そなたの仕事、思いつき結構であるが、神の御意志を頂かねば成就せん。
神と申しても、そなたが勝手に決めた神や宗教で固めた制限された神ではないぞ。
わかっただけでは駄目ぞ。行じねばならん。生活しなければならん。
芸術しなければならん。
昭和34年1月3日(1959年 皇紀2619年 己亥)
「それでも煩悩が巡っている」の「108」です。
長らくの更新停止で大変ご迷惑をおかけしました。申し訳ありません。
昨年の夏あたりから、特に海外からのアクセスが急増しておりまして、これがどっかのデータセンターのbot程度ならばまだ我慢できるものの、明らかに不審なアクセスが見られるようになった為、対処する事にしたのです。右クリック禁止の処置は対応策を練るまでの暫定的な処置で、今回の更新により解除しました。一抹の不安が残りますが。
これらの不審なアクセスの全てがVPN経由のアクセスでした。そもそもVPNという技術はこんな目的のために開発された技術ではない事は承知しております。しかしながら、「compromise」と判断されたアクセス全てがVPN経由であるなら遮断せざるを得ない。以外にもプロキシや、torの使用が見受けられなかったのは意外でしたが、今や、不正アクセスのトレンドはVPNに移ったとみて良いのかもしれません。VPN各社のIPをシャットアウトする方法を書いておられたブログもあったのですが、今回はその手段は見送りました。いたちごっこになるのが明白なので。ここまでしてもVPNプラグインをインストールしたブラウザ等には対応出来ておりませんが、桁が違うレベルで楽になりました。
先述した海外からのアクセスの大半は「Boardman」、「Columbus」、「council bluffs」、「Ashburn」などで、多くのWordPressユーザーも困っているみたいで、企業のデータセンターのbotでは?というコメントでした。こんな連中の怪しいビッグデータの構築やらAIの教育なんかに付き合ってやる義務などは無いので、ついでにシャットアウトする事にしました。
そもそもサーバー側とプラグインの両方で、海外からのアクセスを拒否設定にしているにも関わらず、あんな連中だけでなく、南アフリカやらベトナムなどからアクセスされるなんて、誰が考えてもおかしいと思うでしょ?
もう一つはブログの性質上、同一のテーマを扱った記事の場合、まとめたくなったという事にあります。今から書く記事もこれにあたります。初詣で麻賀多神社に参拝に伺った話については、本ブログ初投稿である2024年1月2日当時がオリジナルで、同年中に1回目のブログ更新で記事を書き換えた旧「第零話」、天日津久神社の由来について考察している旧「第二十五話」を今回のブログ更新にあたって記事をまとめました。タイムライン更新はもう少々お待ちください。重ね重ねご迷惑をおかけして申し訳ありません。
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元々は、「日月神示の考察と日夜起こる出来事をこじつける罰当たりなブログ」として始めたわけですが、訳あって麻賀多神社に御札を返してきましたので、更新にあたりキャッチフレーズも「0=1=i=∞=1⁄∞」となっております。これではこのブログが何なのかサッパリですが、もう集客はあきらめました。こんな世の中でもありますし、縁があるのなら見てくれるだろう位に思ってます。
とはいえ、タイトルにあるように「神の御意志を頂かねば成就せん」とありますし、「ひつくの神にひと時拝せよ」(地つ巻 第九帖)という事もあり、2023年12月9日にブログ開設のお伺いに麻賀多神社(台方)を参拝したのですが、この話は旧旧「第零話」には書いておきながら、旧「第零話」で書き忘れていました(ダメじゃん…)。

ここまでの道すがら、12月だというのにまだ虫が鳴く音が聞こえてる!この話を執筆している2025年の12月現在とはえらい違いで、現在の方が普通の冬っぽいといえばそうなのでしょう。一方でここに着いたのは、午後2:00過ぎくらいなんですけど、日中なのにどことなく夕方っぽさを感じるのが12月らしいところ。だから暮れって言うのでしょうか?
