしか使用されずに廃れた理由だと思うのです。太宰春台ら儒者の「漢字文明による『聖人の道』が入ってくるまでは我が国は野蛮な国だった」だの、蝦夷という概念に見られるように、何時の世にも「東」は低く見られてきたのです。つまりロジックが全て逆。

日月の巻 第二十六帖

㋰、㋒、㋒、ウ、うにアエオイウだぞ。昔の世の元ぞ。
㋐、㋳、㋻、ヤ、ワあるぞ。世の元ぞ。サタナハマからあるぞ
一柱、二柱、三柱、五柱、七柱、八柱、九柱、十柱、と申してあろうがな。
五十九の柱の神、七十五柱これでわかったか。㋰はゝだぞ。
ゝには裏表上下あるのだぞ。
冬の先 春とばかりとは限らんと申してあること忘れるなよ。
用意せよ。冬に桜咲くぞ。

昭和19年11月22日(1944年 皇紀2604年 甲申)

今回はハルマゲドンの話をする気無いので、「七十五」について。

真素美の鏡

ttps://onipedia.info/wiki/真素美の鏡

大石凝真素美

ttps://ja.wikipedia.org/wiki/大石凝真素美

オリジナルは徳川末期の言霊学者中村孝道の門人である大石凝真素美で、原本は『大日本皇国言霊の巻』です。なんでも遠祖は大伴氏とか。㋐㋔㋒㋓㋑の並びって『真訓古事記 上の巻』に記述あるのですね。

夜明けの巻 第十三帖

あら楽し、すがすがし、世は朝晴れたり、昼晴れたり、夜も晴れたり。
あら楽し、すがすがし、世は岩戸明けたり、待ちに待ちし岩戸開けたり。

この神示の臣民と言うても、人間界ばかりでないぞ。
神界幽界のことも言って知らせてあると、申してあろうが。
取り違い慢心一等恐いと申してあろうが。
祭典、国民服もんぺでも良いぞ。
天明(岡本天明)まつりの真似するでないぞ。役員まつりせい。何も言うでないぞ。
言って良い時は知らせるぞよ。わかったか。
仕える者無き宮、産土様の真下にいくら祀ってもよいぞ。
天明は祈れ。祈れ。天に祈れ、地に祈れ、
引き潮の時引けよ。満ち潮の時進めよ。大難小難にと役員も祈れよ。
口先ばかりでなく、誠祈れよ。祈らねばならんぞ。口先ばかりでは悪となるぞ。わかったか。
今度は借銭済しになるまでやめんから、誰によらず借銭無くなるまで苦しい行せなならんぞ、
借銭なしでないと、お土の上には住めんことに今度はなるぞ。
イシの人と、キの人と、ヒの人と、ミヅの人と、できるぞ。
今にチリチリバラバラに一時はなるのであるから、その覚悟よいか。
毎度知らせてあること忘れるなよ。神示 腹の腹底まで浸むまで読んで下されよ。神頼むぞ。
悟った方 神示説けよ。解いて聞かせよ。役員 皆 説けよ。信じる者 皆 人に知らせてやれよ。
神示読んで嬉しかったら、知らせてやれよ申してあろうが。
天明は神示書かす役ぞ。アホになれと申してあろうが、まだまだぞ、役員 気つけてくれよ。
神示の代わりにミ身に知らせると申してある時来たぞ。いよいよの時ぞ。
神示で知らせることの始めは済みたぞ。実身掃除せよ。ミ身に知らすぞ。実身に聞かすぞ、
聞かな聞くようにして知らすぞ。つらいなれど、我慢せよ。ゆめゆめ利巧出すでないぞ。
わかったか、百姓にもなれ、大工にもなれ、絵描きにもなれ。
何にでもなれるようにしてあるでないか。役員も同様ぞ。
集団作るでないぞ、金取るでないぞ、神に供えられたものはみな分けて、
喜ばせてやれと申してあろうが。この方 喜ぶこと好きぞ、好きのこと栄えるぞ。弥栄えるぞ。
信者作るでないぞ。道伝えなならんぞ。取り違いせんように慢心せんように、
生まれ赤児の心で神示読めよ。神示いただけよ。
日本の臣民 皆勇むよう、祈りてくれよ。世界の人民 皆喜ぶ世が来るよう 祈りてくれよ。
てんし様まつれよ。みことに服ろえよ。このことできれば他に何もわからんでも、峠越せるぞ。
御民いのち捨てて生命に生きよ。

