2026年2月24日「天つ巻 第二十六帖」

天の日津久の神と申しても一柱ではないのだぞ、
臣民のお役所のようなものと心得よ、一柱でもあるのだぞ。
この方はオホカムツミの神とも現れるのだぞ、
時により所によってはオホカムツミの神として祀りてくれよ、
青人草の苦瀬直してやるぞ。
天明(岡本天明)は神示書かす御役であるぞ。

昭和19年9月11日(1944年 皇紀2604年 甲申)

大本事件後、天明は大本の関係者として就職口が全く見つからない、見つかっても、大本関係者とわかるとすぐにクビになる。(中略)家財道具を、あらかた質屋に入れても金が足りず、飢え死にするのを待つような状況の中、天明は、どうせ死ぬなら最後は好きな画を描いて死のうと考えた。(中略)天明は、来る日も来る日も家に籠もり、朝から晩まで桃太郎を描き続けた。一年のうちに、一万枚近くに及ぶ桃太郎を描いた。(中略)お伽話の桃太郎は,吉備国(岡山)が舞台だった。天明が生まれた玉島の岡本家は、備前一ノ宮・吉備津彦神社の氏子である。

岡本天明伝[日月神示]夜明けの御用(黒川柚月氏/著)121~122ページ

オオカムヅミ

ttps://ja.wikipedia.org/wiki/オオカムヅミ

『古事記』では黄泉の国の条に登場する。伊邪那岐命が、亡き妻の伊邪那美命を連れ戻そうと、死者の国である黄泉の国に赴くが、失敗して予母都色許売(よもつしこめ)や8柱の雷神、黄泉軍(よもついくさ)に追われる。地上との境にある黄泉比良坂(よもつひらさか)の麓まで逃げてきた時に、そこに生えていた桃の実を3個取って投げつけると、その霊力で雷神と黄泉軍は退散していった。この功績により桃の実は、伊邪那岐命から「意富加牟豆美命(おおかむづみのみこと)」の神名を授けられ、「汝、我を助けしが如く、葦原中津国に有らゆるうつくしき青人草の、苦しき瀬に落ちて、患(うれ)へ悩むとき、これを助くべし(お前が私を助けてくれたように、葦原の中津国(地上世界)のあらゆる生ある人々が、苦しみの激流に落ち、悩み悲しみ苦しむことがあったときには、これを助けてやってくれ。)」と命じられた。

もうここまで書けばお分かりでしょう。恐らく天明氏は、「神示書かす御役」として「青人草の苦瀬直して」もらったのでしょう。単にコピペしただけです何も書いていませんけど)

纒向遺跡

ttps://ja.wikipedia.org/wiki/纒向遺跡

南至投馬國、水行二十曰。官曰彌彌、副曰彌彌那利。可五萬餘戸。

(南へ投馬国に至る、水行二十日。官を彌彌(みみ。耳・美々か)と言い、副官を彌彌那利(みみなり。耳成・耳垂か)と言う。五万余戸ばかりか。)

南至邪馬壹國。女王之所都、水行十日、陸行一月。 官有伊支馬、次曰彌馬升、次曰彌馬獲支、次曰奴佳鞮。可七萬餘戸。

(南へ邪馬台国(邪馬壹国)に至る。女王によって都べられる(この都は動詞なので統べるの意味)所である。水行十日・陸行一月。官に伊支馬(いきま)があり、次を弥馬升(みましょう)と言い、次を弥馬獲支(みまかくき)と言い、次を奴佳鞮(なかてい)と言う。七万余戸ばかりか。)

