何事も喜びからぞ。
結果からまた喜び生まれるぞ。
この道理わかれば何事もありやか。
昭和27年4月11日(1952年 皇紀2612年 壬辰)
ー
今回はネタバレ注意です
ー
今月から第二期も始まる「葬送のフリーレン」。更新停止中に書いてたレビュー、アップするか…なんて思っていたのですが、このブログのネーミングの由来となっている「それでも町は廻っている」を紹介していなかった事実に気が付く…。旧旧「第零話」、旧「第零話」でも書いた事なのに…。という事で急遽、記事にしようと思います。が、やけに寒い…てか、窓の外、白い…雪降ってたのかよ…。(現在1月3日深夜)
探すの大変だった。読んだらちゃんと片付けとけよ、私が。(第十三巻だぶってた…)
日常系って言って間違いないのだろうけど、本作品は他と大きく異なるのが、作中の舞台が醸し出す雰囲気です。「それでも町は廻っている」(以下、それ町)の舞台になっている丸子商店街のモデルは、大田区の下丸子です。ちょっと離れているけど勝海舟のお墓参りもしたいので、そのうち聖地巡礼に行く予定です。作品中には八百屋さんや魚屋さんがスーパーでは無く、独立した店舗として描かれております。
昔の私の近所の商店街も皆、こういう形態だったのです。うちの近所の肉屋で売っていた「叉焼」、あれから50年近く過ぎてもまだ味、覚えております。異なる食感、味付けの叉焼で「これもおいしい」というのはあったのですが、同系統の叉焼で「あの店の味」を超えるものを食べていないから。(フリーレンの話じゃないですよ)
小学校の頃、近くにチェーン店型のスーパー(今日のサイズ感で言うと小規模なのですが)が出来ました。すると当然、客は一気にそちら側に流れました。うちの一家だって例外では無かった。安いし、新鮮だし。それはチェーン店の強みでもある大量入荷による単価引き下げ、そして売れれば売れた分、また新鮮な食品が入荷出来ますし。すると、近所の商店街では店を閉める所が出てきました。今でいう所のシャッター街の始まりでした。そうして結構早い段階で、私はあの叉焼を食べられなくなった。
つまり過疎の原因を作っているのは、間違いなく私達だ。
酒屋の衰退については、二つの段階で訪れました。私の父は「ビール=キリン」っていう人で、瓶をケースで配達してもらっていました。私がコーヒーを飲むようになる前は、ファンタのオレンジとグレープ(母の分も)で、これも配達してもらっておりました。ところが小学校の時、母から「今後は(ファンタは)瓶からペットボトルになるから配達してもらうのは止める」と言われたのです。それは晴れた昼下がりの台所で言われた一言。カラーで覚えてる。私が何を言い返したのかも。
「石油輸入しているくらいなのにバカじゃないの?」当時小学生だった私に誰がこんな話までインストールしたのだろうか?と思うけど。
ビールも缶に切り替えた人が多かったのか、瓶置き場だった敷地はほどなくして駐車場に変わったが、酒は生鮮食料品ではないので、持ち家の酒屋は規模を縮小しながらも経営を続けられたのですが、法律の改正でそれは変わってしまいました。コンビニやスーパーでもたばこ、酒類の販売が認められるようになったからです。
あ、そういえば、「酒屋」の話あったじゃないですか!(第14巻/第110話「お姉さんといっしょ」

本作主人公の女子高生「嵐山歩鳥」の弟である猛は、「ゴルゴンの迷宮」というお菓子(のオマケ)の売っている所を探しに出かけたのですが、10分ほど後に、彼の別のクラスの友達である山本君が訪ねてきました。その目的はやはり「ゴルゴンの迷宮」。何だかんだあって歩鳥は、山本君と「ゴルゴンの迷宮」を探しに出かけました。ただ小学生の間で流行したものなので、ちょっとやちょっとじゃ見つからないわけです。そこで出てきたキーワードが「酒屋」。
おっと、随分本題にうまく戻せた気がするぞ。

第44話「ざっくばらん」なのに…↓

第45話「逢えない二人」では?!
尚、本作は基本的に読み切りがデフォルトで、その回でオチが付かない場合は次回もその話になっているものの、例えばその話の後日談が2年後に明かされていたりというのは、他の作品でも見られますが、(タイムライン的に)以前の話に戻ったり、かと思えば次の話は後の話だったりするのは、あまり見かけません。これは「時系列シャッフル」となっており、この点は日月神示にそっくりです。
紫金之巻 第三帖
伊豆幣帛を 都幣帛に結び 岩戸ひらきてし。
ウヨウヨしている霊かかりに まだ、だまされてござる人民多いのう、
何と申したらわかるのであるか、奇跡を求めたり、我よしのおかげを求めたり、
下級な動物のイレモノとなっているから、囚われているから、だまされるのじゃ、
霊媒の行いをよく見れば すぐわかるでないか。早う目覚めよ。
因縁とは申しながら、可哀想だからくどう申して聞かせているのであるぞ、
マコトの道にかえれよ、マコトとは 〇一二三四五六七八九十と申してあろう、
その裏は十九八七六五四三二一〇で、合わせて二十二であるぞ、
二二が真理と知らせてあろう、二二が富士(不二・普字)と申してあろうが、
まだわからんか。
昭和36年記述日不明(1961年 皇紀2621年 辛丑)
富士(二二)の仕組みの「オチ」が、昭和36年の神示に出ていたりするくらい。だから別の記事書いてる時に「こんな神示あったの?」なんて良くある話です(だから肚に入っていないのだとあれほど…)。

第13話「それでも町は廻っている(前編)」では「天使」も出てくるのです。こういう所も…ダメ?
歩鳥が交通事故で死んでしまうこのエピソード、この先16巻まで続くというのに…。ちなみにアニメでは最終話「十二番地 それ町」で映像化されました。

第14話「それでも町は廻っている(後編)」。
歩鳥の後ろにいる人は案内係、本人に死という現実を実感させる、最も残酷で損な役回りなのですが、ここで歩鳥は実感する事になるのです。
「これからなんてもうないんだ」
これは私達にも突き付けられている言葉。いつかは誰もが死ぬ。そして自らの死のみならず、愛する人、家族、友人と二度と会えない事を実感する…だからかけがえが無い。愛する、という気持ちの根幹にあるのは多分「いつかは失う事になる」からでは無いのかと思うのです。
私には前世の記憶がありません。…否、多分ほとんどの人もそう言う。輪廻転生があったとしても自分の前世での愛する人、家族、友人たちが現世で存命だったとしても、その大切な記憶が無いであろう事は想像に難くありません。お互い記憶がないままに再会して縁を結んでいるかも知れない、でもそんなことがあるのかどうかも分からない。だからこそそれは「かけがえが無い」であり「事実上のたった一度の人生」であり「これからなんてもうないんだ」と思うのです。このテーマについては「銀河鉄道999」のレビューの時にもう一度書きます。
はぁ~重くしてしまった…。
連載中ずっと廻っている構造に見えたこの物語も、単行本最終第16巻のエピローグで決着します。それは歩鳥が高校を卒業した後の話。
何かレビュー言うよりは、単なる紹介記事だけのような気もしますが、これにて。