「鳥鳴く声す夢覚ませ、見よ あけ渡るひむかしを、空色晴れて沖つ辺に、千船行きかう靄の裡」

「いろは、にほへとち、りぬるをわかよ、たれそ、つねならむ、うゐのおくやま、
 けふこ、えてあさき、ゆめみしゑひもせすん」

「アオウエイ、カコクケキ、サソスセシ、タトツテチ、ナノヌネニ、ハホフヘヒ、
 マモムメミ、ヤヨユエイ、ラロルレリ、ワヲウヱヰ」

「アイウエオ、ヤイユエヨ、ワヰエヲ、カキクケコ、サシスセソ、タチツテト、
 ナニヌネノ、ハヒフヘホ、マミムメモ、ヤイユエヨ、ラリルレロ、ワヰウヱヲ」

五十九柱ぞ。この巻夜明けの巻とせよ。この十二の巻 よく腹に入れておけば何でもわかるぞ。
無事に峠越せるぞ。わからんことは自分で伺えよ。それぞれに取れるぞ。

天津日嗣皇尊 弥栄弥栄。あら楽し、あら楽し、あなさやけ、あなさやけ、おけ。
一二三四五六七八九十百千卍。

昭和20年8月10日(1945年 皇紀2605年 乙酉)

「五十」と「六十」と「七十五」の最小公倍数って「三百」ですよね?

神代文字

ttps://ja.wikipedia.org/wiki/神代文字#cite_ref-19

神代巻口訣

ttps://ja.wikipedia.org/wiki/神代巻口訣

近世の偽作説もある忌部正通が執筆した神代巻口訣より、「神代文字は象形なり。応神天皇の御宇、異域の典経始めて来朝す。推古天皇の朝に至って、聖徳太子漢字を以て和字に附す」とあります。邪馬台国は別にして、倭の五王の一人「応神天皇の御宇、異域の典経始めて来朝」した段階で「漢字」と共に渡来人が来日した事によって日本の文字の歴史が始まったとするのが現代の風潮ですが、出雲や飛騨だけでなく日本各地において、象形文字やヒエログリフが見つかっている事実は認めざるを得ません。にも拘らず今日、神代文字に対する研究費用が下りない、というのを耳にするのですが、これは相対性理論やビッグバンに反対する研究費用が下りないようなもので、既に学会が宗教化、利権化しているのが問題です、否、どこの業界も。

出雲、ときたらいよいよこの方の登場か。

スサノオ

ttps://ja.wikipedia.org/wiki/スサノオ

我の潔白が誓約によって証明されたとしたが、勝ったに任せてと次々と粗暴を行い、天照大御神は恐れて天の岩屋に隠れてしまった。そのため、彼は高天原を追放された(神逐)。

天岩戸

ttps://ja.wikipedia.org/wiki/天岩戸

何だ、日本書紀の第七段一書(一)、(二)、(三)って…。古事記とも違うし…。この点、古語拾遺ではシンプルに語られているようで。

素戔嗚神は毀畔(あはなち)・埋溝(みぞうみ)・放樋(ひはなち)・重播(しきまき)・刺串(くしさし)・生剥(いけはぎ)・逆剥(さかはぎ)・屎戸(くそと)といった天つ罪を犯した。天照大神は怒り、天岩窟に入り磐戸を閉ざして籠もってしまった。国の内は常闇となり、昼夜の別がなくなった。高皇産霊神は八十万の神を天八湍河原(あめのやせのかはら)に会し、謝る方途を議論した。(中略)

素戔嗚神は罪を問われ、科すにあたっては千座の置戸(多数の祓物)を以てし、首の髪、手足の爪を抜かれ、罪を贖わされた。これによって罪を解除(はら)い、地上に追放された。

伊邪那岐命と伊邪那美命の話や、天の岩戸、素盞鳴命の話については、神示と記紀の双方で記述されている話ですので、その経緯を知らされた誰かがいた事は確か。ただ、神界で為される事がこの世界に反映される事を考えると、この「天つ罪」とはホントに悪行なのか?という話ではないかと思うのです。例えば農家の方なら「糞をまく→堆肥」や「生剥→動物避け」をイメージできると思うのですが、その知識が無い人は、単に嫌がらせにしか見えないのかもしれません。この誤解こそが本質のねじれを産み出したのだとすれば、悲劇としか言いようがありません。確かにこれは一方的な見方ではあります。

大国主の神話

ttps://ja.wikipedia.org/wiki/大国主の神話#根の国訪問

大国主

ttps://ja.wikipedia.org/wiki/大国主

大国主の神話において根の国のスサノオの元にやってきた葦原色許男神(あしはらしこを、後の大国主命)は、スサノオの娘である須世理比売(すせりひめ)と互いに一目惚れするが、スサノオは葦原色許男神に様々な試練を与える。葦原色許男神は須世理比売の助けを得ながらそれらを克服したので、スサノオは葦原色許男神に、須世理比売を妻とすることを認め、生大刀、生弓矢、天詔琴を譲り、大国主という名を贈った。