崇神天皇

ttps://ja.wikipedia.org/wiki/崇神天皇

垂仁天皇

ttps://ja.wikipedia.org/wiki/垂仁天皇

垂仁天皇のwikiに、「先代の崇神天皇、次代の景行天皇と共に纒向遺跡付近に都したと伝えられる天皇の一人」と記述があります。纒向遺跡の「周辺」からは、「纒向編年」(纒向遺跡における土器の年代別分類)における「纒向1類」(西暦180年から210年)と推定される弥生土器が見つかっており、「西は山口県、東は神奈川県と広範囲の大量の外来品を含む土器。なお1つだけ鹿児島県の土器が発見されている。」という事です。下関の「関」とは、境界の地を意味するのでしょう。その反面、遺跡の中心部には弥生時代の集落は確認されていない事、太田微高地の平屋と高屋の住居跡と、辻地区の大型建物遺跡から、弥生時代から古墳時代への転換期の様相を示す遺跡と考えられているようです。

…それだけでは済まなかったのですけどね。

丁度ここに着いた時、山に隠れていた朝日が出てきたと同時に、この虹です。アイキャッチは一枚じゃ取り切れなかったのでパノラマ合成なのですが、WordPressの仕様上、両側が切れてしまっているのが残念…。

というわけで、もういっちょ。

…さて

Screenshot

一の鳥居から見える細い道を通ります。

やり直し。

…。

…気を取り直して参拝する事に。今回も写真撮っていないのですが、他に参拝している人もいたのでちょっと、というのが。ご無沙汰していた事をお詫び申し上げてまいりました。

本日の天明氏宅跡。

そして奥宮へ。これで心置きなくこれからもここに来れます。ほっとしました。

2026年2月14日「黄金の巻 第二十九帖」

二二の盗み合い、世の乱れ。
心して怪しいと思うことは、たとえ神の言葉と申しても一応は考えよ。
神の言葉でも裏表の見境なく唯に信じてはならん。審神者せよ。
薬、毒となることもあると申してあろうが。馬鹿正直、まことの道 見失うことあると申してあろうが。
道は易し、楽し。楽しくないのは道ではないぞ。奉仕ではないぞ。
世界に呼びかける前に日本に呼びかけよ。目醒まさねばならんのじゃ。それが順序と申すもの。
神示で知らせてあろうが。ここは種作るところ、種は人民で作れんぞ。
神の申すよう、神の息、いただいて下されよ。
天の道、地の道、天地の道あるぞ。人の道あるぞ。何も彼も道あるぞ。道に外れたもの外道じゃぞ。
道は一筋ぞ。二筋ぞ。三筋ぞ。曲がっているぞ。真っ直ぐであるぞ。
心得なされ。節分から
オーヒツキオーカミ)と現れるぞ。讃えまつれ。
三年の大ぐれ。

昭和24年11月27日(1949年 皇紀2609年 己丑)

その理由は、2024年に「麻賀多神社に御札を返してきた」からでした。それがこの「黄金の巻 第二十九帖」の「心して怪しいと思うことは、たとえ神の言葉と申しても一応は考えよ」という一節でした。ですからその時そうした事に対しては、今でも「後悔していない」といえます。

梅の巻 第二十一帖

身欲信心スコタンばかり、天津日嗣の御位は幾千代かけて変わらんぞ、
日の大神様、月の大神様、地の大神様、御血統弥栄弥栄ぞ。
日本の人民アフンとするぞ、皆それぞれのゆかりの集団にゝ入れよ、
神示ひふみ(一二三)となるぞ、
天明(岡本天明)は画家となれ、絵描いて皆にやれよ、弥栄となるぞ、やさかいやさか。
今度はキリスト教も仏教も何もかも生かさならんのぞ。
早くからこの方の元へ来ていても因縁あっても肝腎がわからんと後戻りばかりじゃ、
肝腎肝腎じゃ、
学もよいが、それはそれのようなものじゃぞ、
途中からの神は途中からの神、途中からの教えは途中からの教え、
今度の御用は元のキの道だぞ、世の元からの神でないとわからんぞ、できはせんぞ、
生まれ赤児の心とは途中からの心、教え、すっかり捨ててしまえということだぞ。

昭和21年12月14日(1946年 皇紀2606年 丙戌)

