第十二話「空の巻 第八帖①」

衣類、食物に困った時は竜宮の音秘様にお願い申せよ。
五柱の生き神様にお願い申せば災難逃れさせて下さるぞ、
岩、荒れ、地震、風、雨、の神様なり、
いろはに泣く時来るぞ、いろは四十八ぞ、四十九ぞ。
神示はその時の心にとりて違わん、
磨けただけに取れて違わんのであるから、
我の心通りに取れるのであるから、
同じ神示が同じ神示でないのだぞ。
悪の世が廻りて来た時には、悪の御用する身魂を作っておかねば、
善では動き取れんのだぞ、悪も元をただせば善であるぞ、その働きの御用が悪であるぞ、
御苦労の御役であるから、悪憎むでないぞ、憎むと善でなくなるぞ、天地濁りて来るぞ、
世界一つに成った時は憎むこと まずさらりと捨てねばならんのぞ、
この道理 腹の底からわかりて、ガッテンガッテンして下されよ。

昭和22年3月3日(1947年 皇紀2607年 丁亥)

この日付ってホント出来すぎてるような気がするんですけど。

近所のスーパーに買い物に行ったら、品切れしていた「めかぶ」「塩蔵わかめ」が再入荷!(最近はネギが高いから、納豆はめかぶ・・・と合わせてます)そして、エビ2匹、イカ天、シソ、カボチャ、ナスの天ぷらパックが半額だったので即買い。竜宮の音秘様、ありがとうございます。

日月神示の食事事情といえば、梅の巻 第十四帖、空の巻 十二帖、十三帖などが有名ですが、この事から「肉類禁物」と見られております。私は、ある日「電話がかかってきた瞬間」食べていたスモークビーフのサンドウィッチをリバースしそうになって以来、牛肉と豚肉は食べておらず、体調を崩した年明け後に鶏肉を食べたのが最後、鶏卵が4月というところですか。ここで問題になるのは「魚介類はどうなのか?」という事です。天明氏は、鳩森八幡神社の留守神主時代に「鯛」をお供えしていますし、台方に住んでいた頃は、一匹の煮干魚の背中を天明氏、腹を黒羽保氏、頭と尻尾を「人懸かり猫」チェリーと分けて食べていたそうです。

月鏡 399 食用動物

キの()のつく四足類(よつあしるゐ)は、食用(しよくよう)とすることを(ゆる)されて()るのである。(たと)へば、(たぬき)(きつね)(うさぎ)(ごと)きもので(また)たまがへししてキになるものも(ゆる)されるのである。かも鹿(しか)(ごと)きがそれであつて、これ()神界(しんかい)(はう)()(すなは)植物(しよくぶつ)()(なほ)して()(くだ)さるのである。鳥類(てうるゐ)でも(かも)(きじ)(ごと)(みな)キにかへるので、(にはとり)をカシワと()びならはしたのも(かしわ)意味(いみ)()()(こと)になる。牛馬(ぎうば)(にく)食用(しよくよう)としてはいけない。

玉鏡 753 食物

 (こめ)陽性(やうせい)のもので、(これ)常食(じやうしよく)すれば勇気(ゆうき)()る、そして陽気(やうき)である。(むぎ)陰性(いんせい)のものである()め、陰気(いんき)になる傾向(けいこう)がある。くよくよしたり、いつも()(ごと)(なら)べたりするやうになるのは()()めである。野菜(やさい)()へば(じん)(こころ)(やしな)はれる。魚類(ぎよるゐ)()へば智慧(ちゑ)()く。(ゆゑ)魚類(ぎよるゐ)(つき)一度(いちど)二度(にど)(かなら)()はねばならない。(こめ)野菜(やさい)魚類(ぎよるゐ)とで、()(じん)(ゆう)となる。肉食(にくしよく)をする(もの)には(じん)(こころ)(すく)ない。(ゆゑ)野菜(やさい)常食(じやうしよく)とする日本人(につぽんじん)にして(はじ)めて愛善(あいぜん)(こころ)があり、外国人(ぐわいこくじん)には(まれ)である。(にく)()ふものは一度(いちど)(くさ)野菜(やさい)(とう)()つて、その栄養素(えいやうそ)(にく)となつたのであるからあまり栄養(えいやう)もない。そして(にく)()つて(やしな)はれた細胞(さいばう)(よわ)い。日本人(につぽんじん)(こめ)()ひ、野菜(やさい)()ふから(すなは)ちまだ(にく)とならない栄養(えいやう)()るから、細胞(さいばう)(つよ)い。(どく)ガスに(たい)しても外国人(ぐわいこくじん)(まこと)にモロイものであるが、日本人(につぽんじん)比較的(ひかくてき)耐久力(たいきうりよく)があり(つよ)い。(また)日本人(につぽんじん)()臼歯(きうし)()つて、(こめ)()みこなし(やす)出来(でき)()るが、肉食人(にくしよくじん)(おい)ては臼歯(きうし)がとがつて()る。

出口王仁三郎 三鏡

月鏡 399 食用動物は、特に江戸時代までの肉食への欲望を抑えきれない僧侶に見られたロジックで、聞いたこともあるでしょう?「徳川綱吉の生類憐みの令」にひっかけて。私が肉食を止めてから食べたくなったのが「ハンバーグ」(ハンバーガーではない)と「豚骨ラーメン」(麺はどうでも良くて、あのスープだけ)、「カレー」、「麻婆豆腐」です。「カレー」はオールベジで目途が立ったので、その内公開したいと思います(だから梅の巻 第十四帖を温存したという事もあります)。

水の巻 第十帖

五大洲 引っ繰り返っておること まだわからぬか。
肝心要のことだぞ。七大洲となるぞ。八大洲となるぞ。
今の臣民にわかるように申すならば御三体の大神様とは、
天之御中主神様、高皇産霊神様、神皇産霊神様、
伊邪那岐神様、伊邪那美神様、撞賢木向津媛の神様でござるぞ。
雨の神とは あめのみくまりの神、くにのみくまりの神、
風の神とは しなどひこの神、しなどひめの神、
岩の神とは いわなかひめの神、いわとわけの神、
荒れの神とは 大雷のをの神、わきいかづちおの神、
地震の神とは 武甕槌の神、経津主の神、神様の御事でござるぞ。
木の神とは 木花開耶姫の神、
金の神とは 金かつかねの神、火の神とはわかひめきみの神、
ひのでの神とは 彦火々出見の神、竜宮の乙姫殿とは 玉依姫の神様の御事でござるぞ。
この方のこと、いずれわかって来るぞ。
今はまだ知らせてならんことぞ。知らせる時節近づいたぞ。

昭和20年6月11日(1945年 皇紀2604年 乙酉)

「竜宮の乙姫殿とは 玉依姫」…?

山幸彦と海幸彦

ttps://ja.wikipedia.org/wiki/山幸彦と海幸彦

山幸彦は魚釣りに出掛けたものの、兄に借りた釣針を失くしてしまい、綿津見神宮まで探しに行くのですが、海神(大綿津見神)に歓迎され、娘・豊玉姫(豊玉毘売命・とよたまひめ)と結婚し、既に3年もの月日が経っていました。山幸彦が釣針の事を尋ねると、海神が魚たちを集め、釣針を持っている者はいないかと問うと、赤鯛の喉に引っかかったそうです。

豊玉姫はめでたくご懐妊したのですが、天神の子を海の中で産むわけにはいかないとして、陸に上がってきました。「絶対に産屋の中を見ないように」と言っておいたのに、山幸彦はついつい覗いてしまいました。(男のさがか…)ところが、豊玉姫が本来の姿「八尋熊鰐やひろわに」として、蛇のごとくうねっているのを見て逃げ出しました。すると豊玉姫は山幸彦に覗かれたことを恥じて、生まれた子を置いて海に帰ってしまいました。この子の名は鸕鶿草葺不合尊うがやふきあわせずのみこと。豊玉姫命は鸕鶿草葺不合尊の養育の為、実の妹である「竜宮の乙姫殿」玉依姫命を地上に遣わしました。一方で玉依姫と山幸彦との間には、武位起命が生まれております。(ええ…)鸕鶿草葺不合尊はといえば、「育ての親である叔母の玉依姫」との間に彦五瀬命・稲飯命・三毛入野命・彦火火出見尊(神武天皇)が生まれております。(ええーーーーっ)

つうか「わに」、知ってたんだ、当時の人。何で?

