五大洲 引っ繰り返っておること まだわからぬか。肝心要のことだぞ。
七大洲となるぞ。八大洲となるぞ。
今の臣民にわかるように申すならば御三体の大神様とは、
天之御中主神様、高皇産霊神様、神皇産霊神様、
伊邪那岐神様、伊邪那美神様、撞賢木向津媛の神様でござるぞ。
雨の神とは あめのみくまりの神、くにのみくまりの神、
風の神とは しなどひこの神、しなどひめの神、
岩の神とは いわなかひめの神、いわとわけの神、
荒れの神とは 大雷のをの神、わきいかづちおの神、
地震の神とは 武甕槌の神、経津主の神、
神様の御事でござるぞ。
木の神とは 木花開耶姫の神、
金の神とは 金かつかねの神、火の神とはわかひめきみの神、
ひのでの神とは 彦火々出見の神、
竜宮の乙姫殿とは 玉依姫の神様の御事でござるぞ。
この方のこと、いずれわかって来るぞ。今はまだ知らせてならんことぞ。
知らせる時節近づいたぞ。
昭和20年6月11日(1945年 皇紀2605年 乙酉)
岡本天明伝[日月神示]夜明けの御用(黒川柚月氏・著)65ページに「聖師は「古事記を研究して神武以前の歴史を検討していかないと、二度目の天の岩戸開きという意味は解らない」といわれた」という記述があります。この聖師というのは、天明氏がかつて所属していた「大本」の二大教祖の一人、出口王仁三郎氏の事です。ところが、今回の主役、「経津主神」は、日本書紀では登場しているのですが、古事記には登場していないのです。
大本
ttps://ja.wikipedia.org/wiki/大本
出口なお
ttps://ja.wikipedia.org/wiki/出口なお
出口王仁三郎
ttps://ja.wikipedia.org/wiki/出口王仁三郎
大体、「邪馬台国」の話が、古事記や日本書紀に一切記述が無いのに、それより前の「神代から上古までを記した史書」だとか片腹痛いです。何故記述が無いかって、都合が悪かったからだと思います、編者というよりは「監督していた大和朝廷にとっては」確実に。
古事記
ttps://ja.wikipedia.org/wiki/古事記
日本書紀
ttps://ja.wikipedia.org/wiki/日本書紀
事大主義
ttps://ja.wikipedia.org/wiki/事大主義
小中華思想
ttps://ja.wikipedia.org/wiki/小中華思想
当時既に数多くの渡来人が朝廷中枢にいたであろう事は明白で、彼らの根底に事大主義、小中華思想があるために、考え方が西高東低であり、近年に至るまで関東の歴史などは見向きもされなかったのです。つまり同じ国に自分たちより優れた文明があったなど認めるわけにはいかないのです。まるで(大陸から来た)自分たち(と先祖)こそが優れているなんて「クソみたいな驕りと(ry」
大体「日出處天子致書日沒處天子無恙云云」なんて書きつけた聖徳太子と蘇我馬子が編纂した「天皇記」が、蘇我蝦夷が邸宅に火をかけて自害した時に一緒に焼失したなんて、誰に都合の良かった話なんでしょう?この後、大化の改新を経て、天智天皇、天武天皇の治世に至り、世の中はそれまでの日本と大きく変わってしまったと言えます。
誰に都合が良かったっていうのは、「藤原不比等にとって」なのです。「中臣氏」では無く。
「記紀」の記述の共通点と差異は、当時の閲覧可能な文献の乏しさと、「言い伝えという伝言ゲーム」につきまとう不確実性に起因するのだと思っております。都合の悪い話は消す。時には人ごと。「乙巳の変」、「壬申の乱」なんてその典型。この話はいずれ詳しく書きます。これが日月神示で言う「仏魔」を指しているのかもしれません。
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私が香取神宮に参拝に行ったのは「令和6年(2024年)7月8日」です。その経緯は、書くとあまりにも長くなるので、今回は割愛します。実はその経緯の元になった話が完結していない案件なので…。

…。
…私は時間凍結されていたのでしょうか?

