人間に自由はないのであるぞ。真の自由は、大神にのみあるものぞ。
大神の自由の一部が御喜びと共に流れ入り、神に流れ入った自由は、
また神の喜びとなって人間に流れ入るから、
人間自身は自由を持っていると信じるのであるぞ。
本質的には自由はないのであるぞ。人間には自由の影があり、反影あるのだ。
それを人間は自由と心得ているのであるぞ。
自由の反影あるから、悪にも善にも、陽にも陰にも為し得るのであるぞ。
また進歩、弥栄するのであるぞ。
悪自由を、人間は自由と心得ているが、
それは自由ではなく、自分自身を首くくるものぞ。
善自由こそ真の自由であるぞ。自由は神から流れ出ると申してあろう。
他の世界と交流するは、他の世界に住む人間を通じてするのであるぞ。
世界とは人間のことでもあるぞ。人間が世界であるぞ。よく心得なされよ。
+(陽)と-(陰)と◯とゝであるぞ。+の陰には-があり、-の陰には+がある。
その和の状態が◯でありゝ(いのち)するのであるぞ。
+は+のみでは力ないぞ。-は-だけでは力ないぞ。+と-とだけでも動きないぞ。
生命の喜びないのであるぞ。よく心得よ。
◯があって+-があり、+-がありゝがあって和があるのであるぞ。
ここの道理よく得心、合点せよ。
+は人間にとって直接の喜びでない。
が直々の喜びぞ。
-も直接ではなく、ΘФが直接の喜びであり、
その二つが和しゝして嬉し嬉しと弥栄えるのであるぞ。
天地の中間を中界と申すぞ。天の息吹きと地の息吹きの中間ぞ。
天国へ行くも、行かんのも まず落ちつく、死後の始めての世界であるぞ。
昭和25年1月2日(1950年 庚寅 皇紀2610年)
まじ、記号は難儀する…。
これも更新停止中に書いてた記事なのですが、連休になると聞いた時、なぜか真っ先に思いついたのが、この記事をアップする事でした。でも読み返してみると、結構加筆修正が必要になりそう…、とグズグズした挙句、こんなタイミングに。
メディア掲載 グローバルエコノミー 2025.10.21 リベラル後の「自由主義」
ttps://cigs.canon/article/20251021_9331.html
この記事の冒頭にあるポイント、特に「市場の倫理と統治の倫理を問い直す時期」という点は同意なのですが、書かれている話と私の解釈では相違点があります。例えば
トランプ大統領の介入政策は、リベラリズムによって拡大した「市場の倫理」の領域に、伝統的な「統治の倫理」を復活させて押し返そうとする行動だといえる。
というのは全くの逆で、
トランプの介入政策は、世界秩序の基盤である国家の「統治の倫理」の領域に、リベラリズムによって肥大した「市場の倫理」を持ち出して世界中を脅迫する行動だといえる。
というのが正しいと思います。要は「商売の取引の基本」、「下請けや労働者を安くこき使うノウハウ」、「カツアゲ」…物は言いようです。
でもそんな事は昔からあって、プラザ合意成立のためのスーパー301条のちらつかせだの、日本に戦争を起こさせるためのハルノートだのって。トランプのポピュリズムというのは、あくまで「選挙詐欺」であって、ただのネオコン政権です。
もう一か所
20世紀前半の全体主義や共産主義の運動も、「市場の倫理」の領域を押し戻して「統治の倫理」の領域を再拡大しようとする運動だったとも解釈できる。ポピュリズムと全体主義の親和性は、こうした共通性からも理解できる。
ではなく、
所詮、資本主義も共産主義の正体とは、「市場の倫理」の領域が「統治の倫理」の領域を押しつぶして既存の国家を乗っ取ることだったと解釈できる。リベラリズムと全体主義の親和性は、こうした共通性からも理解できる。
というのが正論じゃないの?ワクチンパスポートで証明されたでしょ?デジタルIDは?資本家の寝言が法制化されるとか、全体主義と何が違うんですか?選挙で選ばれたわけでも無いのに。日本でよかったね。まだそこまで酷くないから。