というわけで千葉県長生郡一宮町にある玉前神社に参拝しました。一宮には数十回も来ているというのに初の参拝です、情けない。私の父の代から海の幸の恩恵で暮らしてきたのだから、真っ先に参拝すべきだったというのに。ところで出かけるときは晴れていたのですが、鎌取や土気に差し掛かるや、外は大雨。こんなの聞いていないんですけど?これは歓迎されてないのかな?と思いつつ大網過ぎた辺りは雨は降った様子も無くなり、一宮では全く道路濡れていなかったです。でも晴れであって欲しかったというのが本音。

6月30日には早かったのですが、「はらたまきよたまへ」と唱えながら「←・→・←」と三回くぐるのです。何かゲームのコンボ入力みたいな書き方してしまいましたが。

階段上がって右側が境内です。奥は摂末社の三峯神社です。

イメージと違って男性的な印象…個人の印象ですが。

さざれ石があります。内閣総理大臣(当事)橋本龍太郎氏揮毫の碑が添えられております。

雄株・雌株・実生の子供イチョウの順に触れて、子宝に恵まれるとされている「子宝・子授けイチョウ」です。ちなみに私♂ですが。再びNNN事案か?

御神水を頂けます。ペットボトル持ってくと良いそうです。あ、招魂殿と十二社参拝するの忘れてる。これはもう一回行かないと駄目ですね。三峯神社の写真もないし。(気、抜いてるからだろ)

海藻

ttps://ja.wikipedia.org/wiki/海藻

フランスの「ロスコフ生物学研究所(Station Biologique de Roscoff)」は、日本人の腸が海草に含まれる多糖類を分解できるのは、分解酵素を作る遺伝子を腸内に住む細菌が海洋性の微生物から取り込んでいるためとする論文を発表、同論文は2010年4月8日の英科学誌『ネイチャー』に掲載されたという話から、食べた海藻を消化できるのは日本人だけだという誤解が生まれたと感じております。Covid-19以降、特に。これは検査対象内で海藻を消化できたのが殆ど日本人ばっかりだったというだけです。このプレビウス菌は海藻の食物繊維を分解する遺伝子を持っている事が知られておりますが、外国人の腸内から見つかっているプレビウス菌は、海藻の食物繊維を分解する遺伝子は持っていないのです。これは何故か?

海藻メーカーの社員の腸内には、「海藻好き」な腸内細菌がいっぱい存在していた!

ttps://prtimes.jp/main/html/rd/p/000000012.000021194.html

だからって、外国の人は海藻を食べる意味無いのか?と言ったらそれは「NO」。ちゃんと食物繊維として利用されますから、腸内のお掃除にもなりますし。

これに関連した話が「フコイダン」です。

フコイダンの話についてはCovid-19の最中、ネットを中心にあっという間に広がったのは良いのですが、これを科学者から言わせると「高分子は分解されなければ吸収できない。(吸収するにはサイズが大きすぎるので分解されなければならない)分解された後、体内で再合成されるはずは無い。分解された成分が分解前のフコイダンと同じ働きをするのか。(材料は完成品と同じ働きができない)」という疑問があったようなのです。この疑問を解決するカギが「低分子フコイダン」です。

LMF臨床研究会

ttps://lmf-assoc.jp/about/

海藻にフコイダンが含まれているのを発見した時に、構造(サイズ)が大きいものからサンプルに選んだというのは、想像に難くありません。検査対象は大きければ大きいほど「楽」ですから。しかしながら低分子フコイダンというものが存在しているという事は、実際に私たちの体内で、海藻の消化吸収のプロセスにおいて確認される可能性があります。大体「消化吸収のプロセスで、分子ごとにきっちり分解される」なんて理にかなっていません。だって分解が「10」から「0」に至るなら、間に「7」とか「4」があるでしょう?問題は「5」でも良いのか「8」無いとダメなのか?という話だけで、それを証明するのは臨床結果だけです。悪い薬とは全く違う話なので。ただ、こういう低コストな話ほど潰しにかかるのが「医療利権」というね、全世界的に。かのイベルメクチンが「磔」スケープゴートにされたのは記憶に新しいところ。

天つ巻 第十二帖

遠くて近いは男女だけではないぞ、
神と人、天と地、親と子、食べる物も遠くて近いが良いのだぞ、
カミ粗末にすればカミに泣くぞ、
土尊べば土が救ってくれるのぞ、尊ぶこと今の臣民忘れているぞ、
神ばかり尊んでも何にもならんぞ、何もかも尊べば何もかも味方ぞ、
敵尊べば敵が敵でなくなるのぞ、この道理わかったか。
臣民には神と同じ分け霊授けてあるのだから、磨けば神になるのぞ。
神示は謄写良いぞ、初めは五十八、次は三百四十三ぞ、よいな。

昭和19年9月5日(1944年 皇紀2604年 甲申)

何で外国人の腸内のプレビウス菌に海藻の食物繊維を分解する遺伝子が無いのかって?だって海藻を「海の(see)雑草(weed)」って言う位だし。戦時中の捕虜に「ひじき」食べさせていた日本人を「虐待ガー」とか言って非難していたのは誰だったっけ?「私たち哺乳類から遠い存在であって、近くで捕れる海藻」の、それも日本近海で捕れるものを食べているから日本人は、という結論に帰結せざるを得ない…自らを分解する者が、自らの内に潜んでいるという、何とも哲学的な終わり方。

因みにギタリストのSteve Vai先生は、昔からベジタリアンで有名です。自宅にはピラミッドもあるとか。この御方なら海藻食べてるかも。

文章にするには時間かかりそう。

第九話「地つ巻 第十七帖」

まことの善は悪に似ているぞ、まことの悪は善に似ているぞ、
よく見分けねばならんぞ、
悪の大将は光り輝いているのだぞ、悪人はおとなしく見えるものぞ。
日本の国は世界の雛形であるぞ、
雛形でないところは真の神の国でないから、よほど気つけておってくれよ、
一時は敵となるのだから、ちっとも気許せんことぞ、神が特に気つけておくぞ。
今は日本の国となっていても、神の元の国でないところもあるのだから、
雛形よく腹に入れておいて下されよ、後悔間に合わんぞ。

昭和19年9月23日(1944年 皇紀2604年 甲申)

第八話を書いてたストレスから、再起動の意欲出るまで時間がかかってしまって。まだお客さん来てないようだから構いませんけどね、正直、私自身からして「偉そうな事を書く資格が無い」と自覚していますが、だから書かない、というのも違う。ここは「自分も含めて」そのような世の中にしたのだから、反省点に気が付いたら反省し、それを共有して試行錯誤しながら改善点を模索しなければ「サスティーン」が止まる何がサスティナブルだって?┐( ̄ヘ ̄)┌ ヤレヤレ・・・

以前、近所に住んでいて、今でもこちらに家はあるけど、普段は四国に住んでいる方と再会した時、(こっちの)近所のスーパーが潰れているから、遠くにあるスーパーまで買い物に行かなければならず(年取ったから)不便だ、と言われた事があります。その方がこっちに住んでいた時は働きに出ていたこともあって、その店自体普段利用していなかったでしょうし、共働きが中心の時代になったと思われる昭和の最後期から平成以降からは次第に客足が減っていったように見えます。これは自分たちの地域に限った事ではありません。皆さんの住んでいる町の商店街でもシャッター締まりっぱなし、という所は多いはず。それはお客さんが来なくなったからというのが最大の原因と思われますので、やっぱり自分含めてと言えるのです。

先日、所用で浜金谷へ行ってきたのですが、今や特急停まるの土日祝日の上下一本づつのみ。直通列車を除いて「君津⇔館山」間は二両編成の利用者自身でドアを開くワンマン運転列車がメイン。「君津⇔館山」という運行は以前は無かった。残されたホームの長さが寂しい、とても。

