時、時、と申してあるが、時間では無いぞ。神、幽身にも聞かせているのぞ。
地上人には時間が考えられるなれど、神界には時間が無く、神も霊人も時間は知らないのであるぞ。
ただ喜びがあるのみぞ。
神界で時間と申すのは、ものの連続と変化、状態の弥栄のことであるぞ。
トキ待てよ。トキ違えるで無いぞ。
地上人の時間と区別して考えねばこの神示は解らんぞ。
昭和36年5月10日(1961年 辛丑 皇紀2621年)
今回はネタバレ注意です
11、12日と連休になりました。早々に記事更新しろ、ってせっつかれているのでしょうか?(←被害妄想)
本記事はブログ更新停止中に書いてた「葬送のフリーレン」のレビューです。2026年1月16日から待望のアニメ第二期がオンエアされますが、第一期のレビューが間に合って良かったです。されど私は夜勤なので、第二期を見るのはブルーレイ発売までお預けなのです(ノд・。) グスン
今は遠い昔、80年代から90年代、私はアーケードゲーマーで、学校帰りに、バンドの練習が終わった後に、就職後もドライブインのゲームコーナーで、50円玉、100円玉をじゃらじゃらさせながら、カップヌードルのバチモン食べながら、「ホットのドクターペッパー(w)」飲みながらと…←かつて近所の駄菓子屋で冬場限定でやってたんです。ポットに入れた温かいコカ・コーラとドクターペッパー、1杯30円。
ドラゴンクエストが発売された頃、友人は(当時の日本にとっては)、この新しいジャンルのゲームに夢中になりましたが、当時の私はそれに飛びつこうとさえ思いませんでした。それはひねくれていたからというわけでは決してなく、単に優先順位が音楽をやったからであり、一方で富士通のFM-7を持っていた事もあって、ファミコンも持ってはおらず、あのコントローラーでゲームする位ならアーケードでやればいいや、という程度の話です。
1995年末頃、「テイルズ オブ ファンタジア」が発売、キャラクターデザインは「逮捕しちゃうぞ」で有名な藤島康介先生だった事もあり、私はスーパーファミコンも一緒に買って帰りました。このゲームの何が衝撃的だったかって、オープニングテーマで歌っている…容量が少ない当時のゲームカートリッジなのに…。サンプリング周波数が乏しいので声がキレイに再生できる訳が無いのですが、多分そこに価値があるのでしょう。後年、本作がリメイクされた時、この曲を聴いてみても当時の感動は無かったばかりか、寧ろオリジナルの方が明らかに良かった事を思い出します。この事は昨今のリメイク、リマスターなどにも言える事です。必ずしも良く思えるとは限らない。ところでこのゲームはBGMも良かった。ナムコのスタッフはそれまでも名曲と言っていいゲームミュージックを造ってきましたが(余談ですが「OMY」も)、優れたBGMとは、聞いてもそのイメージを想像しうる音楽でありながら、物語の進行を妨げるものであってはならないと思います。…「家具の音楽」エリック・サティ―、それから「ミュージック・フォー・エアポート」ブライアン・イーノ…今日は現時点で既に本題から遠く離れているのでこれ以上書きませんが。
その後、ほぼ同時期に発売されたRPGの大作とされる作品をプレイしたのですが、
「同じじゃん」、と。
それを言ってしまったら世の中にある物語なんてネタ切れも同然です。音楽だって「心地よく聞こえる音の組み合わせには限界がある」ように思いますし、何事も初めは影響を受けたものから学んで、そこから一歩踏み出して新たな作品を産み出すというのは大変困難であって、それが世に受け入れられるというのはまた別問題なのです。
最近Youtube見ていると、右側のおすすめ?に「葬送のフリーレン」が出て来るようになりました。今や漫画、アニメ、ゲーム等、至る所に「異世界」もの、「RPG世界」ものが扱われている世の中で、最初は「またか」位に思っていたのですが、たまたま見ていたショート動画をスクロールして、目の当たりにした本作品の動画から見た印象だけでも「違った」。
だから「知ろうと思った」のです。
因みにブルーレイ第1巻収録の第1話から第4話までは、コミックスの第1巻に一致しているので(正確には第2巻第8話)、未読未視聴の方はセットで買うと良いかもです。
この物語の肝心なところは、「別に魔法じゃなくたって…」成立するんじゃないかって思います。これは「人の心を知る旅路」であり、見る者側の(人生という)物語にささる。この事を指摘しているレビュアーとそれに対するコメントは実際多く見受けられます。