大体、資本論を書いたカール・マルクスは定職もないのに、文献学者も雇っていた一方で、資金の出所は不明。スポンサー=資本家を批判していた立場であるにもかかわらず。共産党は政権の批判していれば信者が金を出す。それでいて連中のカースト構造は数十年変わらない。
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自由
ttps://ja.wikipedia.org/wiki/自由
幕末か明治初期か忘れたけど、留学生として海外に渡った日本人は見るもの何もかもが新鮮で、何でも学んだが、どうしても理解できないものがあったとか…「自由って何ですか?」(ソース元忘れました)と。
この留学生が英語の「Freedom 」と「Liberty 」のどちらを使ったのか分かりません。ま、Wikiによれば、
一方でリバティはラテン語「liber」の「社会的・政治的に制約されていない」「負債を負っていない」という意味から、英語の「liberal(形:自由な)」や「liberty(名:自由)」の語源となった。自由主義の「liberalism」はこれによる。また「liberate(動:解放する)」、「liberator(名:解放者)」、「liberation(名:解放)」も同じ語源による
だそうなので、道理で「リベラルはクソ」だらけなわけだ。政治信条の話では無いのですよ。思考回路の話をしているのです。冒頭で「市場の倫理」と「統治の倫理」の話を出したのは、商売人、資本家とは「社会的・政治的に逃れようとする」連中ですが、その一方で豊富な資金力と票田によって、政治家=統治者を「社会的・政治的に支配したがる」のが今日の社会であるからなのです。
下にある「東洋における自由」の項で
中国では本来、「自由」は、好き勝手や自由気ままという意味で用いられた。日本も当初は、二条河原の落書の「自由出家」や「自由狼藉」のように、中国と同じ用法で用いられていた。 福沢諭吉がリバティを訳するに際して、仏教用語より「自由」を選んだ。
前から思ってたけど、福沢諭吉やっぱりクソだな。
福澤諭吉
ttps://ja.wikipedia.org/wiki/福澤諭吉
「朝鮮における清の影響力を排除することで日本が朝鮮の近代化改革を指導する必要があると考え、日本国内で最も強硬な対清主戦論者となっていった」
吉田松陰
ttps://ja.wikipedia.org/wiki/吉田松陰
『幽囚録』で「今急武備を修め、艦略具はり礟略足らば、則ち宜しく蝦夷を開拓して諸侯を封建し、間に乗じて加摸察加(カムチャッカ)・隩都加(オホーツク)を奪ひ、琉球に諭し、朝覲会同すること内諸侯と比しからめ朝鮮を責めて質を納れ貢を奉じ、古の盛時の如くにし、北は満州の地を割き、南は台湾、呂宋(ルソン)諸島を収め、進取の勢を漸示すべし」と記し、北海道(当時の蝦夷地)の開拓、琉球王国(現在の沖縄県。当時は半独立国であった)の日本領化、李氏朝鮮の日本への属国化、そして当時は清領だった満洲や台湾・「スペイン領東インド」と呼ばれていたフィリピン・ロシア帝国領のカムチャツカ半島やオホーツク海沿岸という太平洋北東部沿岸からユーラシア大陸内陸部にかけての領有を主張した。
大本神諭 年月日不明
至仁至愛の神の御出ましに御成なさる時節が参りて大国常立尊が出口の手で書き知らして置いた世が迫りて来たから、世界中の人民が改心を致さねば、この世では最う一寸も先へは行けず、後へ戻ることも出来んぞよ。
この世の来ることを明治二十五年から今につづいて知してをるのにチットモ聞入れが無いが、国同士の人の殺し合いといふやうな斯んな約らん事はないぞよ。
一人の人民でも神からは大切であるのに屈強ざかりの人民が皆無くなりて老人や小児ばかり残して前後を構はずのやりかたであるぞよ。こんな大きな天地の罪を犯してまだ人の国まで取らうと致してをるのは向先きの見えぬ悪魔の所作であるから、何の国が仲裁に出ても天地の大神の御許しのなき事にはいつまでも埒は明かぬぞよ。出かけた船であるから、どちらの船も後へ引く事もならず、進む事も出来ず、まことの仲裁もはいらず、つまらんことが出来るから、外国の守護神に長らくの間気が付けてありたぞよ。