ところで、境内では写真一枚も撮っていないんです。緊張感というか、圧迫感というか、気後れしたのか…。神社でこんなに緊張するのはここ台方だけです。参拝に来るたびに叱られに来ているような気分なのは、恐らく私が至らぬ故なのでしょう。
参拝を終えて、奥宮へお伺いする事にしました。実は麻賀多神社の名前を知ったのは奥宮の方が先だったのです。以前していた仕事で、成田駅西口大通りから国道464号線に至る道を通っていました。通りには看板もあって「変わった名前の神社だな」と。その当時は寧ろ日月神示の方を知らなかった位で。

台方の裏手に岡本天明氏の住居の跡地があります。実は最初の訪問でも後述する2024年元旦の再訪時でも人がいたからか写真撮っていなかったのです。これは2024年5月に参拝した時。

天つ巻 第八帖
嵐の中の捨て小舟と申してあるが、今その通りとなっておろうがな、
どうすることもできまいがな、船頭どの、苦しい時の神頼みでもよいぞ、
神まつりてくれよ、神にまつわりてくれよ、神はそれを待っているのだぞ、
それでもせぬよりはましぞ、そこに光あらわれるぞ。
光あらわれると道はハッキリとわかって来るのぞ、
この方に騙されたと思って、言う通りにして見なされ、
自分でもビックリするように結構ができてるのにビックリするぞ。
富士の御山に腰かけて、この方 世界中守るぞ。
辛酉、結構な日と申してあるが、結構な日は恐い日であるぞ。
天から人が降る、人が天に昇ること、昇り降りで忙しくなるぞ。
てんし様 御遷り願う時近づいて来たぞよ。
奥山に紅葉あるうちにと思えども、いつまでも紅葉ないぞ。
昭和19年9月2日(1944年 皇紀2604年 甲)
日月神示の奥山=天明氏が住んでいる所なのですが(ちなみに富士山が一の宮です、これは後述します)、紅葉が残ってて間に合ったな、と。

船形の奥宮はホントに落ち着く所だと思います。社伝によれば日本建尊が杉の幹に鏡を懸け、伊都許利命が船形に社殿を造営し、その鏡を神体として稚日霊命を祀り、杉の木の下から7つの玉を掘り出して神体とし、和久産巣日神を併せ祀ったとされております。その伊都許利命の墳墓は写真奥の高台になっている所です。
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時に2024年1月1日午前3時前位、「京成って終夜運転してたっけ」とか思い付きで宗吾参道駅へ。コンビニで腹ごしらえした後、一路印旛沼を目指します。初日の出の撮影の為。散歩している人に挨拶。「正月って不思議に晴れますね」と言うと「そう言えばそうかも」と。正直、私の記憶にある中では天気が悪かった記憶が無いのです。まぁ、忘れているだけかもですが。家を出た時は、東の方角が雲が多かったので冷や冷やしていましたが。

西側には雲が残っています。そして日と月の対比。

それでは麻賀多神社に向かうことにします。「一の鳥居」のそばには、かつての渡船の史跡がありました。昭和43年まで橋が無かったというのが驚き。下のリンク見ると印旛沼開発の完成は昭和44年と、思っていたよりは近年ではあります。

印旛沼開発の歴史 1. 近代までの開発経緯 【事業に至る経緯】
ttps://www.maff.go.jp/kanto/nouson/sekkei/kokuei/inba/keii/01.html
私は生まれも育ちも千葉県で、学生時代には香取海、利根川、江戸川、手賀沼、印旛沼の干拓の歴史を教えてくれた先生がいた世代であって、この地もまたかつて「香取海」の一部だった事は知ってはおりました。「海マアカタとは印旛」(日の出の巻 第十八帖)とは、「香取海」だった話からと思います。2011年の東日本大震災の後、対岸の印西市や柏市でも「液状化」が見られました。関東平野の低地は埋立地と同義語だと思って良い位。以前どこかの掲示板で、千葉に住みたいという人に香取海を例に出して「可能な限り高台に住んだ方がいい」と言ったことがあります。その高台ですら、少し低くなっている所が、数十年前まで「沼」(湿地帯)だったなんて話があるほど。これ、私のすぐ近所だけでも複数ある話。昭和の終わり頃でさえも、雨が降ると氾濫する河川があって、学校へ行く道が水没し、校庭ではカエルが鳴いていたのは私の実体験。大分改善されたとはいえ、今でも大雨が降った後には、道路の消毒をしている所すらあります。理由はお察しください。

大伴家持が寄進したという「一の鳥居」です。「鳥居は要らぬぞ、鳥居とは水のことぞ、海の水ある それ鳥居ぞ」(下つ巻 第一帖)とされていますが、どうなんでしょうか?