もう止め。

日本雛形論というのがありまして、日本列島を全世界に見立てる説なのですが、本州がユーラシア大陸、四国がオーストラリア、九州がアフリカ、北海道を北米と見立てるのが一般的なようです。一方、南米の解釈については解釈する人の間で意見が割れているようですが、例えば大本の出口王仁三郎氏は、南米に台湾を挙げていたようです。

再掲。

大本神諭 年月日不明

至仁至愛の神の御出ましに御成なさる時節が参りて大国常立尊が出口の手で書き知らして置いた世が迫りて来たから、世界中の人民が改心を致さねば、この世では最う一寸も先へは行けず、後へ戻ることも出来んぞよ。
この世の来ることを明治二十五年から今につづいて知してをるのにチットモ聞入れが無いが、国同士の人の殺し合いといふやうな斯んな約らん事はないぞよ。
一人の人民でも神からは大切であるのに屈強ざかりの人民が皆無くなりて老人や小児ばかり残して前後を構はずのやりかたであるぞよ。こんな大きな天地の罪を犯してまだ人の国まで取らうと致してをるのは向先きの見えぬ悪魔の所作であるから、何の国が仲裁に出ても天地の大神の御許しのなき事にはいつまでも埒は明かぬぞよ。出かけた船であるから、どちらの船も後へ引く事もならず、進む事も出来ず、まことの仲裁もはいらず、つまらんことが出来るから、外国の守護神に長らくの間気が付けてありたぞよ。
あまり我が強いとしくじるぞよと何時も筆先で気が往けてあるぞよ。
何国にも負けん強い国で在ると思ふて我よしのやりかたで頑張ると為損ひが出来るからと申してくどう知らしてありたが今の有様は其通りではないか。これからは神代の世になるから今までの様に余り頑張ると我れの思ふやうには此の先は一寸も行かんぞよ。我の強い守護神ほど思はくは立ちはせんぞよ。
これまでの心を全然入れ替て了ふて天と地との元を創造た太元の神へお詫を致さねば、我の一力で行りて居ると思ふのが大間違であるぞよ。何事も皆神からの事であるから取り違いをいたすなよと先に気を往けてあろうがな。
我一力で仕て居ると思ふて居ることを霊魂の性来因縁だけの事を天地の神からさせられて居るのであると云ふ事が判然とわかる時代が回りて来たので在るから、これ迄の悪の守護神のやりかたも九分九厘まではトントン拍子に思ふやうに来たなれどモウ九分九厘で悪のみたまのやりかたは輪止りとなるのが今の事であるぞよ。今までは悪のみたまの覇の利く時節でありたぞよ。是が暗りの世でありたぞよ。
この先は学や智恵や仏では国は建たんぞよ。一日も早く往生いたさんと世界の物事が遅ておるから筆先でいつも同じ事を気を付けるぞよ。向ふの国の有様は筆先どうりになりて来てをるから日本の国の守護神に早く判らんと立替が十二年遅くなりてをるから、何かの事の実地が始まると、まだまだ世界には烈しき事が来るぞよと申して在るが一度申したことは違ゐはせんぞよ。世の元から神は能く判りておるので在るから向ふの国に彼れだけの事があるのに日本の人民は我さへ善けら国はどうなりても構はぬとは全然獣ものであるぞよ。神の直々の善き御魂を貰ふてをるからは末には神にも祭られる結構なものであり乍ら人は倒ようが仆れようが我さえ善けりゃ好いでは万物の長とは白されんぞよ。
世界は今が罪の借銭済であるから罪悪のひどい処ほどきびしき戒があるぞよと申して知してあるがこの世界は後にも前にも無いみせしめが出て来るぞよ。
用意をなされよ世の立替は新つの洗い替であるから、みろくの神の世に立返りて万古末代善一筋の世になる尊ひ事の初りであるから皆の人民の思ひが違ふてあるぞよ。あやべの大本は今では粗末なとこで在るなれど此の広い世界に外に亦とない大神の世の元の尊とひとこであるから全部判けて見せたならば余り大きな仕組であるから思ひが大違いで驚愕いたすぞよ。天地のビックリ箱が明くぞよと申してあるが此のビックリ箱が明いて手の掌をかやしたら何んな人でも驚愕いたして改心せずには居れん事になるが其処まで行かん中にチット判らんと約らん事があるぞよ。
この大本に日々かぶり付て居るものにチト早く判らんと何処からも是からは判る守護神が出て来るから、耻かしうなるぞよ。何事も、ちっと判りて居んと面目ない事が出来るぞよ。慢神と誤解が一番こわいぞよ。
たれに由らず慢神すると我の心が大変ゑらい様に思へて、人から見て居ると鼻が高うて見にくいぞよ。
腹の中に誠さえありたなれば何んな事でも出来るなれど上から見てよくても心の中に誠が無いと実地の誠が成就いたさんぞよ。

風の巻 第九帖

土地分け盗りばかりか、天まで分け盗って自分のものと、威張っているが、
人民の物一つもないのじゃ。大引き上げにならんうちに捧げた臣民 結構ぞ。
宮の跡はSとなるぞ。ナルトとなるぞ。
天の言答(一八十、岩戸)は開いてあるぞ。
地の言答(一八十、岩戸)、人民 開かなならんぞ、
人民の心次第でいつでも開けるのだぞ。
泥の海になると、人民思うところまで一時は落ち込むのじゃぞ、覚悟よいか。
神国には神国の宝、神国の臣民の手で、元の所へ納めなならんのだ。
タマなくなっていると申してあろうがな。
何事も時節到来しているのだぞ、真理(ふじ)晴れるばかりの御代となっているのじゃぞ。
人民 神に仕えて下さらんと神のまことの力出ないぞ、
持ちつ持たれつと申してあろうがな、
神まつらずに何事もできんぞ、まつらいでするのが我よしぞ、天狗の鼻だぞ。
まつらいでは真っ暗ぞ、真っ暗の道で、道開けんぞ。
神は光ぞと申してあろうが、てん詞様よくなれば、皆よくなるのだぞ。
てん詞様よくならぬうちは、誰によらん、
よくなりはせんぞ、この位のことなぜにわからんのじゃ。
よくなったと見えたら、それは悪の守護となったのじゃ。
神かかりよくないぞ、やめて下されよ、
迷う臣民できるぞ。ほどほどにせよと申してあろうが。
皆々心の鏡掃除すれば、それぞれに神かかるのじゃ。
肉体心で知ることは皆粕ばかり、迷いの種ばかりじゃぞ、
この道理わかりたであろうがな、くどう申さすでないぞ。

昭和21年2月16日(1946年 皇紀2606年 丙戌)