はなからそのつもりだったのではないですか?アラぶ(荒ぶ)ってますけどw当の大国主は生きた心地しなかったでしょうが。

国譲り

ttps://ja.wikipedia.org/wiki/国譲り

事代主

ttps://ja.wikipedia.org/wiki/事代主

タケミナカタ

ttps://ja.wikipedia.org/wiki/タケミナカタ

タケミカヅチ

ttps://ja.wikipedia.org/wiki/タケミカヅチ

経津主神

ttps://ja.wikipedia.org/wiki/経津主神

正直言って、全く納得いかないのが「国譲り」の神話です。カツアゲにしか見えない。出雲大社の祭神は大国主大神ですが、国譲りを迫られた際には、息子の事代主神が答えると述べ、タケミカヅチが美保ヶ崎へと向かい、事代主神に国譲りを迫ると、「承知した」と言って、船を踏み傾け、天ノ逆手を打って青柴垣に変え、その中に隠れてしまいました。次に建御名方タケミナカタが千引の石を手先で差し上げながら現れ、タケミカヅチに力競べを申し出たものの、タケミナカタの手を若葦のように握りつぶして放り投げてしまいました。更には科野国の州羽海(すわのうみ)まで追いつめて、殺そうとしたのですが、建御名方神はタケミカヅチに対し、その地から出ない旨、大国主神並びに事代主神に背かない旨、葦原中国を天津神の御子に奉る旨を約束した、というのが国譲りの概要なのですが、経津主神は古事記に出ておりません。

日の出の巻 第十八帖

富士の御用は奥山に祀りくれよ、カイの御用も続けてくれよ、
江戸一の宮作ってくれよ、道場も同じぞ、
海の御用とは 海の鳴門と 海の諏訪と 海のマアカタと三所へ祀りくれよ。
その前の御用、言葉で知らせたこと済んだぞ、
海マアカタとは印旛ぞ。
十柱とは火の神、木の神、金の神、日の出の神、竜宮の乙姫、
雨の神、風の神、地震の神、荒れの神、岩の神であるぞ。
辛酉の日に祀りてくれよ。しばらく御神示出ないぞ。
皆の者 早う今までの神示 肚に入れてくれよ、神急けるぞ。
神示読めば神示出て来るぞ。神祀り早く済ませてくれよ

昭和19年12月21日(1944年 皇紀2604年 甲申)

諏訪湖の鳴門神業は、昭和20年1月8日、天明氏の代理で三枝今朝春氏が修めたそうです。「原典日月神示の磐戸の巻 第八帖」には、「三枝、御苦労であったぞ。」という記述があるそうです。(岡本天明伝[日月神示]夜明けの御用・黒川柚月氏/著)この話がらみかな?

出雲大社

ttps://ja.wikipedia.org/wiki/出雲大社

物部神社 (大田市)

ttps://ja.wikipedia.org/wiki/物部神社_(大田市)

素盞嗚神社 (福山市新市町戸手)

ttps://ja.wikipedia.org/wiki/素盞嗚神社_(福山市新市町戸手)

籠神社

ttps://ja.wikipedia.org/wiki/籠神社

真名井神社

ttps://ja.wikipedia.org/wiki/真名井神社

海部氏

ttps://ja.wikipedia.org/wiki/海部氏

物部氏

ttps://ja.wikipedia.org/wiki/物部氏

第四話で「可怜国うましくに」の倭姫命は、第10代崇神天皇の皇女、豊鍬入姫命の後を継いで、神託によって、皇大神宮(伊勢神宮内宮)を創建した事を書きました。伊勢神宮外宮に祀られている豊受大神は、「真名井原」の地(籠神社の現在の奥宮である真名井神社)に鎮座したとされており、天照大神が4年間営んだ元伊勢の「吉佐宮」にあたる、とされています。籠神社の宮司を世襲しているのは、海部氏=丹波国海部氏=尾張物部氏です。籠神社の奥宮となっている真名井神社の東方に「真名井の滝」があって、この滝壺で汲まれた水は、古来より出雲国造の神火相続式や、新嘗祭の際に用いられたとされるのだとか…。そういえば第十二話で、上総一ノ宮の玉前神社に参拝した時、「茅の輪」があったのですけど、茅の輪くぐりとは、夏越神事とされ、疫隈國社・素盞嗚神社の蘇民将来説話に基づいているそうです。更に出雲大社の側にわざわざ物部神社を創建するというのは、「物部氏の正体」(関裕二氏/著)で主張されるように「出雲の国譲りが、物部の出雲いじめにそっくり」に見えます。

ハプログループO1b2 (Y染色体)

ttps://ja.wikipedia.org/wiki/ハプログループO1b2_(Y染色体)

私は同氏の「藤原氏の正体」の方については、納得できるところが多かったのですが、今回の話を検証するまでは正直、ピンとこなかったのです。これは物部氏が渡来人であれば話が繋がります。彼らの瀬戸内海から関門海峡を抜ける海上物流ルート利権です。その代表とされるのが備前物部氏でしょう。物部氏には、「物部+地名」や「物部+職業」という複姓を持つ一族が存在しており、彼らが全国に文明をもたらしたと共に、各地におけるスパイ網として機能したのでしょう。これが後発であるはずのハプログループO1b2が、何故か日本全土に分布している理由でもあり、上代日本語が8種の音節であったのは、「日本語を覚え始めた外国人のようなイントネーションだったから」でしょう。

縄文人には土地所有の概念が気薄であったのに対し、渡来人はより良い水と土地を必要とする民族です。当時の大陸の情勢は危険極まりなく、それは歴代の中国王朝の移り変わりを見る限り、彼らが大陸の敗残兵とその家族だった可能性があります。そんな「渡来人の東征」を古来から日本に住んでいた人たちは、指を咥えて黙って見ていたのでしょうか?