大伴家持
ttps://ja.wikipedia.org/wiki/大伴家持
大伴馬来田
ttps://ja.wikipedia.org/wiki/大伴馬来田
大伴吹負
ttps://ja.wikipedia.org/wiki/大伴吹負
実は、大伴家持こそが麻賀多神社(台方)に天之日月神を祀ったのではないかと思っているのです。
神典研究家で神名には明るかった天明氏でさえ、天之日月神がいかなる神なのか、また、どこに鎮座され祀られている神なのか分からなかったそうですが、私が調べた限り、享保7年(1722年)の『佐倉風土記』の記述が最も古かったです。安政4年(1857年)10月に完成した『利根川図誌』(赤松宗旦氏/著)での麻賀多神社の記述は、その佐倉風土記を参照しているようです。かつて三十八座あったものの、享保7年時点での摂社・末社は五座で、印波國造社、幸靈神社、馬來田朗女神社、猿田彦神社、天日津久神社となっていたようです。まず伊都許利命を祀るのは分かる、猿田彦神社も分かるのですが、ここからが問題です。幸靈神社(幸霊神社)?愛知県に幸霊社という神社があるそうですが、あちらも由来が不明だそうです。島根県松江市には、三穂津姫命を祀るとされる幸魂神社があるそうですが、断定まではちょっと…。馬來田朗女神社(馬来太郎女神社)という名前から察するに木更津市馬来田辺りに由来する神社だと思うんですが、弟の吹負が天武天皇の代に常道頭(常陸国の守)を務めた事から大伴馬来田も馬来田村・望陀郡を治めた可能性を指摘している方もいるようです。この事から大伴家は上総国から常陸国にかけては一定の影響力があったと考えられ、伴氏神社の創祀が平安京遷都時(延暦13年/794年)と後々の時代であって、家持が一の鳥居を寄進した際、馬来田を祀った可能性はあります。吹負の名前さえあれば確実性が増したのですが…
そしてもう一つの手がかりが万葉集にあります。
皇位
ttps://ja.wikipedia.org/wiki/皇位
「あまのひつく」、「日嗣」(ひつぎ)という神名は、古代では皇位と同義語であり、かつて大本事件に巻き込まれた天明氏にとっては、その名を出すだけでも命がけだったと言えます。官憲への対策だったのか、戦後の「雨の巻 第一帖」までは「日津久」表記でした。(例外は終戦十日前の「夜明けの巻 第九帖」で「天津日嗣皇尊大神」を称した。)実は「あまのひつぎ」で検索すると、以下のようなサイトもヒットするようになるのです。
あまのひつぎ
ttp://jmapps.ne.jp/kokugakuin/det.html?data_id=31655
記紀・宣命・祝詞等に「天津日継」(記)、「宝祚」「天業」(紀)、「天日嗣」(宣命)、「天津日嗣」(祝詞)等多くの用例を見るが、いずれも「あまつひつぎ」と読み、「皇位につく」の意で用いられている。万葉集では、この句は「あまのひつぎ」という形で5首の歌に詠まれている。作者はすべて大伴家持である。
郷社麻賀多神社。
●台方にあり祭神を稚産霊神となす。応神帝の朝印波国造伊都許利命の齋祀せる所なりという延喜式内神社の1つ。(中略)印旛沼畔に一大華表あり延歴2年9月勅使大伴家持卿始めて建立せる所なりと云う。爾来61年毎に建替を定例とする又郡内の一勝地なり。
以下、特に要太字注目。()内は対訳。
以下、万葉百科 奈良県立万葉文化館 様
巻18-4089 獨居幄裏、遥聞霍公鳥喧作歌一首〔并短歌〕