日月の巻 第三十帖

淤能碁呂の国成り、この国に降りまして 天戸の御柱 見立て給いき。
ここに伊邪那岐の命 伊邪那美の命 島生み給いき。
初めに水蛭子、淡島、生み給いき。この御子、国のうちに隠れ給いければ、
次にのりごちてのち生み給える御子、
淡道之穂之三別島、伊予の二名島、この島、愛媛、飯依比古、大宣都比売、建依別という。
次、隠岐の三子島、天之忍許呂別。
次、筑紫島、この島、白日別、豊日別、建日向豊久土比泥別、建日別。
次、伊伎島、天比登都柱。次、津島、天狭手依比売。次、佐渡島。
次、大倭秋津島、天津御空豊秋津根別。次、吉備之児島建日方別。次、小豆島、大野手比売。
次、大島大多麻流別。次、女島、天一根。次、知詞島、天忍男。
次、両児島、天両屋、二島、八島、六島、合わせて十六島生み給いき。
次にまた宣り給いて、大島、小島、生み給いき。
淡路島、二名島、隠岐の島、筑紫の島、壱岐の島、津島、佐渡の島、大倭島、児島、小豆島、
大島、女島、なかの島、二子島の十四島、島生み給いき。
次に、伊吹いぶきて、御子神生み給いき。
大事忍男神、大事忍男神、石土毘古神、石土毘古神、石巣比売神、石巣比売神、
大戸日別神、大戸日別神、天吹男神、天吹男神、大屋毘古神、大屋毘古神、
風木津別之男神、風木津別之男神、
海神、海神、
大綿津見神、水戸之神、水戸之神、速秋津比神、速秋津比売神、速秋津比売神、
風神、風神、志那都比古神、
木神、木神、久久能智神、
山神、山神、大山津見神、
野神、野神、鹿屋野比売神、野椎神、鳥之石楠船神、天鳥船神、
大宣都比売神、大宣都比売神、火之夜芸速男神、火之輝比古神生みましき。
速秋津日子、速秋津比売、二柱の神 川海に因りもちわけ、ことわけて、生ませる神、
沫那芸神、沫那美神、頬那芸神、頬那美神、
天之水分神、国之水分神、天之久比奢母智神、国之久比奢母智神、
次に、大山津見神、野椎神の二柱神、山野に依りもちわけて、ことあげて生みませる神、
天野狭土神、国野狭土神、天之狭霧神、国之狭霧神、天之闇戸神、国之闇戸神、
大戸惑子神、大戸惑女神、大戸惑子神、大戸惑女神、生みましき、
伊邪那美神 やみ臥しまして、たぐりになりませる神、金山比古神、金山比売神、
屎に成りませる神、波仁夜須比古神、波仁夜須比売神、
尿に成りませる神、弥都波能売神、和久産巣日神、この神の御子、豊受気比売神と申す。
ここに伊邪那美神、火の神生み給いて、ひつちとなり成り給いて、根の神の中の国に神去り給いき。
ここに伊邪那美神泣き給いければ、その涙になりませる神、泣沢女神、
ここに迦具土神斬り給えば、その血 石にこびりて、石析神、根折神、
石筒之男神、雍瓦速日神、樋速日神、建御雷大神、建布都神、豊布都神、
御刀の手上の血、闇於加美、闇御津羽神、
ここに殺されし迦具土の御首に成りませる神、正鹿山津見神、
御胸に於藤山津見神、御腹に奥山津見神、御陰に闇山津見神、
左の御手に志芸山津見神、右の御手に羽山津見神、
左の御足に原山津見神、右の御足に戸山津見神、成りましき。
ここに斬り給える御刀、天之尾羽張、伊都之尾羽張という。
ここに妹恋しまし給いて根の国に追い往で給いき。

昭和19年11月25日(1944年 皇紀2604年 甲申)

国産み

ttps://ja.wikipedia.org/wiki/国産み

この両者を見ると、古事記の記載は(ふた)()(しま)まで一致してしております。興味深いのは古事記の時代に北海道が無いのは分かるのですが、それが日月の巻 第三十帖にも記述が無いという事。そして古事記と日月神示の記述が一致しているというのであれば、「小豆島、大島、女島、」という所の大島は伊豆大島ではなく、屋代島(周防大島)かも知れません(wikiに従うなら)。こんなことを書いたのは、伊豆半島はフィリピン海プレート上にあるとされているからです(伊豆諸島、小笠原諸島、沖縄県の各諸島もフィリピン海プレート上にあるとされている)。ちなみに三浦半島と房総半島は、太平洋プレートの深海に降り積もった堆積物が日本列島に衝突して盛り上がって出来ました(三浦半島の方のwikiにあります)。それ故に茂原や東京湾にガス田があるのも分かる気がします。

私はプレートテクトニクス肯定派です。シミュレーション通りだったかどうかは疑問ですけど、特にパンゲア大陸の形状については少々。その一方で赤道以南の大陸がくっついていたという話は、生物相の観点から見ても評価できるし納得も行きます。身近なとこでは、ユーラシア大陸から日本が分離した仕組みは、北米プレートの沈み込みあってこそだと思うし、屏風ヶ浦チバニアンの現れ方とか見ると、やはり地下の岩盤の移動無くして考える事は難しく思えます。

Ancient Earth globe

ttps://dinosaurpictures.org/ancient-earth#0

このサイト、各年代ごとの地球の地形が見れるのです。50million years agoで、日本の南側に見えるヤツ、後の伊豆半島、三浦半島、房総半島でしょうか?樺太あるのに北海道、まだない。じゃあ20million years ago。北海道、まだない…。次「0」なんですけど…。

イザナギプレート

ttps://ja.wikipedia.org/wiki/イザナギプレート

なんか少々しょんぼりとした結果に終わりましたが、気を取り直して。イザナギプレートは、ユーラシアプレートに潜り込んで、中央構造線を生みだしました。まるで「お隠れになった」みたいで、なんてその名にふさわしいネーミングかと。その後から北米プレートや、フィリピン海プレート等が突っ込んできたのでしょうか。まず、伊豆半島が衝突した位置から考えると、インドがふさわしいと思います。片やあちらは丁度エベレストありますし。南と北、西と東で文化圏違うんじゃないか?というギャップも含めて。

理解が得られそうにないな、と思ったのは三浦半島と房総半島の解釈です。さらに細かく言うなら神奈川県、東京都、千葉県、茨城県の解釈と言い換えても良いかもしれません。過去に雛形論を提示してきた人たちは、マレーシア、シンガポール、フィリピンなどの国々についての回答はありませんでした。戦前の王仁三郎氏の時代ならば仕方なかったかもしれませんが、その後の歴史を見てきた者がこの点を無視するわけにはいかないだろうと。先ほど三浦半島と房総半島は太平洋プレートの堆積物だと言いました。これらはフィリピン海プレートにあった伊豆半島と同じ力無しに日本列島に到達する事さえ出来なかったかもしれません。そしてマレーシア、シンガポール、フィリピンなどの国々は、かつての日本と同じように元々はユーラシア大陸の一部だった所です。そこから考えてまずは、神奈川県と東京都、千葉県を1セットと見なします。西のミャンマーから南のシンガポール、北のフィリピン、東のベトナムまでが該当します。何故かというと、千葉県には原子力発電所が存在しないからです。原子力発電所があるのは、茨城県那珂郡東海村にある東海・東海第二発電所と宮城県牡鹿郡女川町にある女川原子力発電所の二か所です。…そして、過去には福島第一、第二原子力発電所がありました…とだけ。

後、千葉県はアカい。昔、父と釣りに行こうとした時、成田行きの15両編成一便丸ごと、ヘルメットにマスク、サングラスの一団で埋め尽くされていました。誰がそんなのに乗れますかっつうの。

STOP JAP〜仰げば尊し / THE STALIN

だから中央線(総武線)とはそういう意味だったのだと。三里塚の土地持ってた人たちやベトナム戦争で亡くなられた方々には申し訳ないとは思いますが、その状況を利用された事といい、被るところがあります。

余談が過ぎました。…台湾=沖縄、南沙諸島=沖ノ鳥島と解釈しました。両者に共通するのは。左側と右側で解釈が正反対にある点にあり、持っている意味が実は同質という所です。同様にグアム=石垣島、硫黄島=ハワイ…。ハワイ王国も滅ぼされてますからね、アメリカに。こうしてみるとフィリピン海プレートって深い。ここに浮かぶ島々で日本に例えられる島々、何処かにあるのかも。

北海道が北米大陸と見なされることに異論ありません。国後島がキューバに思えますし、樺太がグリーンランドで。樺太?…アイヌの人たちが日本をどう思っているかは異論があるはずですが、それ言ったら北海道や東北だってそうですし、もっと遡れば日本の先住民族は誰だったか?という論争に至ってしまいます。日本やロシアが進出する前からの先住民は、主にアイヌ、ウィルタ、ニヴフなどとされています。そして、1855年(安政2年)の日露和親条約では樺太には明確な国境が設けられず、日本とロシアとが混住する土地のままとされたそうです。これこそ本来神様が望んだ世界観ではないかと思うのです。従ってアイヌを臣民と見做すなら、樺太も雛形の一部となっている可能性があります。一方グリーンランドはデンマークの自治領ですが、たびたびアメリカによるグリーンランド購入計画が持ち掛けられています。

異論を持っているのは南米大陸をどこに比定するかという点です。私は九州だと思っています。それは自然もそうですが、一番は火山帯の存在、主に阿蘇火山帯から桜島までをアンデス山脈と考えました。地震も多いですし。インカ帝国とか邪馬台国とダブりますし(こじつけるこじつける)。

じゃあアフリカは何処?って話なんですが紀伊半島だと思っています。多分、伊勢が世界最古の独立国エチオピア。ハプログループDそれもD1a2a⁻M55って日本人の約32%~39%を占め、沖縄や奄美大島で過半数、アイヌの80%以上にものぼるY染色体ハプログループですが、それ以前にハプログループDEから分かれたのがハプログループE、中でもアフリカ北部に集中するE1b1bの最も密度が集中する地点がこちら↓、