五葉之巻 第十五帖

今に大き呼吸もできんことになると知らせてあろうが、その時来たぞ、
岩戸がひらけると言うことは
【半分のところは天界となることじゃ、天界の半分は地となることじゃ】、
今の肉体、今の理念、今の宗教、今の科学のままでは岩戸は開けんぞ、
今の肉体のままでは、人民は生きて行けんぞ、
一度は仮死の状態にして魂も肉体も、半分のところは入れ変えて、
ミロクの世の人民として よみがえらす仕組み、心得なされよ、
神様でさえ、このことわからん御方あるぞ、大地も転位、天も転位するぞ。

昭和36年9月1日(1961年 皇紀2621年 辛丑)

五葉之巻 第十六帖

マコトでもって洗濯すれば霊化される、半霊半物質の世界に移行するのであるから、
半霊半物の肉体とならねばならん、今のやり方ではどうにもならなくなるぞ、
今の世は灰にするより他に方法のないところがたくさんあるぞ、
灰になる肉体であってはならん、原爆も水爆もビクともしない肉体となれるのであるぞ、
今の物質で作った何物にも影響されない新しき生命が生まれつつあるのぞ。
岩戸ひらきとはこのことであるぞ、
少しくらいは人民つらいであろうなれど勇んでやりて下されよ、大弥栄の仕組み。

昭和36年9月1日(1961年 皇紀2621年 辛丑)

第十五帖の「半分のところは天界となることじゃ、天界の半分は地となる」は、第十六帖の「半霊半物質の世界」に係ると思います。この両者の記述、戦時中の以下の神示に関連しているのかも知れません。

夜明けの巻 第十一帖

岩戸開きのはじめの幕 開いたばかりぞ。
今度はみづ逆さに戻るのだから、人民の力ばかりでは成就せんぞ。
奥の神界では済みているが、中の神界では今最中だぞ。
時待てと申してあろうが。人民 大変な取り違いしているぞ。
次の世の型 急ぐ急ぐ。

昭和20年8月6日(1945年 皇紀2605年 乙酉)

神示読まないで、智や学でやろうとて、何もかも九分九厘で終局(厘止まり)ぞ。
我が我がが取れたらわかって来るぞ。慢心恐ろしいぞ。

昭和20年8月7日(1945年 皇紀2605年 乙酉)

夜明けの巻 第十二帖

あら楽し、あなさやけ、元津御神の御光の、輝く御代ぞ近づけり。
岩戸開けたり野も山も、草の片葉も言止めて、大御光に寄り集う、誠の御代ぞ楽しけれ。
今一苦労二苦労、とことん苦労あるなれど、楽しき苦労ぞめでたけれ。
申、酉過ぎて戌の年、子の年 めでたけれ。
一二三の裏の御用する身魂も今に引き寄せるから、
その覚悟せよ。覚悟よいか。待ちに待ちにし秋来たぞ。

昭和20年8月7日(1945年 皇紀2605年 乙酉)

ひふみ、よいむなや、こともちろらね、しきる、ゆゐつわぬ、そおたはくめか、
うをえ、にさりへて、のます、あせえほれけ。

昭和20年8月8日(1945年 皇紀2605年 乙酉)

今日までの御教えは、悪を殺せば善ばかり、輝く御代が来るという、これが悪魔の御教えぞ、
この御教えに人民は、すっかりだまされ悪殺す、ことが正しきことなりと、信ぜしことの愚かさよ、
三千年の昔から、幾千万の人々が、悪を殺して人類の平和を求め願いしも、それははかなき水の泡、
悪殺しても殺しても、焼いても煮てもしゃぶっても、悪は益々増えるのみ、
悪殺すというそのことが、悪そのものと知らざるや、神の心は弥栄えぞ、
本来 悪も善もなし、ただ御光の栄ゆのみ、八股オロチも金毛も、ジャキも皆それ生ける神、
神の光の生みしもの、
悪抱きませ善も抱き、あななうところに御力の、輝く時ぞ来るなり、善活かさねば悪なるぞ、
善悪不二といいながら、悪と善とを区別して、導く教えぞ悪なるぞ、
ただ御光のその中に、喜び迎え善もなく、悪もあらざる天国ぞ、
皆一筋の大神の、働きなるぞ悪はなし、
世界一家の大業は、地の上ばかりでなどかなる、三千世界大和して、ただ御光に生きよかし、
生まれ赤児となりなりて、光の神の説き給う、誠の道を進めかし、マコトの道に弥栄えませ。