…まさかね。

しかしさっぱり人気が無かったのですが。

そんなはずもなく。アイキャッチの写真なんて奇跡的に人がいなかっただけで。

参道が広いです。これが神宮か。高校の時、明治神宮に行った事があるとはいえ、人大杉でそれを実感するどころではなく。

今井健彦
ttps://ja.wikipedia.org/wiki/今井健彦
今井信郎
ttps://ja.wikipedia.org/wiki/今井信郎

今井信郎は、近江屋事件の件で嫌疑をかけられ、坂本龍馬暗殺の際には見張り役だったとして、禁固刑二ヶ年の判決を受けた後、釈放されております。氏の三男が今井健彦であり、衆議院議員(立憲政友会)、文部政務次官、商工政務次官、農林参与官、ジャーナリスト、東京毎日新聞社社長を務めたそうです。
奥に進みます。

ここだけでも普通の神社の広さあるわ。

護国神社
ttps://ja.wikipedia.org/wiki/護国神社
こちらは香取神宮内にあるから良いとしても、戦没者を直接知る遺族や戦友たちの高齢化、引き継ぐ管理者がいなくなると存続が厳しいか…。あ、この左側奥にある「要石」行くの忘れた。道戻っちゃったのです。

やっと…と思ったらまだ先なのです。

( ゚д゚)ハッ!

…。

正面は手水舎、拝殿は右へ。

あの…。

…。
ちょ…こんなシーン何時かも見た気がするぞ…デジャヴ?

香取神宮
ttps://ja.wikipedia.org/wiki/香取神宮
主祭神は経津主大神。
経津主神
ttps://ja.wikipedia.org/wiki/経津主神
神宮の祭祀氏族は、古くは香取連(かとりのむらじ、香取氏)の一族とされますが、系図によれば、大中臣氏から大中臣清暢が香取連五百島の養子に入る事で香取大宮司を、清暢の子の秋雄が香取大禰宜を担う事となります。その後の平安時代末期までは中央の藤原氏に管掌されていたところ、鹿島神宮大宮司の中臣氏一族から、香取神宮大宮司への任命があって以降は、香取大中臣氏と鹿島中臣氏とが香取の大宮司職を巡って対立を見せ、大中臣氏一族の内部で大宮司・大禰宜職や社領を巡っての抗争が展開、近世の江戸幕府の統制下に入っても、抗争は繰り返されていたことが散見されています。…えっと、藤原氏についてはいずれ書くことになりますけど…。


最初は分かりづらかったのですが、左側が市神社で、祭神は事代主神、天降神社が合祀されているようで、祭神は伊伎志爾保神、鑰守神です。右側が馬場殿神社で、祭神は建速須佐之男命です。

飯篠家直
ttps://ja.wikipedia.org/wiki/飯篠家直

お墓のたたずまいが素晴らしいです。風情があるというか。飯篠家直は18代当主千葉胤宣に仕えていたそうです。

ただ、ここだけは全く空気感が違ったような気がしました。

経津主神の荒御魂を祀る奥宮です。社殿は昭和48年(1973年)の伊勢神宮遷宮の際の古材を使用しているそうです。この竹林と杉が織りなす風景と古材を使った社殿の雰囲気と言ったら…。

よく考えたら、この二本、やけに近いような…。
Wiki見ると境内社、境外社、随分ありますね、だいぶ見落としてる…。

側高神社までは4㎞前後ありますし…。
と思ってたら、足が妙にだるい。足を見たら痣のように変色してたので残念ながら止めました。実は数日前、肉離れをおこしていたのです。

しかし痣だけは残った…(執筆時点では消えました)。
…ところで
令和6年から私がこの投稿を書き直すことがわかっていたのか?
相変わらず(ry