あまり我が強いとしくじるぞよと何時も筆先で気が往けてあるぞよ。
何国にも負けん強い国で在ると思ふて我よしのやりかたで頑張ると為損ひが出来るからと申してくどう知らしてありたが今の有様は其通りではないか。これからは神代の世になるから今までの様に余り頑張ると我れの思ふやうには此の先は一寸も行かんぞよ。我の強い守護神ほど思はくは立ちはせんぞよ。
これまでの心を全然入れ替て了ふて天と地との元を創造た太元の神へお詫を致さねば、我の一力で行りて居ると思ふのが大間違であるぞよ。何事も皆神からの事であるから取り違いをいたすなよと先に気を往けてあろうがな。
我一力で仕て居ると思ふて居ることを霊魂の性来因縁だけの事を天地の神からさせられて居るのであると云ふ事が判然とわかる時代が回りて来たので在るから、これ迄の悪の守護神のやりかたも九分九厘まではトントン拍子に思ふやうに来たなれどモウ九分九厘で悪のみたまのやりかたは輪止りとなるのが今の事であるぞよ。今までは悪のみたまの覇の利く時節でありたぞよ。是が暗りの世でありたぞよ。
この先は学や智恵や仏では国は建たんぞよ。一日も早く往生いたさんと世界の物事が遅ておるから筆先でいつも同じ事を気を付けるぞよ。向ふの国の有様は筆先どうりになりて来てをるから日本の国の守護神に早く判らんと立替が十二年遅くなりてをるから、何かの事の実地が始まると、まだまだ世界には烈しき事が来るぞよと申して在るが一度申したことは違ゐはせんぞよ。世の元から神は能く判りておるので在るから向ふの国に彼れだけの事があるのに日本の人民は我さへ善けら国はどうなりても構はぬとは全然獣ものであるぞよ。神の直々の善き御魂を貰ふてをるからは末には神にも祭られる結構なものであり乍ら人は倒ようが仆れようが我さえ善けりゃ好いでは万物の長とは白されんぞよ。
世界は今が罪の借銭済であるから罪悪のひどい処ほどきびしき戒があるぞよと申して知してあるがこの世界は後にも前にも無いみせしめが出て来るぞよ。
用意をなされよ世の立替は新つの洗い替であるから、みろくの神の世に立返りて万古末代善一筋の世になる尊ひ事の初りであるから皆の人民の思ひが違ふてあるぞよ。あやべの大本は今では粗末なとこで在るなれど此の広い世界に外に亦とない大神の世の元の尊とひとこであるから全部判けて見せたならば余り大きな仕組であるから思ひが大違いで驚愕いたすぞよ。天地のビックリ箱が明くぞよと申してあるが此のビックリ箱が明いて手の掌をかやしたら何んな人でも驚愕いたして改心せずには居れん事になるが其処まで行かん中にチット判らんと約らん事があるぞよ。
この大本に日々かぶり付て居るものにチト早く判らんと何処からも是からは判る守護神が出て来るから、耻かしうなるぞよ。何事も、ちっと判りて居んと面目ない事が出来るぞよ。慢神と誤解が一番こわいぞよ。
たれに由らず慢神すると我の心が大変ゑらい様に思へて、人から見て居ると鼻が高うて見にくいぞよ。
腹の中に誠さえありたなれば何んな事でも出来るなれど上から見てよくても心の中に誠が無いと実地の誠が成就いたさんぞよ。
古来、大陸への侵略思想は数えきれないほどありました。一方、近代に限って言うなら幽囚録を書いた吉田松陰と福澤諭吉の影響力は余りにも大きい。そして後に残した禍根も。
「自由」とは、好き勝手や自由気ままという意味であり、英訳すると「liberty」であり、その語源はラテン語「liber」の「社会的・政治的に制約されていない」「負債を負っていない」である
という認識だった事になります。実際、明治に入って以降は、(えせ)社会主義者、共産主義者共(という名のただのテロリスト)が跋扈するようになり、戦後の団塊世代が成人する頃には暴力革命に走る連中がピークになります。