本編に行く前に音楽の方から…

夜には国を挙げての祝賀会が行われているのですが、この楽器は恐らく「リュート(Lute)」。作中の音楽の第一印象としては、ヨーロッパの大西洋側と東欧っぽい雰囲気があるように思いましたが、作曲者の音楽ルーツがケルティック音楽にあって、今回ハンガリーのオーケストラを使ったそうで。(想像していたより北側でした…)古楽器が多用されている事で、「音色の地域性」からくる先入観だったのかも知れません。いずれにせよ、雰囲気がとても大切にされている作品だと思います。
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この物語はそれこそ文字通り「冒険の終わり」から始まります。主人公紹介の意味を込めて、そこに至るまでのエピソードを最初に持ってくる作品はあるでしょう。「でも魔法を選んだ」というのは原作の第3話、アニメ第2話のエピソードですが、「作者」の方にとっては第1話から「選んだ」理由があるのでしょう。
「フリーレン」は1000年以上生きたエルフの魔法使いです。10年に渡って一緒に冒険をしてきた「勇者ヒンメル」と「僧侶ハイター」は人間です。「戦士アイゼン」はドワーフであり人間よりもはるかに長寿ですが、エルフに比べれば短く、フリーレンに比べれば人間と言うものを理解しているように思えます。それは後に「もう斧を振れるような歳じゃないんだ」という齢に至ってより実感する事になったのだろうな、とも。
そのフリーレンは冒険した10年を「短い間だったけどね。」と言ってしまう。10年は長いか短いかは結構人にもよるとは思います。だけど50年に一度でしかない半世紀流星を「50年後。もっと綺麗に見える場所知ってるから、案内するよ。」と事も無げに言ってしまう。さらに「100年くらいは中央諸国を巡る予定だから。まぁ、たまには顔をみせるよ。」と言ってヒンメルたちと別れます。この「たまには」という感覚が次の半世紀流星の時、即ち50年後なので、この第1話というのは、人間という短い寿命に由来する感覚と、「エルフ」というはるかに長い寿命に由来する、「フリーレン」の持っている意識の感覚の違いが徹底的に描かれています。
この事の意味を敏感に察してしまうのがヒンメルです。「人間」であるヒンメルは将来自身が死んだ後も、「エルフ」であるフリーレンの人生はその数倍以上は長いであろう事が容易に想像できるからです。だから彼女を引き留める事が出来なかった。それはまだ若いうちに亡くなる事となってしまって、現世に残る夫(妻)に「早く再婚しろ(して)」と相手を思いやる心境に相通ずるかもしれません、その本心はともかく。
さて、星座之巻 第三帖
地上人には時間が考えられるなれど、神界には時間が無く、神も霊人も時間は知らないのであるぞ。
というのは、この感覚の違いに似ていると思います。神界が存在するのであれば、そこは私たちの世界でいう物質や空間、時間等に起因しない世界であると思われるので、「神も霊人も時間は知らないので」あり、それに由来するであろう考え方の違いというのが、本日のテーマです。
磐戸の巻 第七帖
人民のイクサや天災ばかりで、今度の岩戸ひらくと思っていたら大きな間違いだぞ、
戦や天災で埒あくようなチョロコイことでないぞ、
あいた口ふさがらんことになって来るのだから、
早うミタマ磨いて恐いもの無いようになっておってくれよ、
肉体の恐さではないぞ、タマの恐さだぞ、タマの戦や禍は見当取れまいがな、
真通理(祀り) 第一と申すのだ、神のミコトに聞けよ、
それにはどうしてもミタマ磨いて神かかれるようにならねばならんのだ。
神かかりと申しても そこらにござる天狗やキツネやタヌキつきではないぞ。
まことの神かかりであるぞ。
右行く人、左行く人、咎めるでないぞ。
世界のことは皆、己の心に映って心だけのことよりできんのだぞ、この道理わかったか、
この道はマナカ(真中)行く道とくどく申してあること忘れるなよ、
今までのような宗教や教えの集団は潰れてしまうぞ、神が潰すのではないぞ、
自分で潰れるのだぞ、
早うこの神示、魂にしてマコトの道に生きてくれよ、
俳句は俳句と申してあるが、天理は天理、金光は金光だけの教えであるぞ。
この神の申すこと、天のミチぞ、地のミチぞ、人のミチだぞ。
今度の岩戸ひらきの大望済んだとて、すぐに良いことばかりはないのだぞ、