NASA 3502421

旧石器時代の遺跡一覧

ttps://ja.wikipedia.org/wiki/旧石器時代の遺跡一覧

34,000年前、墨古沢は日本の中心であった

ttps://sitereports.nabunken.go.jp/ja/91124

墨古沢遺跡

ttps://www.town.shisui.chiba.jp/docs/2018032200037/

墨古沢遺跡

ttps://ja.wikipedia.org/wiki/墨古沢遺跡

使用石材は、群馬県域のガラス質黒色安山岩が70パーセント以上を占めるが、ほかにも茨城県産の玉髄(メノウ含む)や、栃木県(高原山)・長野県・神津島産の黒曜石、東北地方産と思われる硬質頁岩などが含まれており、石材を求めて北関東地方などの集団と広範囲での交流が行われていたことが判明した。

見に行って聖地巡礼行ってから書こうかと思っていたのですが、現在は埋め戻しているようですし、私の足が肉離れを起こしてしまっているので、行くに行けないのです。旧石器時代の環状ブロック群として、現在確認されている中では日本最大級のものとして、「国の史跡」に指定されております。注目すべきは「神津島産の黒曜石、東北地方産と思われる硬質頁岩」という記述。それらをこの地に集めるだけの能力を有していたという事実です。因みに上の図は、原日本人到達以降で、最も海水面が低かったとされている約二万年前の地形図と、旧石器時代の分布図です。これより後は「縄文海進」の影響で海水面が上昇して、至る所が水没するようになるのです。これを右の図で例えるなら、古東京湾、香取海に該当するところになります。

ハプログループCT (Y染色体)

ttps://ja.wikipedia.org/wiki/ハプログループCT_(Y染色体)

ハプログループC (Y染色体)

ttps://ja.wikipedia.org/wiki/ハプログループC_(Y染色体)

ハプログループC1a1 (Y染色体)

ttps://ja.wikipedia.org/wiki/ハプログループC1a1_(Y染色体)

ハプログループD (Y染色体)

ttps://ja.wikipedia.org/wiki/ハプログループD_(Y染色体)

ハプログループD1a2a (Y染色体)

ttps://ja.wikipedia.org/wiki/ハプログループD1a2a_(Y染色体)

最初のホモサピエンス・ハプログループAから分岐した、ユーラシアン・アダムことハプログループCT、最も近縁なC1a2(V20)は、ユーラシア大陸各地、クロマニヨン人にまで及ぶ、とされるハプログループC1a1(M8)のグループは、ほぼ日本人に限られ、大陸側にはごく僅かにしか見られない事で、その移動ルートは現在に至るまで謎とされているようです。ハプログループC1a1のページを見ると、国内各地の頻度の項目で「沖縄」、「徳島」、「青森」、「宮崎」が突出しているようですが、東京が多いのは、遺伝子の検査技術なるものが首都圏に人口が一極集中した世の中になってからの産物なので、この結果は当然だと言えます。

問題は、最も近縁がアンダマン諸島のオンガン系オンゲ族とジャラワ族のD1a2b-Y34537とされるハプログループD1a2aです。更に謎を深めているのは、ハプログループD (Y染色体)の方のページの記述。

日本本土(九州、本州、四国)は、中国地方および四国、北部九州など西日本の一部地域ではやや少なく、一方で関東地方や東北地方など東日本のほか南部九州に多いなど地域差もあるが、おおよそ32%- 39% のハプログループが「D1a2a」であり、これは古代の縄文人の末裔である可能性が高い。「D1a2a*」から「D1a2a2a」まで様々なグループが見られる。

中国地方および四国、北部九州など西日本の一部地域ではやや少なく、一方で関東地方や東北地方など東日本のほか南部九州に多いなど地域差もあるが、って何?…ハプログループD1a2aのグループがアンダマン諸島残留組と別れた後、わき目もふらずに日本列島に直行したのは極めて謎なのですが、沖縄は別としても、日本列島に辿り着いた際、自然に流れ着くであろう西日本に少ない傾向はとても奇妙に見えます。

縄文時代の遺跡一覧

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弥生時代の遺跡一覧

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何故、あれだけ大陸から人が渡って来れる接点であるハズの北九州や、北海道ではなく、関東地方に人間が集中していたのでしょう?この話は首都の概念が無い古代の話です。おそらく「住みやすかった」、これに尽きると思います。趣味ならいざ知らず、大半の人は平地で暮らす方が楽ですし、それは遺跡の密度で証明されています。狩猟生活中心の旧石器時代から縄文時代初期にかけての人口集中によって、関東地方は食糧供給問題に直面したと思います。