出アフリカの有力候補地でもある一方、エチオピアン・ユダヤとされる「ベタ・イスラエル」の居住地でもあるのは興味深いところ。せっかくハプログループに触れたんで補足。先ほどの日本人の約32%~39%がD1a2a⁻M55にあたると述べましたが、最も近いのは「アンダマン諸島」だったりします。この地を有名にしたのはあの北センチネル島ですが、かの地に住む彼らの染色体はとても調べようがありません(ぶっ〇ろされるわ)。少なくともオンゲ族、ジャラワ族のほぼ100%がD1a2bらしいですが。この最も近い兄弟ともいえる、この染色体グループとでさえ、D1a2a⁻M55との隔絶は数万年にも及びます。で、このアンダマン諸島とは八丈島かな、と思います。

アラビア半島が名古屋ですかね。イメージ的にも。そして多分飛騨がシュメール。イスラエル?それ、あんまり言いたくないのですけどね、これから先に起こりそうな話ですし、その形は変わるでしょうけど。

四国がオーストラリアっていうのもあまり共通点あるとは思っていないですが、オーストラリアの先住民であるアボリジニといえば、ハプログループC1b3(B477)が約60%で、日本人で5%いるらしいC1a1(M8)とは従兄弟のような関係にあります。あとは消去法的に淡路島がニュージーランドか。最後にやっぱり南極は南極ですか、何処の国の領土でもないですし。

あ、雨やんだ。

第六話「空の巻 第一帖」

なる世、極まりて扶桑都ぞ、みち足り足りて、万世のはじめ、
息吹き、動き和し、弥栄え、展き、睦び、結ぶ、
扶桑の道 鳴りはじむ道、代々の道ひらき、
次に睦び、マコトの道にひかり極む、
新しき世、出で、みちつづき、極みに極まりなる大道、
ひらく世、弥栄神、かく、千木高く栄ゆ世に、世かわるぞ、
太神、大神、神出でまして、道弥栄極む、大道に神みち、極み、栄え、更に極む、
元津日の大神、元津月の大神、元津地の大神弥栄。

昭和22年1月1日(1947年 皇紀2607年 丁亥)

今を遡る事、十余年前「秒速5センチメートルトラウマをアイスピックでえぐるアニメ」に感化闇堕ちされた私は、事もあろうにわざわざ「夜の岩舟駅」に聖地巡礼しました。とは言いつつも

まぁ世の中には、わざわざ雪の日を選んで「夜の岩舟駅」に行ったお方お方もいらっしゃるらしいのですが、そんな私の二度目の「岩舟入り聖地巡礼」は、まだ「ハルナの御用」には考えが及ばず(反省)、あちこち三十四里を探しまくっていた頃の話です。「ハルナの御用」だと知っているのにも拘わらず記事にする?というのは、色々と面白い体験が出来たと思ったからなのです。それに「コタツ記事」ばっかりというのもイヤですし、「聖地巡礼」であるのは確かなので(どっちの?)。

この日、家を出て最初に見た車のナンバープレートが「2-23」で、次に見たのが「2-32」という…。以前も第四話と同様の内容で記事を書いて、今回ゼロから書き直しているのですが、当時その直後、かつ、その日に出かける目的を考えたら「扶桑之巻 第一帖」の「東は扶桑(二三)なり」と被る…。

実は最初の訪問地は、茨城県の石岡市にある「常陸國總社宮」だったのです。各国の国府近くに国内の神を合祀、まとめて祭祀を行うようになったのが総社です。だからって手抜きしたわけじゃないですよ。

現在の祭神は伊弉諾尊、大國主尊、素戔嗚尊、瓊々杵尊、大宮比賣尊、布留大神です。そして国内の神々様です。

日本武尊腰掛石です。第四話で日本武尊の東征の話にチラッと触れましたが、この地を訪れたようです。とはいえ木々が育ってしまって、今や霞ヶ浦や筑波山も見えませんが。そして石岡市は、江戸時代末期にこの地にあった府中松平藩の藩医に手塚良庵という方がおられ、その子孫が手塚治虫先生だそうです。それ故のこの超豪華なコラボレーション。

まて。「倭武天皇」って、第12代景行天皇の皇子である日本武尊の話をしてたんじゃないのか?第21代雄略天皇とゴッチャにしていないか?

参拝を終えて、おみくじ引いて境内に結び付けようとしたところ、社務所の受付の窓が開いて巫女さんが顔を出しました。折角なので御札を、と思ってたまたま手を出したら「伊勢神宮の御札ですね?」と言われたのです。「このタイミングで?」と思いながらも頂くことにしました。これもご縁だったら良いなと。

さて、それでは岩舟へ向かいます。今から行くところは自分で見つけたのではなく、あるサイト様なんですけど、コメントするのに登録したのですが(二度も)登録完了のメールが送られてこなかったので、ご了解得られなかったのです。御覧になりましたらご一報くださいませ。

日月神示で富士山と言われて思い出す話の一つに、天明氏がかつて留守神主をしていた千駄ヶ谷駅近くの鳩森八幡神社があります。都内最古の富士塚が有名ですが、江戸の一の宮はこの地に祀られておりました。(※水の巻 第七帖などもあって、東京大空襲直前・・に遷宮された)

富士(山本宮淺間大社 奥宮)からウシトラ三十四里に(郷土)富士山、しかも山頂に浅間神社、祀られているのは木ノ花咲耶姫このはなさくやひめとされてます。従って本日、常陸國總社宮からお参りに行ったというのは、先にお伺いしておこうと。(何を?)

岩舟体育館と文化会館を背中に見て、住宅二軒の間に空き地があり、その奥に鳥居が見えます。まだ茨城県にいる頃には曇っていたのですが、栃木県に近づくにつれて晴れてきました。ありがとうございます。

標高93.7mの富士山、入り口前の道路が海抜34.8mです。アバウトで良いのでこの数値、覚えておいてください。あ、この辺はまだ良いですが、階段上っていくと激しくガㇾています(オフ用語)、ご注意を。

着きました。ここはとても落ち着けるところです。明るいし。

下に見える岩舟文化会館(コスモスホール)の方向に富士山が見えると思うのですが、さっきまで天気悪かったので…。

画面真ん中から左側の間に見える背の高い建物は多分、コモディイイダ古河だと思います。14.16㎞、そう考えるとあんまり遠くまでは見えないもんですね。

この時ふと、昔はここから古東京湾の最奥部が見えていたんだろうな…と思ったのです。

これ見ると古東京湾は、古賀から利根川挟んだ栗橋まで及んでいた事が分っております。もっともそれ以前はこの先まで、それこそ岩舟のすぐ背後から本州北端にまで至る山々にまで及んでいたかも知れませんが。

これはお隣、佐野市の佐野サービスエリアのすぐ側にある田んぼの海抜です。わずか16.1mしかありません。はるか南にある渡良瀬遊水地(谷中湖)が15mくらいでしたっけ?