ttps://manyo-hyakka.pref.nara.jp/db/detail?cls=db_manyo&pkey=4089
高御座天の日継と天皇の神の命の聞し食す国のまほらに山をしもさはに多みと百鳥の来居て鳴く声春されば聞きのかなしもいづれをか別きてしのはむ卯の花の咲く月立てばめづらしく鳴くほととぎすあやめぐさ玉貫くまでに昼暮らし夜渡し聞けど聞くごとに心つごきてうち嘆きあはれの鳥と言はぬ時なし
(高御座にあって、天日をうけ嗣ぐものとして、天皇たる神の命がお治めになる国、この秀れた国土には山があちこちに多いので、いろいろな鳥がやって来て鳴く。その声は春になると聞いていてかわいいことよ。どの声がいいというのでもないが、中でも卯の花の咲く月になると、愛らしく鳴くほととぎすは、菖蒲草を薬玉に通す五月まで、昼は一日中、夜は一晩中聞いても聞くたびに心が動いて感嘆し、興尽きない鳥だといわない時はない。)
巻18-4094 賀陸奥國出金詔書歌一首〔并短歌〕
ttps://manyo-hyakka.pref.nara.jp/db/detailLink?cls=db_manyo&pkey=4094
葦原の瑞穂の国を天降り領らしめしける皇御祖の神の命の御代重ね天の日嗣と領らし来る君の御代御代敷きませる四方の国には山川を広み厚みと奉る御調宝は数へ得ず尽しもかねつ然れどもわが大君の諸人を誘ひ給ひ善き事を始め給ひて黄金かもたしけくあらむと思ほして下悩ますに鶏が鳴く東の国の陸奥の小田なる山に黄金ありと申し給へれ御心を明らめ給ひ天地の神相誘なひ皇御祖の御霊助けて遠き代にかかりし事を朕が御代に顕はしてあれば食国は栄えむものと神ながら思ほしめして物部の八十伴の緒を服従の向けのまにまに老人も女童児も其が願ふ心足ひに撫で給ひ治め給へば此をしもあやに貴み嬉しけくいよよ思ひて大伴の遠つ神祖のその名をば大来目主と負ひ持ちて仕へし官海行かば水浸く屍山行かば草生す屍大君の辺にこそ死なめ顧みはせじと言立てますらをの清きその名を古よ今の現に流さへる祖の子等そ大伴と佐伯の氏は人の祖の立つる言立て人の子は祖の名絶たず大君に奉仕ふものと言ひ継げる言の官そ梓弓手に取り持ちて剣大刀腰に取り佩き朝守り夕の守りに大君の御門の守りわれをおきてまた人はあらじといや立て思ひし増る大君の御言の幸の/ [一は云はく、を]聞けば貴み[一は云はく、貴くしあれば]
(葦がしげるみのり豊かなこの国土を、天から降ってお治めになった皇祖の神の御代を重ねて、天日を継承するものとして支配なさる天皇の御代御代に、統治なさる四方の国には、山や川が広く豊かなので、貢上する宝物は数えきれず尽くすこともできない。しかしながらわが大君は、多くの人々をさそってりっぱな事業をお始めになってから、黄金がたしかにあるだろうかとお考えになり、心を悩ませておいでだった。ところが鶏の鳴く東の方、陸奥の小田という山に黄金があると申しあげると、御心のふさぎをお晴らしになった。「天地の神々も尊いこととお思いなさり、皇祖の御魂も恩恵を施され、遠い昔にあった、こうした事を、またわが御代にもお見せくださったので、わが統治の国は繁栄するにちがいない」と、大君は神の御心にお考えになり、多くの廷臣たちを従え政治に向かわせる一方、老人も、女も子供も、その願いが心のままに満足するように安らかにさせ、治めなさる。そのことを私は、ふしぎに尊く嬉しいことと、ますます考える。大伴という、遠い祖先の名を大来目主として掲げもち、朝廷奉仕を役目として来た氏は「海に征けば水につかる屍、山に戦えば草のはえる屍。