一方で、同時期の九州地方は人口が増えていないように見えます。実はそれどころではなかったからだと思われます。

姶良カルデラ

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鬼界カルデラ

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鬼界アカホヤ火山灰

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破局噴火

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特に鬼界カルデラの約7300年前の大規模カルデラ噴火は過去1万年の内では世界最大規模で、火砕流が九州南部にも到達し、九州南部の縄文文化を壊滅させたと推測されているようです。

例えば1990年から1995年にかけて噴火した雲仙普賢岳では、火砕流1回あたりのマグマ噴出量としては10 – 1000m3(VEI=0)、5年余りに渡る活動期間中の噴出物の総量では0.2 km3(VEI=4)程度、また20世紀最大の火山噴火とされる1991年のピナトゥボ山噴火はVEI=6であった(略)日本ではVEI-7以上の噴火は7000年 – 1万年に1回程度の頻度で発生している。最後のイベントは約7,300年前の鬼界カルデラ。太字はVEI-8

7,300年前 – 鬼界:幸屋(船倉)降下軽石・及びintra-plinian flowとして船倉火砕流 → 大地震 → 竹島(幸屋)火砕流・及びco-ignimbrite ashとして鬼界アカホヤ火山灰。総噴出量 133–183 km3 DRE以上。
3万年前 – 姶良:大隅降下軽石・及びintra-plinian flowとして垂水火砕流 → 妻屋火砕流 → 入戸火砕流・及びco-ignimbrite ashとして姶良丹沢テフラ。総噴出量 380 – 430 km3 DRE。
3.9万年前 – 屈斜路:屈斜路Ⅰ火砕流。総噴出量 45〜87 km3 DRE。
4.6万年前 – 支笏:マグマ水蒸気爆発 → 降下軽石 → 火砕流噴火。総噴出量 100〜130 km3 DRE。
8.8万年前 – 阿蘇:Aso-4火砕流。総噴出量 380 – 790 km3 DRE。

風は西から東に吹くにも関わらず、朝鮮半島まで火山灰が到達しているのですから、現代に生きる私たちが、その破壊の程を窺い知る事なんて出来ませんが、これらの火山灰は遠く東北地方にまで及んでおり、縄文後期の気象変動のトリガーになっていると思います。実際、縄文時代後期に見られる人口の減少はこれが原因になっていると思います。上の図の九州地方の人口の計算は、稲作到来前後の頃のデーターがごっちゃになっていると思います。

稲作

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菜畑遺跡

ttps://ja.wikipedia.org/wiki/菜畑遺跡

ところが縄文時代後期、九州地方に稲作が伝来して、食糧事情を大幅に改善させる事となりました。伝来ルートはほぼ確実に朝鮮半島からで、第四話で邪馬台国の話をしておりますが、魏志倭人伝に記述された九州上陸地点を考えると、唐津市にある菜畑遺跡の存在は余りにも大きい。同時に稲作は、良質の水源と土地を要求するものであり、肥沃な平野を有する北九州地方の原住民が、わざわざ中国、四国地方に進出する理由が無いのです。東進するのは「渡来人」、おそらくハプログループO1b2の集団だと考えられます。

「大和への東征」という説には問題が多過ぎるのです。「熊襲や隼人を野放しで大和に向かう」というストーリーとか、「外国から瀬戸内海を経由して大阪湾から攻め込む」とかいう余りにも無謀なストーリーに。蝦夷が危険と言うのは、渡来人のルーツである大陸からみた倭国とは第四話で述べたように「文身国」だった事から、関東の実情を知らない渡来人のイメージなのです。その関東はといえば、北海道とまで交易をしていたのですから、蝦夷のリスクの低さは熊襲や隼人の比ではなく、香取神宮や鹿島神宮が「神武天皇の代で創建されている」というのは、関東こそが完全な安全地帯であった証明です。

だから渡来人が書いた「記紀」は曲がった。聖徳太子と蘇我馬子が編纂したとされる「天皇記」は、蘇我蝦夷と共に焼かれ、藤原氏の正統性を詐称するために書かれた日本書紀や、同時期に書かれたとされる古事記は言うまでもなく当時の権力者である藤原氏の監視の下で編纂されたのは想像に難くありません。その藤原氏に、朝廷の祭祀の役職まで横取りされた結果が斎部広成による「古語拾遺」だと思います。しかしながら最早、時代の潮流を戻す事は叶わなかったのです。

第十八話「祭りの巻 第六帖」②

取られたり取り返したりこねまわし、終わりは神の手に甦る。
世の元のまし水 湧く所、やがて奥山移さなならんぞ。
神示わかる臣民二三分できたなら、神いよいよのとどめを刺すなり。
三界を貫く道ぞ誠なり、誠の道は一つなりけり。
神界の誠隠れし今までの道は誠の道でないぞや。
鬼おろち草木動物虫けらも一つにゑらぐ道ぞ誠ぞ。