二度とないことであるから臣民では見当取れんから、肚の底から改心して、
素直に、神の申す通りにするのが何より結構なことだぞ。
昭和20年1月7日(1945年 乙酉 皇紀2605年)
現世の人たちでさえ、これだけ違ったものの見方、感性の違いがあるのです。食べ物だって「メルクーアプリン」とか「ルフオムレツ」とか「酸っぱい葡萄」とか「酒」があればいいとか。でも「知ろうと思う」から、違いを受け入れようと思うからこそ人間関係は成り立つのです。それに同じ地域にいる人たちにはある一定の共通認識があるように思えます。それを常識と言い換えても良いです。だからそれでも一定の人間関係は成り立つ。だけどそれは外から入って来た人間には分からない。ましてやそれが好き勝手やっているだけの連中だったら理解しようとも思わない…まぁそれは次巻の話ですか。
返す返すもヒンメルとハイターは人間であり、アイゼンはドワーフ族、そしてフリーレンはエルフです。この異種族ごちゃ混ぜのパーティーが10年間もやって来れたのは、「クソみたいな思い出しかない」けど「楽しかった」事がまず一つ。その中にはお互いの価値観を知る機会があったから。その一つが原作第7話、アニメ第4話、タイトルは共通で「魂の眠る地」です。
アイゼン曰く「人は死んだら無に還る」、フリーレン曰く「死後の魂の観測ができないから、(天国の)実在を証明できないんだよね。」まぁおっしゃる通り…で、ヒンメルは「どっちでもいいと思うけどな。」と何となく言っているようにも。
で、ハイターは「実在しなかったとしても、あるべきだと思います。」「その方が都合がいいからです。必死に生きてきた人の行きつく先が無であっていいはずがありません。だったら天国で贅沢三昧していると思ったほうがいいじゃないですか。」と言うのです。ここでヒンメルは「確かに都合がいい。」と、同意から理解へと至ったように思います。フリーレンはヒンメルを見ながら「まぁそうかもね」、と感じたのかも知れません。…そしてアイゼンは「必死に生きてきた人の行きつく先が無であっていいはずが」ないという心からの納得をしたのではないかと思います。だからアイゼンは墓の前で手を合わせたのでしょう。
道中でお互いを理解するようなエピソード、いっぱいあったでしょう。でなければお互いに背中は預けられないでしょうから。
原作第2話「僧侶の嘘」、アニメ第2話「別に魔法じゃなくたって…」では、フリーレンはハイターからフェルンを弟子として託されます。
「友人から預かった子を死地に送るつもりはないよ。」と言って最初は断るフリーレンですが、ハイターから魔法書の解読の依頼と、その片手間にフェルンに魔法を教えてあげてほしいと頼まれたのでフリーレンはOKするのですが、実はこれはハイターの方便で、解読までにフェルンが一人前になれれば、フリーレンの足手まといにはならないだろうというハイターの「善意からの嘘」だったのです。方便についてはいずれ書く事になりますが、私にしても
「嘘をついてもいいのは、魔術師と芸術家、善意でやむを得ない場合と悪人に対してだけ。」
と思っています。そしてフリーレンも「善意からの嘘」をつくのです。フェルンの誕生日の為に。だけど当人「私はフェルンのこと何もわからない」と言いつつも、プレゼントが蝶の髪飾りだなんて、フェルンが「魔法を選んだ」理由って確か…?
フェルンも「蒼月草の花」探しの頃から伝えることの大切さを知って、一巻の終わりまでには(大分)ストレートな性格が露わになっていくのですけど、結果的にお互いの理解へとつながっています。これは物語を組み立てていくとそうならざるを得ないのでしょうけど、フリーレンは実践による体感で理解を求めるタイプ、フェルンは言葉で直接伝える事で理解を求めるタイプといったとこでしょうか。何かを思い出さないでしょうか?真の理解とは、その両方が必要になりますし、そこから導き出される結論が信念になるのです。
ところでこういう話って、パッと出て来るようなものじゃないと思うんです。作者の方の人生哲学を見ているような気もするし、自分たちとは異なる存在がどのように考え、行動するのか?と言う考察の積み重ねがあったように見えるのです。同じ日本人であっても考え方が違うように異なる民族であれば殊更違う、では種族が異なれば?というように。
ウチの娘たちに至っては、その時々の状況から想像しなくてはいけないレベルで違うのです。それでは神様は?あるいは…。
たまには私もこんな事を考えていたりするのです。