大君のかたわらに死のう。わが身をふりむくまい」と言立てをして、勇敢な男の清らかな名を昔から今の現実に伝えて来た末の一族であるよ。大伴・佐伯の両氏は、祖先の立てた言立てによって、子孫が祖先の名を絶やさず大君に奉仕するものと言い伝えて来た、そのことばどおりの役目の氏であるよ。梓の弓を手に握り持ち、剣太刀を腰に帯び「朝の守護・夜の守護に大君の御門の守護をするのには、自分以外に人がいまい」と、ますます心をふるい立たせ、気持は高ぶる。大君のおことばの幸いが〔一ハ云ワク、を〕、聞けば尊いので〔一ハ云ワク、尊く思われるので〕。)
巻18-4098 為幸行芳野離宮之時、儲作歌一首〔并短歌〕
ttps://manyo-hyakka.pref.nara.jp/db/detail?cls=db_manyo&pkey=4098&dicCls=d_kanno&dicDataId=18&detaillnkIdx=0
高御座天の日継と天の下知らしめしける皇祖の神の命の恐くも始めたまひて貴くも定めたまへるみ吉野のこの大宮にあり通ひ見したまふらしもののふの八十伴の緒も己が負へる己が名負ふ負ふ大君の任けのまくまくこの川の絶ゆることなくこの山のいや継ぎ継ぎにかくしこそ仕へ奉らめいや遠長に
(高御座にあって、天日を承けつぐものとして天下をお治めになった遠い天子が、畏れ多くも始めなさり貴くもお定めになったみ吉野のこの大宮に、わが大君は通いつづけて風景を御覧になるらしい。多くの廷臣たちも、それぞれがもつ氏の名にたえず背かず、大君の任命に応じつづけ、この川が絶えることのないように、この山が次々と重なるように、このようにお仕え申し上げよう。一層永遠に。)
巻19-4254 向京路上、依興預作侍宴應詔歌一首〔并短歌〕
あきづ島大和の国を天雲に磐船浮かべ艫に舳にま櫂しじ貫きい漕ぎつつ国見しせして天降りまし払ひ言向け千代重ねいや継ぎ継ぎに知らしける天の日継と神ながら我ご大君の天の下治めたまへばもののふの八十伴の緒を撫でたまひ整へたまひ食す国の四方の人をもあぶさはず恵みたまへば古ゆなかりし瑞度まねく申したまひぬ手抱きて事なき御代と天地日月と共に万代に記し継がむそやすみしし我ご大君秋の花しが色々に見したまひ明らめたまひ酒みづき栄ゆる今日のあやに貴さ
(秋津島の大和の国を、天雲に磐船を浮かべ、船尾にも船首にも左右の櫂を一面に通して漕ぎながら国見をなさって地上にお降りになり、邪魔者を掃い従え、千代を重ねて一層次々と平定なさってきた天皇の御位にあって、神のままにわが大君が天下をお治めになると、廷臣の多くの者どもをいつくしみなさり、整備なさり、支配する国土のあらゆる人々をも残さずお恵みになるので、昔からなかった瑞祥が度々奏上されることだ。何もせず手を組んでいても太平な御代として、天地・日月と共に万代の後までも記録しつがれるだろう。八方を支配されるわが大君が、秋の花のさまさまな色どりを、それぞれに御覧になって御心を晴らす、酒宴が賑やかな今日の、ふしぎな貴さよ。)
巻20-4465 喩族歌一首〔并短歌〕
ひさかたの天の門開き高千穂の岳に天降りし皇祖の神の御代よりはじ弓を手握り持たし真鹿児矢を手挟み添へて大久米のますら健男を先に立て靫取り負ほせ山川を岩根さくみて踏み通り国求ぎしつつちはやぶる神を言向けまつろはぬ人をも和し掃き清め仕へ奉りてあきづ島大和の国の橿原の畝傍の宮に宮柱太知り立てて天の下知らしめしける天皇の天の日継と継ぎて来る君の御代御代隠さはぬ明き心を皇辺に極め尽くして仕へ来る祖の官と言立てて授けたまへる子孫のいや継ぎ継ぎに見る人の語り次てて聞く人の鑑にせむをあたらしき清きその名そおぼろかに心思ひて空言も祖の名絶つな大伴の氏と名に負へるますらをの伴