なお杉戸…。

こんなこともあろうかと(by真田さん)、同じ埼玉県の春日部市には「彩龍の川」首都圏外郭放水路(通称地下神殿)というのがあったりします。

首都圏外郭放水路

ttps://gaikaku.jp

書いておきながらまだ見に行ってないんですよね、近くで仕事していた事もあったのに。コタツ記事イヤとか言ってたくせに。

以前から岩舟から見える山々の形が気になってはいたんですよ…。最終氷河期終わって、山から溶け出した水の流れがこのようなディテールを形作ったのではないのかな、と。

ま、今日は木ノ花咲耶姫このはなさくやひめと一緒に桜見れたんですから、イイでしょ。

第四話「扶桑之巻 第一帖」

東は扶桑(二三)なり、ゝ◯(日)出づる秋は来にけり。

この巻扶桑(二三)の巻、
続く六の巻を合わせて七の巻一百四十四帖の黙示を五十黙示と申せよ。

イシもの言うぞと申してあったが、イセにはモノ言うイシ(石)があると昔から知らせてあろうがな、
五の一四(石)がもの言うのであるぞ、開けば五十となり、五百となり、五千となる。
握れば元の五となる、五本の指の様に一と四であるぞ、
この方を五千の山にまつれと申してあろうが、これが五千連ぞ、五十連ぞ、
わかったか、五十連 世に出るぞ。
天に神の座があるように、地には人民の座があるぞ、天にも人民の座があるぞ、地に神の座があるぞ。
七の印と申してあるぞ、七とはモノのなることぞ、
天は三であり、地は四であると今までは説かせてあったなれど
いよいよ時節到来して、天の数二百十六、地の数一百四十四となりなり、
伊邪那岐三となり伊邪那美二となりなりて、ミトノマグワイして五となるのであるぞ、
五は三百六十であるぞ、天の中の元のあり方であるぞ、
七の燈台は十の燈台となり出づる時となったぞ、
天は数ぞと申してあろう、地は意露波であるぞ。
わからん者が上に立つこととなるぞ、大グレン目の前、
日本のみのことではないぞ、世界中のことであるぞ、
今度は三千世界が変わるのであるから今までのようなタテカエではないのであるぞ。
何もかも鏡に映るのであるぞ。鏡が御神体であるぞ。何も映らん御神体のカガミは何もならんぞ。

昭和36年5月5日(1961年 皇紀2621年 辛丑)

日本の事を扶桑国という場合があるとは言いますが、さてその扶桑国?という話になると、中国の古文書頼みになってしまうのは大変情けない話です。まず扶桑という言葉が最初に出てくるのは「山海経」ですが、詳細といえる話が出てくるのは、舒明天皇元年(629年 皇紀1289年)の時代の「梁書」まで待たなければなりません。

扶桑國、在昔未聞也。普通中、有道人稱自彼而至、其言元本尤悉、故扞録焉。(中略)扶桑國者、齊永元元年、其國有沙門慧深來至荊州、説云「扶桑在大漢國東二萬餘里、地在中国之東、其土多扶桑木、故以爲名。扶桑葉似桐、而初生如笋、國人食之、實如梨而赤、績其皮爲布以爲衣、亦以爲綿。作板屋。無城郭。有文字、以扶桑皮爲紙。無兵甲、不攻戦。其國法、有南北獄。若犯徑者入南獄、重罪者入北獄。有赦則赦南獄、不赦北獄。在北獄者、男女相配、生男八歳爲奴、生女九歳爲婢。犯罪之身、至死不出。貴人有罪、國乃大曾、坐罪人於坑、對之宴飮、分訣若死別焉。以灰繞之、其一重則一身屏退、二重則及子孫、三重則及七世。名國王爲乙祁、貴人第一者爲大對盧、第二者爲小對盧、第三者爲納咄沙。國王行有鼓角導從。其衣色随年改易、甲乙年青、丙丁年赤、戊己年黄、庚辛年白、壬癸年黒。有牛角甚長、以角載物、至勝二十斛。車有馬車、牛車。鹿車。國人養鹿、如中國畜牛。以乳爲酪。有桑梨、徑年不壊。多蒲桃。其地無鐡有銅、不貴金銀。市無租估。其婚姻、壻往女家門外作屋、農夕灑掃、徑年而女不悦、即驅之、相悦乃成婚。婚禮大低與中國同。親喪、七日不食、祖父母喪、五日不食、兄弟伯叔姑姉妹、三日不食。設靈爲神像、朝夕拜奠、不制縗絰。嗣王立、三年不視國事。其俗舊無佛法、宋大明二年、罽賓國嘗有比丘五人游行至其國、流通佛法、經像、教令出家、風俗遂改。」慧深又云「扶桑東千餘里有女國(以下略)

扶桑国の話は以前はなかったが、普通年間 (520年–527年)、扶桑国から来たと言う者の話を記す。(中略)
永元元年(499年)、扶桑国の僧慧深が荊州に来て言った。
「扶桑国は大漢国の東二万余里(8700km余)、中国の東方にある。「扶桑の木」が多いことからその名がある。扶桑の葉は桐に似て、生え始めはタケノコのようで、扶桑国人は食用にする。実は梨のようで赤く、その皮を績いで布にして衣類や綿にしたり屋根を葺いたりする。文字はあり、扶桑の皮でできた紙に書く。城郭はなく、兵士や武装はなく、戦争をしかけない。
南北2つの監獄があり、軽罪の者は南獄、重罪の者は北獄に入る。南獄には恩赦があるが北獄にはない。北獄では男女を番わせ、生まれた男児は8歳・女児は9歳で奴婢とし、罪人自身は一生出られない。貴人が有罪となれば、穴の中に座らせ、酒宴を開いて処刑し、その上に灰を撒く。初犯なら当人が責を受けるだけだが、再犯なら子と孫、三犯なら7世に及ぶ。
国王の名は乙祁。貴人(「祁貴人」が王の名の可能性あり)の第1位は大対盧、第2位は小対盧、第3位は納咄沙と呼ぶ。国王が行くときには鼓笛を従える。その衣の色は年により変わり、甲乙年は青、丙丁年は赤、戊己年は黄、庚辛年は白、壬癸年は黒である。
牛の角は非常に長く、20斛(540kg、1斛≒57kg)以上を運ぶ。馬車、牛車にくわえ、鹿車がある。中国人が牛を飼うように、扶桑国人は鹿を飼い、乳から乳製品を作る。桑、梨、フトモモがある。鉄はないが銅(青銅か)はあり、金銀はふんだんにある。市場では税金がかからない。
結婚するときは、婿が女の家へ行き、門外に建物を作り朝夕掃除する。女が喜ばなかったら取り壊し、喜べば成婚となる。結婚式は中国とほぼ同じである。
親の喪には7日間絶食する。祖父母は5日間、兄弟姉妹おじおばは3日間である。死者の霊を神像とし、朝夕拝む。(先王が死んで?)王の跡継ぎが立ったときには、3年間国事に関わらなかった。
かつては仏教はなかったが、大明2年(458年)、罽賓国(ガンダーラ・カシミール近辺)から5人の僧が来て仏典と仏像をもたらし出家を勧めたので、風俗は変化した」
また慧深はこうも言った。「扶桑の東1000余里(430km)に女国があり、(以下略、一部意訳)

『梁書』巻54 列伝第48 諸夷 海南 東夷 西北諸戎 扶桑國

扶桑国は大漢国の東二万余里(8700km余)、中国の東方にあるだって?一体どこのコロンブスだよ。ところで二万余里を8700km余と訳しているのは、古代中国のある時期の1里の長さを、この訳者が当てはめた事に依ります。どういうことかというと、秦の始皇帝は1間(1歩)= 6尺としたのは良いものの、この1歩が時代によって長くなっていったのです。この話は1里約435mで語られていますが、清朝の滅亡の頃には約576mと100m以上も伸びてしまいました。又、中国といっても秦の時代は「周」という国もありました。周は秦と敵対関係にあったので、従来の距離の単位を使っていたとされます。それは「魏」と「西晋」も採用したものの、「東晋」や後の「隋」「唐」は秦の単位を使っていくという複雑な経緯があります。

古代への扉

ttp://nagai.sub.jp/

科学の目で見た 『魏志倭人伝』 の「短里」(永井正範氏)

ttp://nagai.sub.jp/ronbun_pdf/yamataikoku/tanli.pdf

ここで「短里」(1里75m~90m)という考え方が出てきます。これは古代史家の古田武彦氏が提唱しました。この説の裏付けについては以上のリンク先が詳しいです。以前もこの短里という考え方に基づいて邪馬台国は何処だ、というのをやってみたことがあります。ちょっと脱線してみます。

倭人在帶方東南大海之中、依山㠀爲國邑。舊百餘國、漢時有朝見者。今使譯所通三十國。從郡至倭、循海岸水行、歷韓國、乍南乍東、到其北岸狗邪韓國、七千餘里。

(倭人は帯方の東南大海の中に住み、山島に依って国邑をつくる。もとは百余国。漢のときに朝見する者があり、いま使者と通訳を接触させているのは三十国。郡から倭に至るには、海岸に従って水行し、馬韓を経て、あるいは南へ、あるいは東へ進み、その北岸の狗邪韓国に到着する。七千余里。)