言答(岩戸)明けたる今日(8月15日終戦記念日)ぞめでたし、二の言答(岩戸)早う明けてよ

昭和22年8月15日(1947年 皇紀2607年 丁亥)

以上を踏まえて「半物質」という言葉だけとらえると、「プラズマ」を想像してしまうのですが、このままでは「半霊」を含んでいませんし、そもそも今の地球上では、プラズマの状態を維持出来ません。

プラズマ

ttps://ja.wikipedia.org/wiki/プラズマ

扶桑之巻 第四帖

ツミケガレ 今はあらじと はらい給えそ。

空白とは九八九であるぞ、八と九、九と八の境をひらくことが岩戸を開くことじゃ、
空白とはもっとも根本を為すもっとも力あることであるぞ。

昭和36年5月5日(1961年 皇紀2621年 辛丑)

「空白とはもっとも根本を為すもっとも力あること」というと、二つの意味があります。一つは「無」=「0」。私が「0=1=i=∞=1⁄∞」という全てを生み出した「0」の事です。その話を書いているのが、先ほどの「宇宙論と数霊かずたまについて」です。

もう一つが本神示の「空白」=「九八九」ですが、これを以下のように読み替えます。

因縁の身霊が生まれ変わり、死に変わりを経ている事は日月神示で明言されており、上の五葉之巻 第十五帖でも「魂も肉体も、半分のところは入れ変えて」とあります。一般的に生まれ変わりの際、前世の記憶が無い(と思うの)ですが、それ故に「失くす」「亡くす」事に対して、「悲しみ」「喪失感」「あわれ」「いとしさ」などの感情を覚えてきたと思うのです。それは私が言うまでも無く、日本人はその傾向が高いと言えますし、残してきた文化がその事を証明しています。

現在、私にも家族がいます。ネコですけど。これが意味する所は…。

銀河鉄道999 (アニメ)

ttps://ja.wikipedia.org/wiki/銀河鉄道999_(アニメ)

漫画版か、TV版か、劇場版か、というのはあるんですけど、私はTV版の第一話から見ていた事から、最初の劇場版の鉄郎のデザイン変更に違和感を感じたものの、見終わってみると大好きな作品になりました。まだ少年キングを手軽に買えるほどの年齢では無かったので、漫画版を見たのは、単行本が発売されて友人が買ったのを見せてもらってからです。公開は1979年8月4日だったのですが、冬休みに再度劇場公開された際、母親に連れられて見に行きました。面白いのは、1981年公開のさよなら銀河鉄道999 アンドロメダ終着駅もそうだったのですが、そのどちらも母親が「見に行こう」と言ってきたのです。そんな母が好きだったのは、安全地帯の「ワインレッドの心」はまだ分かるのですが、ある日の昼下がりに、Queensrÿcheの「Take Hold of the Flame」聴いてたら、洗濯物取り込んでいた母がいきなり「ダビングして」と言ってきたのは今も謎。

2026年1月11日「星座之巻 第三帖」において「葬送のフリーレン」のレビューをしましたが、フリーレンはヒンメルが死んで埋葬される瞬間まで、「人が死ぬ」という事の意味を理解していなかったのでしょう。それまでのフリーレンは、「人間はエルフより先に死ぬという、現象としての死についての理解でしか無かった」のではないかと思うのです。それは師匠であるフランメの死に立ち会っているにも関わらずでした(ただ、その事を思い出すのが辛そうな描写が後の話で出てきます)。それがたった十年という、彼女にしてみれば短い時間の付き合いでしかなかったヒンメルに対して涙を流したのは、それだけかけがえのない日々だったからこそ。