(ひさかたの天の戸を開き、高千穂の嶺に天降った、天皇の祖先神の昔から、わが一族は櫨弓を手に握り持ち、真鹿児矢を脇にかかえて、大久米部の勇敢な男たちを先頭に立て、靱を背に山川の岩を踏み分け踏みくだいて国土を求めつつ、ちはやぶる神を平定し、反抗する人々も従え、邪悪なものを一掃して、お仕え申して来た。また、秋津島の大和の国の橿原の畝傍の宮に、宮殿の柱をりっぱに立てて天下を支配なさった皇祖の、それ以来の御位として引き継いで来た君の御代御代に、隠しへだてなく赤心を、天皇に向けて極め尽してお仕えして来た。そうした祖先代々の役目としてことばにあげて天皇が官をお授けになるわれら子孫は、一層次々と、見る人が語りつぎ聞く人が手本にするはずのものを。惜しむべき清らかなその名であるよ。あさはかに思慮して、かりそめにも祖先の名を絶やすな。大伴を氏の名にもつ大夫たちよ。)
の5首ですが、以下に意味深なのを貼っておきます。
大伴宿禰家持
巻20-4509 波布久受能多要受之努波牟於保吉美乃賣之思野邊尒波之米由布倍之母
ttps://manyo-hyakka.pref.nara.jp/db/detail?cls=db_manyo&pkey=4509&dicCls=d_utabito&dicDataId=174&detaillnkIdx=0&lnkDic=true
延ふ葛の絶えず偲はむ大君の見しし野辺には標結ふべしも
(蔓(つる)を伸ばす葛のように絶えずお慕いしよう。大君が御覧になった高円の野辺には標縄(しめなわ)を張っておくべきであるよ)
だから「一の鳥居」を立てたのではないかと…。
いや、正直疑問もありまして、鹿島神宮では無く、香取神宮でも無く、常陸国総社宮でも無く、何故(台方の)麻賀多神社だったのでしょう?家持は宝亀5年(774年)9月4日、左京大夫兼上総守(例の馬来田村を含む)に任ぜられましたが、印旛沼は管轄外のハズです(上記三社にも言える事ですが)。そして「大君」とは、先述の日本建尊であるのか、それともかつてこの地に訪れた歴代の天皇を指しているのか、もしくは関東こそが本来の都だったからでしょうか?(私はそう思っておりますけど)もし仮に日本建尊だとするならば、この地を訪れていた事が社伝として伝えられているので、整合性はあります。
ただ、天日津久神社を祀ったのが家持だったとしたら、何故「摂社」になったのでしょう?ちなみに菊の御紋があるのは、麻賀多十八社で台方だけという事も…。
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考察が長くなってしまいましたが、2024年1月1日の麻賀多神社(台方)です。鳥居に菊の御紋が見えるでしょう。参拝者の方々は緊張する様子なんて見られないのに、私一人ビクビクしているとか不審者みたい…。私には霊感は無いって思ってはいるのですが、とにかくプレッシャーがキツイ。神示に囚われているだけかも知れませんが、そのくせブログにしようというのだから全く以ってどうかしてます。
下つ巻 第二十七帖
この方は祓い戸の神とも現れるぞ。
この方祀るのは富士に三と所、海に三と所、江戸にも三と所ぞ、奥山、中山、一の宮ぞ。