昭和21年8月13日(1946年 皇紀2606年 丙戌)

このアイキャッチ写真撮ってから第十七話書けばよかったかな?この写真の中央、宗吾街道R464北須賀交差点の青看標識あるのですが(何ドット?)、その200mくらい奥が甚兵衛公園(水神の森)、青看の手前の橋渡ったところからこっち方面撮ったのが前回のアイキャッチです。左側に見える紅白アンテナが、成田市船形にある麻賀多神社(奥宮)の近くにそびえ建つNTT東日本成田赤坂電話交換所だったりします。歩くと日本、否、この地域だけでも広大だよ。

成宗電気軌道

ttps://ja.wikipedia.org/wiki/成宗電気軌道

前回、成宗電気軌道の事書くのすっかり忘れていました。これは不動尊(旧称・成田山門前)と宗吾間を結ぶ路面電車で、宗吾霊堂のバス停の国道464号線を挟んで反対側の路地にある、現在は民家が立ち並んでいる辺りが宗吾停留所と言われております。結局1944年(昭和19年)には参詣路線なぞ戦時柄ふさわしくない、京成本線とほぼ並行している事から、不要不急線として廃線となってしまいました。

「成宗電気軌道」の廃線跡を歩くと意外な発見の連続だった

ttps://getnavi.jp/vehicles/596747/3/

廃線ルートは上のリンクでご参照ください…。何故かと言うと

函館市交通局30形電車

ttps://ja.wikipedia.org/wiki/函館市交通局30形電車

その廃止に先立つ事、第一次世界大戦当時、鉄の価格が高騰しており、電車を廃止してレールを売却する計画があったのですが、地元の反対もあって、複線の内単線を撤去する事、保有車両数の15両から6両への削減を行う事で決着したようです。この時、当時(1918年)の函館水電に売却された内の一両が復元されたのが現在の「函館市交通局30形電車」なのです。私の父親の実家が函館で、幼馴染も函館に引っ越していった事もあって、今まで二回ほど、「函館市電」を利用した事があるのですが、当時の当車両は「ササラ電車」という除雪用の車両に改造されており、過去二回の函館訪問は夏休みだった事もあって、私は当車両は見ておりません。時はかの、スター・ウォーズ「エピソード4/新たなる希望」が公開された当時です。

さて第十七話の執筆にあたっては、色々と資料を探していたのですが、これを一話で終わらせるにはもったいない、と思える話がわんさか出てきたので続編にする事にしたのです。「扶桑」というカテゴリーはそのような話をする時の為にあるのですが、「龍」繋がりの話という事で「②」にしました。

印旛沼の竜伝承

ttps://ja.wikipedia.org/wiki/印旛沼の竜伝承

場所柄、第十七話の「水神の森」の水神社に由来あるのかな?と思って聖地巡礼に行ってきました。

印旛日本医大駅から木下に向かう道の途中に細い道があり、そこからの一枚。里山と言ってしまえばそれまでですが、下総台地、茨城県南部、埼玉県南東部ってやはり同じ文化圏、道の作り方などに共通する思想を感じるのです。

頭が先だろうと思うのですが、乗ったのが印旛日本医大駅止まりだったので…。印西市竜腹寺にある玄林山 龍腹寺です。

龍腹寺

ttps://ja.wikipedia.org/wiki/龍腹寺

木下廃寺

ttps://ja.wikipedia.org/wiki/木下廃寺

話を整理すると、「印旛沼の竜伝承」というのは、印旛郡栄町龍角寺にある天台宗の寺院「龍角寺」の縁起が「佐倉風土記」(磯辺昌言/著)から「利根川図志」(赤松宗旦/著)に伝わって広まったようですが、利根川図志では同時に龍腹寺の縁起(天和元年/1681年)につくられた『勝光寺略縁起』)も紹介しており、曰く「龍腹寺は古くは慈雲山延命院といい、大同2年(807年)の空海の上奏による七堂伽藍の建築後に慈雲山勝光寺延命院の号を受けた。その後の延喜17年(917年)、旱魃に際し天皇の命による雨乞いを行なった時、龍の奇跡を伴う効験があった事から、天龍山龍腹寺の号を受けた」そうです。龍の奇跡を伴う、というのが先の「印旛沼の竜伝承」=「龍角寺」の縁起であっても矛盾しないですけど。元は「空海(真言宗の開祖)の上奏」なのに、現在は天台宗なんだ…。

龍腹寺は天文19年(1550年)本埜村滝から木下廃寺に移転したそうですが、それは真言宗である「慈雲山勝光寺延命院」の方なのでしょうか?天台宗・龍腹寺の名でこの地に残っているのを見る限り。

腹部を地蔵堂に収めたというのは、ココで良いのでしょうか?