星座之巻 第三帖

時、時、と申してあるが、時間では無いぞ。神、幽身にも聞かせているのぞ。
地上人には時間が考えられるなれど、神界には時間が無く、神も霊人も時間は知らないのであるぞ。
ただ喜びがあるのみぞ。
神界で時間と申すのは、ものの連続と変化、状態の弥栄のことであるぞ。
トキ待てよ。トキ違えるで無いぞ。
地上人の時間と区別して考えねばこの神示は解らんぞ。

昭和36年5月10日(1961年 辛丑 皇紀2621年)

「君の名は。」は正にそれで、正確には生まれ変わったわけでは無いのかもしれないけど、世界線は変更され、記憶を失ったにもかかわらず、相手を求めあっているのです。

では、永遠にも等しい寿命の持ち主に、人と同じような感情、考え方は芽生えるでしょうか?フリーレンのエルフ族は、人としての感情、特に恋愛感情や生殖本能に乏しく、魔族は人を食べるために「言葉」で人を欺くようになった、スリーナインの機械化人たちは、人を燃料、部品、あるいは狩猟の戦果として「剝製にして飾る」ようになった。これらは人が考えた物語の設定上の話で極端過ぎるかも知れない。

碧玉之巻 第十帖

岩戸閉めの始めはナギ(伊邪那岐命)ナミ(伊邪那美命)の命の時であるぞ、
ナミの神が火の神を生んで黄泉国に入られたのが、そもそもであるぞ、
十の卵を八つ生んで二つ残して行かれたのであるぞ、
十二の卵を十生んだことにもなるのであるぞ、
五つの卵を四つ生んだとも言えるのであるぞ、
すべて神界のこと、
霊界のことは、現界から見れば妙なことであるなれど、
それでちゃんと道にはまっているのであるぞ。
一ヒネリしてあるのじゃ、
天と地との間に大きなレンズがあると思えば段々にわかって来るぞ。
夫神、妻神、別れ別れになったから、一方的となったから、岩戸が閉められたのである道理、
わかるであろうがな。
その後、独り神となられた夫神が三神をはじめ、色々なものをお生みになったのであるが、
それが一方的であることは申すまでもないことであろう、
妻神も同様、黄泉大神となられて、黄泉国のすべてを生み育て給うたのであるぞ、
この夫婦神が、時めぐり来て、千引きの岩戸をひらかれて相抱き給う時節来たのであるぞ、
うれしうれしの時代となって来たのであるぞ。
同じ名の神が至るところに現れて来るのだぞ、
名は同じでも、はたらきは逆なのであるぞ、
この二つがそろって、三つとなるのぞ、
三が道ぞと知らせてあろうがな。
時来たりなば この千引きの岩戸を倶にひらかんと申してあろうがな。

次の岩戸閉めは天照大神の時ぞ、
大神はまだ岩戸の中にましますのぞ、
ダマシタ岩戸からはダマシタ神がお出ましぞと知らせてあろう。
いよいよとなってマコトの天照大神、天照皇大神、日の大神、そろってお出まし近くなって来たぞ。

次の岩戸閉めは素盞鳴命にすべての罪を着せてネの国に追いやった時であるぞ、
素盞鳴命は天下を治しめす御役の神であるぞ。
天ヶ下は重きものが積もって固まったものであるからツミと見えるのであって、
よろずの天の神々が積もる(と言う)ツミ(積)をよく理解せずして罪神と誤ってしまったので、
これが正しく岩戸閉めであったぞ、
命をアラブル神なりと申して伝えているなれど、アラブル神とは粗暴な神ではないぞ、
あばれ廻り、こわし廻る神ではないぞ、
アラフル(現生る)神であるぞ、
天ヶ下、大国土を守り育て給う神であるぞ、
取り違いしていて申し訳あるまいがな。
このことよく理解できねば、今度の大峠は越せんぞ。
絶対の御力を発揮し給う、ナギ・ナミ両神が、
天ヶ下を治らす御役目を命じられてお生みなされた尊き御神であるぞ。
素盞鳴の命にも二通りあるぞ。
一神で生み給える御神と、夫婦呼吸を合わせて生み給える御神と二通りあるぞ、
間違えてはならんことぞ。