富士は、榛名に祀りてくれて御苦労であったが、これは中山ぞ、
一の宮と奥の山にまた祀らねばならんぞ、
海の仕組みも急ぐなれどカイの仕組み早うさせるぞ。
江戸にも三と所、天明(岡本天明)の住んでいるところ奥山ぞ。
あめのひつく(天の日津久)の家、中山ぞ、富士(二二)が一の宮だから気つけておくぞ。
この方祀るのは、真ん中に神の石鎮め、そのあとにひもろぎ、前の右左にひもろぎ、
それが「あ」と「や」と「わ」ぞ、
そのあとに三つ七五三とひもろ木立てさすぞ。
少し離れて四隅にイウエオの言霊石置いてくれよ。
鳥居も注連も要らぬと申してあろうがな、このことぞ。
この方祀るのも、役員の仕事も、この世の仕組みも、
みな七七七七と申して聞かせてあるのに気がまだ付かんのか、
臣民の家に祀るのは神の石だけでよいぞ、
天のひつくの家には、どこでも前に言うようにして祀りてくれよ。
江戸の奥山には八日、秋立つ日に祀りてくれよ、
中山九日、一の宮には十日に祀りてくれよ。
気つけてあるのに神の神示読まぬからわからんのぞ、このこと、よく読めばわかるぞ。
今の様なことでは神の御用つとまらんぞ、正直だけでは神の御用つとまらんぞ。
裏と表とあると申して気つけてあろうがな、
シッカリ神示読んで、スッキリと腹に入れてくれよ、
読む度たびに神が気つけるように声出して読めば、読むだけお蔭あるのぞ。
昭和19年7月31日(1944年 皇紀2604年 甲申)
ところで、[日月神示]夜明けの御用 岡本天明伝(黒川柚月氏/著)の177ページ[注3]に、「天明第一仮約」では「富士(二二)が一の宮だから」になっているという記述があるのです(本文太字)。こちらが正解と思うので、本ブログでもそのように記述しております。
ところが、第二仮訳を底本にしている「日月神示 謄写版第一訳文」(ビオ・マガジン)や、「新版 ひふみ神示」(コスモビジョン)などの書籍を始め、現在オンラインで公開されている神示の多くは「ここが一の宮だから」という記述になっているようです。
しかしこの下つ巻 第二十七帖、「この方祀るのは富士に三と所、海に三と所、江戸にも三と所ぞ、奥山、中山、一の宮ぞ。」と冒頭にあり、天明氏の住んでいる所は台方であれ、至恩郷であれど、奥山なのです。そして「あめのひつく(天の日津久)の家、中山ぞ」(台方と思われる)という事は、「ここが一の宮だから」では意味が通じないという事を指摘されているのです。実際読んでみるとおかしいのですけどね…。だから「富士(二二)が一の宮だから」が正解であるハズ。
ただ「天明第一仮約」の入手は困難なので、外にも違っている点があるかもです。「この神示八通りに読めるのじゃ」(海の巻 第十五帖)という事ですし…。

この後は当然、奥宮も参拝しました。夕方っぽく見えますが、もちろん朝です。もうちょっと明るかったけど、こんな感じに見えていました。ここ、JR成田駅西口から真っすぐというアクセス良さげなのに、なんでこんなに人少ないんだろう?って思っているのですけど。
一万字超えちゃっているので、本日はここまで。ホントは麻賀多神社に伝わる神代文字の話(旧第二十話)とかもあったのですけど、これは別の話に繋げた方が良さそうだったので。大伴家持の話は、大半コピペで済んだけど、参拝部分は多くが書き直し。原稿丸めてポイっていうのもアナログっぽくて良いかなって(前回の更新でも言ってた)。
では、今後もよろしくお願いいたします。