始度一海千餘里、至對馬國、其大官曰卑狗、副曰卑奴母離、所居絶㠀、方可四百餘里。土地山險、多深林、道路如禽鹿徑。有千餘戸。無良田、食海物自活、乗船南北市糴。

始めて一海を渡ること千余里で、対馬国に至る。その大官を卑狗と言い、副官を卑奴母離と言う。居るところは絶遠の島で、四方は四百余里ばかりか。土地は山が険しく、深林が多く、道路は鳥や鹿の径のようだ。千余戸ある。良い田はなく、海産物を食べて自活し、船に乗って南北に行き、米を買うなどする。

海を渡って対馬国というので、ここからにします。確かに絶遠の島ではあります。当時で千余戸あったと。

又南渡一海千餘里、名曰瀚海、至一大國。官亦曰卑狗、副曰卑奴母離。方可三百里。多竹木叢林。有三千許家。差有田地、耕田猶不足食、亦南北市糴。

(また南に一海を渡ること千余里、瀚海(かんかい。大海・対馬海峡)という名である。一大国(一支・壱岐)に至る。官をまた卑狗と言い、副官を卑奴母離と言う。四方は三百里ばかりか。竹林・叢林が多く、三千あまりの家がある。やや田地があり、田を耕してもなお食べるには足らず、また南北に行き、米を買うなどする。)

一大国(一支・壱岐)ですが、対馬国での船出の位置と到着港が分からないのですが、ぐるっと廻ったのならこんなもんでしょうか。

又渡一海千餘里、至末廬國。有四千餘戸、濱山海居。草木茂盛、行不見前人。好捕魚鰒、水無深淺、皆沈没取之。

(また一海をわたること千余里で末廬国(まつろこく。松浦付近)に至る。四千余戸ある。山と海の間の海岸に居住する。草木が盛んに茂り、歩いてゆくと前の人が見えない。好んで魚やアワビを捕え、水は深くても浅くても、皆が潜って取る。)

距離なら唐津の方が適切だと思いますが、末廬国というには…。

伊万里にした場合です。「山と海の間の海岸に居住する。草木が盛んに茂り、歩いてゆくと前の人が見えない。好んで魚やアワビを捕え、水は深くても浅くても、皆が潜って取る」ようなトコだとこちらの方が適切でしょうか?

東南陸行五百里、到伊都國。官曰爾支、副曰泄謨觚・柄渠觚。有千餘戸。丗有王、皆統屬女王國。郡使往來常所駐。

(東南に陸行五百里で、伊都国(いとこく・いつこく。糸島付近)に到着する。官を爾支(にき。稲置・県主か)といい、副官を泄謨觚(せもこ。島子・妹子か)・柄渠觚(へくこ。彦子・日桙か)と言う。千余戸ある。世に王がいた、みなは女王国に統属していた。(帯方)郡の使者が往来し、常駐する場所である。)

使者にしてみれば「コッチに上陸しとけや( ゚Д゚)ゴルァ!!」だと思う…。糸島市は伊都国歴史博物館があるなど、オフィシャルで伊都国を自認しているようです。

東南至奴國百里。官曰兕馬觚、副曰卑奴母離。有二萬餘戸。

(東南の奴国(なこく・ぬこく。博多付近)まで百里で至る。官を兕馬觚(しまこ。島子か)と言い、副官を卑奴母離と言う。二万余戸ある。)

使者にしてみれば「コッチに上陸しとけや凸(゚Д゚#)ヤンノカゴルァ!!」レベルだと思う…。伊都国の外れ(に見える)、今宿からにしてあります。

東行至不彌國百里。官曰多模、副曰卑奴母離。有千餘家。

(東行して不弥国に(ふみこく・ふやこく)まで百里で至る。官を多模(たま。玉・魂・玉造か)と言い、副官を卑奴母離と言う。千余家ある。)

大宰府政庁跡の地点にしてみました。そしておそらくその先が邪馬台国だと思います。が、下の記述を見ると様子がおかしい。

南至投馬國、水行二十曰。官曰彌彌、副曰彌彌那利。可五萬餘戸。

(南へ投馬国に至る、水行二十日。官を彌彌(みみ。耳・美々か)と言い、副官を彌彌那利(みみなり。耳成・耳垂か)と言う。五万余戸ばかりか。)

南至邪馬壹國。女王之所都、水行十日、陸行一月。 官有伊支馬、次曰彌馬升、次曰彌馬獲支、次曰奴佳鞮。可七萬餘戸。

(南へ邪馬台国(邪馬壹国)に至る。女王によって都べられる(この都は動詞なので統べるの意味)所である。水行十日・陸行一月。官に伊支馬(いきま)があり、次を弥馬升(みましょう)と言い、次を弥馬獲支(みまかくき)と言い、次を奴佳鞮(なかてい)と言う。七万余戸ばかりか。)

今更水行だと?内海なぞあるまいし。それに「~余戸ばかりか。」って何でしょう?

ただ新訂 魏志倭人伝とされる中に帯方郡から女王国(邪馬台国)までの里数が一万二千里と記述されてはおります。ただこの数値を鵜呑みにしてしまうと、南は種子島、東は近畿地方まで至ります。しかしここまで来ておきながら、再び「水行」するなんて理解し難い。

自女王國以北、其戸數道里可得略載、其餘旁國遠絶、不可得詳。 次有斯馬國、次有已百支國、次有伊邪國、次有都支國、次有彌奴國、 次有好古都國、次有不呼國、次有姐奴國、次有對蘇國、次有蘇奴國、 次有呼邑國、次有華奴蘇奴國、次有鬼國、次有爲吾國、次有鬼奴國、 次有邪馬國、次有躬臣國、次有巴利國、次有支惟國、次有烏奴國、次有奴國。 此女王境界所盡。

(女王国から北は、その戸数や道里はほぼ記載できるが、それ以外の辺傍の国は遠く隔たり、詳しく知ることができない。次に斯馬国があり、次に己百支国があり、次に伊邪国があり、次に都支国があり、次に弥奴国があり、次に好古都国があり、次に不呼国があり、次に姐奴国があり、次に対蘇国があり、次に蘇奴国があり、次に呼邑国があり、次に華奴蘇奴国があり、次に鬼国があり、次に為吾国があり、次に鬼奴国があり、次に邪馬国があり、次に躬臣国があり、次に巴利国があり、次に支惟国があり、次に烏奴国があり、次に奴国(重出、また□奴国の誤脱か)がある。これが女王の境界の尽きるところである。)

其南有狗奴國。男子爲王、其官有狗古智卑狗。不屬女王。

(その南に狗奴国があり、男を王とする。その官に狗古智卑狗がある。女王に属さない。)

不弥国の役割と経由したその意味、南側にこれだけの国が有るという事を考えると、邪馬台国は「吉野ケ里遺跡」周辺かな、と思っています。「七万余戸」を抱える肥沃で開けた土地こそが国力を支える源であったのでしょう。船でグルっと回って道中をたどると、一万二千里=900㎞~1080㎞の範囲にあると思います。

狗奴国は王の名前も書かれてないのに「その官に狗古智卑狗」となっているのは何でしょうか?その名前より「菊池彦」に通じるとし熊本県菊池郡との関連を指摘する説があるそうです。

女王國東渡海千餘里復有國皆倭種 又有侏儒國在其南人長三四尺去女王四千餘里 又有裸國黒齒國復在其東南船行一年可至

(女王・卑弥呼国から4000余里に侏儒国がある。また裸国と黒歯国があり、東南に船で一年で着く)

ついでに侏儒国も。種子島か屋久島かのどちらかだと思うんですけど。裸国?黒歯国?南に沖縄とか石垣島とかあるけど船で1年も必要かな?