神武天皇の岩戸閉めは、御自ら人皇を名乗り給うより他に道なきまでの御働きをなされたからであるぞ。
神の世から人の世への移り変わりの事柄を、
一応、岩戸に隠して神ヤマトイワレ彦命として、人皇として立たれたのであるから、
大きな岩戸閉めの一つであるぞ。

仏教の渡来までは、わずかながらもマコトの神道の光が差していたのであるなれど、
仏教と共に仏魔渡って来て完全に岩戸が閉められて、
クラヤミの世となったのであるぞ、
その後はもう乱れ放題、やり放題の世となったのであるぞ、
これが五度目の大き岩戸閉めであるぞ。

昭和36年5月6日(1961年 辛丑 皇紀2621年)

従って、「この夫婦神が、時めぐり来て、千引きの岩戸をひらかれて相抱き給う時節来た」というのは、やっぱり「筋が違う」と思うのです。「理」を曲げているとも言えます。「半霊半物質の世界」、「〇∞〇」は違うのでしょうか?

2026年1月11日「星座之巻 第三帖」

時、時、と申してあるが、時間では無いぞ。神、幽身にも聞かせているのぞ。
地上人には時間が考えられるなれど、神界には時間が無く、神も霊人も時間は知らないのであるぞ。
ただ喜びがあるのみぞ。
神界で時間と申すのは、ものの連続と変化、状態の弥栄のことであるぞ。
トキ待てよ。トキ違えるで無いぞ。
地上人の時間と区別して考えねばこの神示は解らんぞ。

昭和36年5月10日(1961年 辛丑 皇紀2621年)

11、12日と連休になりました。早々に記事更新しろ、ってせっつかれて煽られているのでしょうか?(←被害妄想)

本記事はブログ更新停止中に書いてた「葬送のフリーレン」のレビューです。2026年1月16日から待望のアニメ第二期がオンエアされますが、第一期のレビューが間に合って良かったです。されど私は夜勤なので、第二期を見るのはブルーレイ発売までお預けなのです(ノд・。) グスン

ドラゴンクエストが発売された頃、友人は(当時の日本にとっては)、この新しいジャンルのゲームに夢中になりましたが、当時の私はそれに飛びつこうとさえ思いませんでした。それはひねくれていたからというわけでは決してなく、単に優先順位が音楽をやったからであり、一方で富士通のFM-7を持っていた事もあって、ファミコンも持ってはおらず、あのコントローラーでゲームする位ならアーケードでやればいいや、という程度の話です。

その後、ほぼ同時期に発売されたRPGの大作とされる作品をプレイしたのですが、

最近Youtube見ていると、右側のおすすめ?に「葬送のフリーレン」が出て来るようになりました。今や漫画、アニメ、ゲーム等、至る所に「異世界」もの、「RPG世界」ものが扱われている世の中で、最初は「またか」位に思っていたのですが、たまたま見ていたショート動画をスクロールして、目の当たりにした本作品の動画から見た印象だけでも「違った」。

因みにブルーレイ第1巻収録の第1話から第4話までは、コミックスの第1巻に一致しているので(正確には第2巻第8話)、未読未視聴の方はセットで買うと良いかもです。

本編に行く前に音楽の方から…

夜には国を挙げての祝賀会が行われているのですが、この楽器は恐らく「リュート(Lute)」。作中の音楽の第一印象としては、ヨーロッパの大西洋側と東欧っぽい雰囲気があるように思いましたが、作曲者の音楽ルーツがケルティック音楽にあって、今回ハンガリーのオーケストラを使ったそうで。(想像していたより北側でした…)古楽器が多用されている事で、「音色の地域性」からくる先入観だったのかも知れません。いずれにせよ、雰囲気がとても大切にされている作品だと思います。