宗吾霊堂の鐘見てから、鐘に興味を覚えるようになりました。

竜腹寺日枝神社です。創建年代等は不詳ですが、「天台宗龍腹寺が、(比叡山に鎮座の)日吉大社を勧請したものと思われ、その創建は龍腹寺が創建された大同2年(807)、或いは再建された天正19年(1591)頃に遡るもの」とされます。祭神は大山咋神で、天台宗開祖の最澄により、天台宗、延暦寺の結界を守る守護神とされました。相殿は菅原道真公、伊弉册命、境内社として、八坂神社・疱瘡神社・嚴島神社・淺間神社・諏訪神社を合祀しているとの事。

西からの日差しのおかげで雰囲気が柔らかく感じます。

室町時代には五重塔もあったそうですが、焼失したそうです。

龍腹寺の本坊らしいのですが…。

地蔵堂と本坊の間にある道。その上の…。これは一体…?ホントは佐倉印西線下って、成田線小林駅に向かおうと思っていたのですが、広々とした印旛沼撮りたかったので、歩いて次の地へ向かう事にします。

一時間くらい歩いたでしょうか?印西大師、中根新田(中)の八幡神社です。埜原村と本郷村の合併で、元の地名の中根が重複してしまうので、印西市・中という地名になったようで。

印旛沼に着きました。そのおかげで次の目的地への最短コースから大幅に伸びてしまいましたけど。千葉県民である限り、「橋」に振り回され続けるのです。

印旛沼対岸にたどり着く前に、遠くで下校時間を告げるチャイム、何とか県道12号と18号の交差点から下総松崎方面に向かい、成田線の踏切超えて坂登って、目的地の側まで来たところにあった今やなつかしい火の見やぐら。もうこの写真くらい暗くなってきました。遅くなっちゃった。

龍角寺

ttps://ja.wikipedia.org/wiki/龍角寺

火災が相次いだため、創建当時の姿を残していないとの事ですが。

【印旛郡】印旛に残るやさしい龍の伝説 印旛郡栄町 龍角寺 印旛沼「龍伝説」

ttps://ukiuki-chiba.com/etc-area/【印旛郡】印旛に残るやさしい龍の伝説-印旛郡栄

リンク先には龍角寺に保存されている小龍の頭の骨の写真があります。春の桜まつりや秋のふるさと祭りで公開されているそうです。

龍角寺の七不思議

ttps://www.town.sakae.chiba.jp/page/page001250.html

上のリンクの不増不減の石がコレで、三ヶの岩屋の返し忘れたとされる膳椀一組は、今も龍角寺に保管されているそうですが、慈雨を降らせた印旛沼の竜の裂かれた頭部がかかった龍燈腰掛の松は、枯れてしまったそうです。その松があったとされる素羽鷹神社は、この写真の左側の奥にあるのですが…。

素羽鷹神社は、この地域一帯の古墳群の謎に迫る重要な神社だと思っております。この日それらの古墳群を廻っていない以上は、片手落ちだとしか言いようがありません。「そばたか」と読む神社はこの地域一帯に広く建立されているようですが、その本宮は香取市大倉にある側高神社だそうです。一方、その側高神社も香取神宮の摂社という事は…。

第十七話「祭りの巻 第六帖」①

取られたり取り返したりこねまわし、終わりは神の手に甦る。
世の元のまし水 湧く所、やがて奥山移さなならんぞ。
神示わかる臣民二三分できたなら、神いよいよのとどめを刺すなり。
三界を貫く道ぞ誠なり、誠の道は一つなりけり。
神界の誠隠れし今までの道は誠の道でないぞや。
鬼おろち草木動物虫けらも一つにゑらぐ道ぞ誠ぞ。

昭和21年8月13日(1946年 皇紀2606年 丙戌)

何か広々感が無い…。写真の下、草まみれだったからカットしたくらいだし。

「世の元のまし水湧く所」というのは、「奥山」共々ダブルミーニングを感じさせますが、昭和21年末、天明氏は「台方」の地に移住します。やはりこれは「世の元のまし水湧く所」の神示を意識してでしょうか?印旛沼は「香取海」の一部である一方、この一帯は湧き水で有名です。印旛沼の湖底が太平洋に繋がっているのでは?という伝承すら存在するようです。まあ、かつては地平上でも繋がっていたのですけども。

霞ヶ浦ができるまで①(約10万年前から縄文時代まで)霞ケ浦環境科学センター

ttps://www.pref.ibaraki.jp/soshiki/seikatsukankyo/kasumigauraesc/05_gakushu/digital content/01_1_kasumigaura_dekirumade_1.htm