「黒歯国」が出てきたところで、やっと「山海経」の時代に戻せます。正直、扶桑の話は邪馬台国の話を先にしておいた方がわかりやすかったからです。

下有湯谷 湯谷上有扶桑 十日所浴 在黑齒北 居水中 有大木 九日居下枝 一日居上枝

(下に湯谷があり、湯谷の上に扶桑があり、10の太陽が水浴びをする。黒歯国の北であり、大木は水中にあり、9の太陽は下の枝に、1の太陽が上の枝にある)

大荒之中 有山名曰孽搖頵羝 上有扶木 柱三百里 其葉如芥 有谷曰温源谷 湯谷上有扶木 一日方至 一日方出 皆載於烏

(大荒(辺境)の中に孽搖頵羝(げつよういんてい)という山があり、山の上に扶木がある。高さは300里(130m)、その葉はカラシナに似る。温源谷(= 湯谷 ?)という谷があり、湯谷の上に扶木がある。1つの太陽が来ると1つの太陽が出て行き、太陽はみな烏を載せている)

十個の太陽とは「甲・乙・丙・丁・戊・己・庚・辛・壬・癸」の十干を意味するらしいのです。で、九個を射落としたから太陽は一個だけになったと。で、ここに「黒歯国の北」とあります。それ以前の時代から黒歯国は認識されていたようで、「扶桑」はそれより北とされています。では次に「宋書」の時代です。

東造扶桑游紫庭 西至崑崙戯増城

(東、扶桑に造りて紫庭に游び、西、崑崙に至りて増城に戯る)

宋・斉・梁に仕えた沈約(441年 – 513年)が南朝斉の武帝に命ぜられて編纂、梁の時代で完成したとされています。卑弥呼亡き後に国を治めたとされる「壹與」(臺與)の3世紀半ばの朝貢の記録を最後に、最早邪馬台国の記述は見当たりません。↑の記述は宋の時代、倭の五王と呼ばれる日本の支配者から朝貢が行われたことを指していると思います。この倭国の5代の王を「讃・珍・済・興・武」、内三人は「呉」との往来があった応神天皇・仁徳天皇・雄略天皇だとされているようです。

そしてようやく「梁書」に戻します。扶桑の記述は、冒頭で紹介した慧深という僧侶の証言の他にもあるのです。

文身國,在倭國東北七千餘里。人體有文如獸,其額上有三文,文直者貴,文小者賤。土俗歡樂,物豊而賤,行客不齎糧。有屋宇,無城郭。其王所居,飾以金銀珍麗。繞屋爲緌,廣一丈,實以水銀,雨則流于水銀之上。市用珍寶。犯輕罪者則鞭杖;犯死罪則置猛獸食之,有枉則猛獸避而不食,經宿則赦之。

文身って入れ墨の事で、人は獣のように入れ墨をしていると書かれています。その位置は倭国の東北7000余里だと。

大漢國,在文身國東五千餘里。無兵戈,不攻戰。風俗並與文身國同而言語異。

ここで大漢国が出てくるのは変だと思うでしょう。大漢国って中国の東の話をしているはずがまた中国に戻るのか?しかも文身国から東へ5000余里離れてて、言語まで違うだと?以上の2項目は、梁書の地の文です。慧深が梁の地にたどり着くまでの扶桑に対する認識です。だからこそ冒頭で「扶桑国の話は以前はなかった」と言っている。それまで中国大陸の歴代国家が接触した日本関係者は、「邪馬台国」の使者と「倭国の5代の王である讃・珍・済・興・武」の使者しかいなかったハズ(黒歯国は不明)。そのように考えているうちにこんな記述を見つけました。

魏志倭人伝の「倭」の記述/梁書の「倭」の記述

太伯とは中国周王朝の人物。荊蛮の地へと自ら出奔し、髪を切り全身に刺青を彫って、中華へ帰るに相応しくないと言ったそう。その人物の後だと?跡継ぎだとでも言うか?そんな記述はその後の後漢書、それ以降にも無いというのに。

最後に宋に朝貢したのは477年(又は478年)「武」と見なされる雄略天皇です。先ほどの「文身国」が倭国から東北7000余里(700X0.075=525㎞)に一致するのは確か。

上の地点を宋(だけ)が認識している文身国と仮定して、大漢国とは関東…。言語が違う?

これは仮定なのですが。日本には下、一ヶ原、そして所など「」の概念があります。さえぎりとどめるもの、そして日本には蝦夷とされた人々が住んでいました。その人たちとの境界線を「関」と呼んで「国」を分けていたのなら「誤約」、即ちそれを「漢」と取り違えしたのかもしれません。(実際、梁書は魏志倭人伝の黒歯国の記述とか間違ったまま載せちゃっている)

今度は慧深の話を検証します。荊州から東二万余里(20000X0.09=1800㎞)…、

これはこれで凄い話なんですが。

ジャスト「下関」。この時代、私個人は少なくとも「下関」までは大和朝廷の支配下にあったと考えております。それ故の(地政学的にも)「下関」というネーミング。それでは国王とされる「乙祁」とは誰か?

顕宗天皇(袁祁王、弘計王)だと考えております。父、市辺押磐皇子を雄略天皇に殺され、兄(後の仁賢天皇、意祁王、億計王)と共に逃亡、その後の跡継ぎのいなかった清寧天皇が崩御すると、兄弟同士で皇位を譲り合い、兄の説得に負けて弟である顕宗天皇が先に即位したとされています。ところでお二人の名前には「祁」という字があります。そして甲乙から乙は弟だと解釈して「乙祁」。これは割と支持されている説だと思います。

慧深又云「扶桑東千餘里有女國、容貌端正、色甚潔白、身體有毛、髮長委地。至二、三月、競入水則任娠、六七月產子。女人胸前無乳、項後生毛、根白、毛中有汁、以乳子、一百日能行、三四年則成人矣。見人驚避、偏畏丈夫。食鹹草如禽獸。鹹草葉似邪蒿、而氣香味鹹。」天監六年、有晉安人渡海、爲風所飄至一島、登岸、有人居止。女則如中國、而言語不可曉。男則人身而狗頭、其聲如吠。其食有小豆。其衣如布。築土爲墻、其形圓、其戶如竇云。

(慧深また云う、「扶桑の東千餘里に女國有り。容貌は端正、色甚だ潔く白し。身體に毛有り。髮長く地に委(ゆだ) ぬ。二・三月に至り、競いて水に入り則ち任娠し、六・七月に子を産む。女人は胸の前に乳無く、項の後に毛生え、根は白く、毛の中に汁有り、以って子に乳す。一百日に能く行き、三・四年に則ち成人す。人を見て驚き避け、偏(すこぶ)る丈夫(じょうふ=成人した男性)を畏(おそ)る。鹹草(かんそう=「あしたば」)を食い禽獸の如し。鹹草の葉は邪蒿(じゃこう)に似て氣は香しく味は鹹(から)し」と。天監六年、晉の安人有りて海を渡り風に飄う所と為し一島に至る。岸を登り、人有り、居して止まる。女は則ち中國の如くして言語は曉(さと)るべからず。男は則ち人身にして狗頭、其の聲は吠えるが如し。其の食に小豆有り。 其の衣は布の如し。土を築き墻(しょう=かき。かこい)と為し、其の形は圓、其の戸は竇(とう=あな。あなぐら)の如しと云う。)

最後、扶桑の東1000余里にある「女国」とは何処か?

可怜国うましくに」です(美し国とも)。アイキャッチの画像が「皇大神宮別宮 倭姫宮」の入り口です。倭姫命は、第10代崇神天皇の皇女豊鍬入姫命の跡を継ぎ、神託により皇大神宮(伊勢神宮内宮)を創建、東夷の討伐に向かう日本武尊(尊は倭姫命の甥王にあたる)に草薙剣を与えているそうです。

是神風伊勢國 則常世之浪重浪歸國也 傍國可怜國也 欲居是國

(この神風の伊勢の国は常世の浪の重浪帰する国なり。傍国の可怜国なり。この国に居らむと欲ふ)

— 垂仁天皇25年3月丙申(10日)条

伊勢神宮を創祀したときの天照大神から倭姫命への神託です。近くには「天の岩戸」もあるんですね。

東征中の日本建尊が杉の幹に鏡を懸けて伊勢の大神を遥拝し、応神天皇20年、神八井耳命の8世の子孫である印旛国造、伊都許利命が船形に社殿を造営したというのが麻賀多神社の由来だったはず。しかもそれ以前の神武天皇の時代に鹿島神宮と香取神宮が創建されています。政情が安定していない限り、あれほどの神社は創建することができないでしょう。そう考えると、やはり関東より「関」は北だと判断せざるを得ません。