そしてこうした連中が社会に入って、何食わぬ顔をしてリベラリズムを語りだし、ゆとり社会を始めて学力低下を引き起こし(私がいた高校の入試当時の偏差値から13も下がってたのは笑った、2010年代中盤でさえ)、体罰は目の敵のように晒上げられた一方、先生に対する暴力や生徒の生活態度については一切黙殺された、「マスゴミ」によって。女性の地位向上を喚き散らして「女性専用車両」「レディースデイ」に代表される「フェミニズム」というファシズム社会によって、痴漢冤罪詐欺が横行するようになった。これ、結婚率低下に加担してると思う。相手に何言われるか、分からない時代に成り果てたから、前世紀よりも確実に。
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「外国人の重要犯罪増」はミスリード 「不起訴率が右肩上がり」は誤り 参政党・吉川里奈衆院議員の街頭演説【ファクトチェック】
ttps://www.okinawatimes.co.jp/articles/-/1624023
今日「外国人犯罪」でググると、
「外国人の犯罪の増加は間違い」だとするマスゴミの主張ばっかり。
何がファクトチェックだ、( ゚д゚) 、ペッ
週刊女性PRIME ドンキホーテで相次ぐ外国人観光客のトラブル「未払い逃走」「会計前に食べる」運営が現状把握も打つ手なしか
ttps://www.jprime.jp/articles/-/38183?display=b
河川敷のバーベキューで迷惑行為…不法投棄が頻発 東京・奥多摩町
ttps://s.mxtv.jp/tokyomxplus/mx/article/202408221000/detail/
要は検挙されないからと言えます。もしくは日本人なら点数稼ぎで検挙される案件が、外国人なら即釈放。外国人がいなくなったら会社の経営に響く。だから経済界に支援された政治家が「国策」として、経済界はマスゴミ使ってでも「外国人差別するな」キャンペーンを張るのです。スポンサー特権もありますし。
サバクトビバッタ
ttps://ja.wikipedia.org/wiki/サバクトビバッタ
サバクトビバッタは、毎日自分の体重と同じ量の緑の植物を食べる(中略)さらにはバッタからの排泄物が食べ残した食物を腐らせる
結局、移民とはサバクトビバッタも同然、「日本に乞食か泥棒しに来た連中」です。あるいは街の明かりに引き寄せられた蛾とか。大体、この連中は太平洋戦争後の同じ年月を費やして「祖国」でさえ、日本の足元にすら近づけなかった。だから日本にたかりに来るのです。移民だらけに成り果てたEUの惨状を見れば解かりそうなものですが。
買い手である経済界にとっては、コスパの良い奴隷なので増やしたいのです。その反面、この連中の生活圏と被る人たちは、こいつらの素性を嫌というほど思い知る事となるのです。
ー
今や玄関を一歩出れば当たり前のように目に入る「歩きスマホしている害虫」共、あるいは混んでいる歩道を我が物顔で(逆走で)走り抜ける「チャリゴミ」共もですが、思考回路からして「好き勝手」であって、つまるとこ「移民」と同じ。
「自由の影があり、反影ある」というのはそういう事だと思うのです。他人の権利を平気で奪って恥じる事が無いのです。会社でも有休消化率が高い人と低い人がいて、その顔触れは毎年同じでしょう?それは有休消化率が高い人が他の人の権利を奪っているからです。みんなが権利を主張したら会社が機能しないので、誰かが生贄にならざるを得なくなるからです。このように、社会が力づくで「好き勝手」やっているから、陽が当たらない人がいる。陽が当たっているのは「他人の権利を平気で奪って恥じる事が無い奴」。陽が当たっているように錯覚しているのは「奴隷」を選んだ者。誠実であろうとする者は「生贄」か「沈黙」かを強制される世の中であり、それは「夜も同然」の世界と言えるのです。
後、数年は、ね。



