ー ー ー

「フリーレン」は1000年以上生きたエルフの魔法使いです。10年に渡って一緒に冒険をしてきた「勇者ヒンメル」と「僧侶ハイター」は人間です。「戦士アイゼン」はドワーフであり人間よりもはるかに長寿ですが、エルフに比べれば短く、フリーレンに比べれば人間と言うものを理解しているように思えます。それは後に「もう斧を振れるような歳じゃないんだ」という齢に至ってより実感する事になったのだろうな、とも。

さて、星座之巻 第三帖

地上人には時間が考えられるなれど、神界には時間が無く、神も霊人も時間は知らないのであるぞ。

磐戸の巻 第七帖

人民のイクサや天災ばかりで、今度の岩戸ひらくと思っていたら大きな間違いだぞ、
戦や天災で埒あくようなチョロコイことでないぞ、
あいた口ふさがらんことになって来るのだから、
早うミタマ磨いて恐いもの無いようになっておってくれよ、
肉体の恐さではないぞ、タマの恐さだぞ、タマの戦や禍は見当取れまいがな、
真通理(祀り) 第一と申すのだ、神のミコトに聞けよ、
それにはどうしてもミタマ磨いて神かかれるようにならねばならんのだ。
神かかりと申しても そこらにござる天狗やキツネやタヌキつきではないぞ。
まことの神かかりであるぞ。
右行く人、左行く人、咎めるでないぞ。
世界のことは皆、己の心に映って心だけのことよりできんのだぞ、この道理わかったか、
この道はマナカ(真中)行く道とくどく申してあること忘れるなよ、
今までのような宗教や教えの集団は潰れてしまうぞ、神が潰すのではないぞ、
自分で潰れるのだぞ、
早うこの神示、魂にしてマコトの道に生きてくれよ、
俳句は俳句と申してあるが、天理は天理、金光は金光だけの教えであるぞ。
この神の申すこと、天のミチぞ、地のミチぞ、人のミチだぞ。
今度の岩戸ひらきの大望済んだとて、すぐに良いことばかりはないのだぞ、
二度とないことであるから臣民では見当取れんから、肚の底から改心して、
素直に、神の申す通りにするのが何より結構なことだぞ。

昭和20年1月7日(1945年 乙酉 皇紀2605年)

返す返すもヒンメルとハイターは人間であり、アイゼンはドワーフ族、そしてフリーレンはエルフです。この異種族ごちゃ混ぜのパーティーが10年間もやって来れたのは、「クソみたいな思い出しかない」けど「楽しかった」事がまず一つ。その中にはお互いの価値観を知る機会があったから。その一つが原作第7話、アニメ第4話、タイトルは共通で「魂の眠る地」です。

アイゼン曰く「人は死んだら無に還る」、フリーレン曰く「死後の魂の観測ができないから、(天国の)実在を証明できないんだよね。」まぁおっしゃる通り…で、ヒンメルは「どっちでもいいと思うけどな。」と何となく言っているようにも。

道中でお互いを理解するようなエピソード、いっぱいあったでしょう。でなければお互いに背中は預けられないでしょうから。

「嘘をついてもいいのは、魔術師マジシャンと芸術家、善意でやむを得ない場合と悪人に対してだけ。」

ところでこういう話って、パッと出て来るようなものじゃないと思うんです。作者の方の人生哲学を見ているような気もするし、自分たちとは異なる存在がどのように考え、行動するのか?と言う考察の積み重ねがあったように見えるのです。同じ日本人であっても考え方が違うように異なる民族であれば殊更違う、では種族が異なれば?というように。

たまには私もこんな事を考えていたりするのです。