縄文海進

ttps://ja.wikipedia.org/wiki/縄文海進

うわ、約10万年前って太平洋の島々だわ。それに引き換え約3~2万年前頃の極端な事。太平洋側が砂浜が多くて遠浅なのって、地上から土砂が流れ出た為れの果てなんでしょうか?面白いのは、東北地方に行くほど海岸線の変化が少なくなっていたりと、日本全体では地域差が認められます。関東についてはプレートの三点交差地点が房総半島沖という事も影響あるかもです。その後約6千年前の縄文海進の頃にもなると、第六話「岩舟の富士山」の上から眺めた景色の大半が「海の底」だったというのが見て取れます。

近代までの開発経緯:関東農政局

ttps://www.maff.go.jp/kanto/nouson/sekkei/kokuei/inba/keii/01.html

利根川東遷事業

ttps://ja.wikipedia.org/wiki/利根川東遷事業

【衝撃】「江戸川区」、東京都を災害から守るため真っ先に水没する設計だったと判明! 江戸川区民は都民の犠牲にされたのだ・・・

ttp://blog.esuteru.com/archives/9394116.html

さて、関東農政局のリンク先の年表には「承応3年(1654年)、徳川幕府は、江戸を水害から守るとともに新田開発や舟運などに利用するため、文禄3年(1594)の「会の川」の締切りにより利根川の付替工事を開始しました」とあります。丁度同じ頃、下総国印旛郡公津村(現在の千葉県成田市台方)で悲しい事件がありました。

佐倉惣五郎

ttps://ja.wikipedia.org/wiki/佐倉惣五郎

書くより写真のっけた方が早いか。

ちょうど背後の踏切が鳴ったので正面から。

再び背後の踏切が鳴ったので正面から。しかし見事な…。

…なんて調子乗っていたら、正面でシャッター切り損ねちまった…

東勝寺 (成田市)

ttps://ja.wikipedia.org/wiki/東勝寺_(成田市)

宗吾霊堂と呼ばれております。京成の宗吾参道駅で降りて麻賀多神社に行く時、トイレお借りしてたりするので(写真右行って50mくらい)、是非とも一度参拝しなくてはと思っていたのです。

直訴にあたって離縁までしたのにも拘らず、罪は四人の子供にまで及んでしまいました。東勝寺の澄祐和尚が公津ケ原の刑場(現在の寺地内にある宗吾様御廟の所)に遺骸を埋葬した、との事ですが、当時の東勝寺は公津村大字下方字鐘打にあって、1910年(明治43年)火災により焼失、1921年(大正10年)現在地に再建されたようです。

中、広

真言宗豊山派

ttps://ja.wikipedia.org/wiki/真言宗豊山派

源氏物語や枕草子などにも登場し長谷詣として知られる総本山長谷寺や、東京の大本山護国寺・西新井大師(總持寺)は豊山派の象徴である。

西新井大師は子供の時、参拝した記憶はあるのですが、その経緯が全く思い出せない…。東武大師線乗って、しかもこの日は晴れてたというのまで覚えているのに。

ここで気になったのがここ。

流石に鳴らすわけにはいかなかったのですが、実はここに来た時から気になっていました。ダメだな…。

おk。

この後、麻賀多神社奥宮、台方と参拝しました。今回写真は撮ってないです。

台方で参拝後、宗吾旧宅に行きました。子孫の方ですか?どうも今でも住んでらっしゃるようなので、ここから。Wikiに記述されていうような反領主運動に加担していただけとするならば、未だに旧宅が残っているハズ無いし、後々あれほど立派に祀られる事も無かったと思うのです。それは地元の方々の尊敬と感謝の念の顕れ故だと。

でかっ。川には鯉余裕で泳いでるし…。

本日、もう一か所の聖地巡礼は「甚兵衛渡し」です。

任侠の渡し守「甚兵衛」(対岸の吉高の人)は、将軍への直訴に向かう惣五郎の為に舟を出しました。その事が罪になる事を知っていながら。禁制を犯して鎖を切り、舟を出して惣五郎を送った後、老いて捕らわれの身となって生きながらえるよりはと、凍える印旛沼に身を投じたとの事です。実際に直訴の話があったからこそ、この話もまた残っているのでしょう。私は今回の訪問までこの話を全く知らず、仕事で何度もこの道を通っていたばかりか、写真の後ろにあるローソンにまで立ち寄っていたという失礼さ。

そして、この地は「水神の森」でもあります。

日の出の巻 第二十三帖

この世の位もいざとなれば宝も富も勲章も役には立たんのだぞ、
この世去って、役に立つのは身魂の徳だけぞ、身に付いた芸はそのまま役立つぞ。
人に知られぬように徳積めと申してあろうがな、神の国に積む徳のみが光るのだぞ、
マアカタ(印旛沼)の御用結構であったぞ、富士晴れるぞ、湖晴れるぞ、
この巻、日の出の巻としてまとめて役員に読ませて一二三として皆に知らせてくれよ、
神急ぐぞ。

昭和19年12月29日(1944年 皇紀2604年 甲申)

天明氏一行の「マアカタ(印旛沼)の御用」の比定地とされるのがこちら、水神の森の水神社です。残念ながら資料が見つかっていないそうです。

続きます。