2026年2月1日「扶桑之巻 第一帖」

東は扶桑(二三)なり、ゝ◯(日)出づる秋は来にけり。

この巻扶桑(二三)の巻、
続く六の巻を合わせて七の巻一百四十四帖の黙示を五十黙示と申せよ。

イシもの言うぞと申してあったが、イセにはモノ言うイシ(石)があると昔から知らせてあろうがな、
五の一四(石)がもの言うのであるぞ、開けば五十となり、五百となり、五千となる。
握れば元の五となる、五本の指の様に一と四であるぞ、
この方を五千の山にまつれと申してあろうが、これが五千連ぞ、五十連ぞ、
わかったか、五十連 世に出るぞ。
天に神の座があるように、地には人民の座があるぞ、天にも人民の座があるぞ、地に神の座があるぞ。
七の印と申してあるぞ、七とはモノのなることぞ、
天は三であり、地は四であると今までは説かせてあったなれど
いよいよ時節到来して、天の数二百十六、地の数一百四十四となりなり、
伊邪那岐三となり伊邪那美二となりなりて、ミトノマグワイして五となるのであるぞ、
五は三百六十であるぞ、天の中の元のあり方であるぞ、
七の燈台は十の燈台となり出づる時となったぞ、
天は数ぞと申してあろう、地は意露波であるぞ。
わからん者が上に立つこととなるぞ、大グレン目の前、
日本のみのことではないぞ、世界中のことであるぞ、
今度は三千世界が変わるのであるから今までのようなタテカエではないのであるぞ。
何もかも鏡に映るのであるぞ。鏡が御神体であるぞ。何も映らん御神体のカガミは何もならんぞ。

昭和36年5月5日(1961年 皇紀2621年 辛丑)

ttps://ja.wikipedia.org/wiki/紙

「神代文字」という触れ込みの古文書(多分写本のはず)を見ていた時、「紙の伝来っていつだったっけ?」って思ったのがきっかけです。世界最古の紙は中国甘粛省の放馬灘で発掘された推定紀元前150年頃のものだとされております。西暦105年、蔡倫は文字の記録媒体としての紙の製造法を確立し、後漢の第4代皇帝、和帝に献上したそうです。日本への伝播は7世紀までに伝えられたとありますが、

遣隋使

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さてこの国書、紙でしょうか?木版だったのでしょうか?木版だったら遣隋使の功績は無かったでしょう。未開な蛮国に対しては膨大な朝貢を要求されて交渉もままならず。紙は当時の隋でも貴重な工業製品だったはず。それが未開な蛮国だと思っていた当時の日本にあったからこそ、遣隋使は成功したのだと思うのです。

魏晋南北朝時代

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三国志 (歴史書)

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先述の後漢が滅んでから隋が中国を再統一するまでの時代を(三国志で有名な)三国時代、西晋の再統一時代が31年間、西晋が滅び、439年の北魏による華北の再統一までを五胡十六国時代、その439年から589年の隋による南北統一までを南北朝時代とするそうです。

一方で、これらの戦乱から逃れてきた人々が弥生人や渡来人として日本に渡ってきたと考えられる

という記述です。私はこの時代に「紙の製造技術が伝来した」と思っております。

この時代は西晋の一時的な統一時代があったものの相次ぐ戦乱により人口の減少、民族の大移動が起こった。特に五胡十六国時代以降、多くの異民族の介入の起こった中原を初めとする北方は中国語にも劇的な変化をもたらした。西晋以前の上古中国語は八王の乱以降、介入した異民族に支配交代の度、支配した異民族に都合の良い発音に変化し、上古音にみられた sl-, pl-, kl-, gn-等の複雑な重子音が消滅し単純化した。一方、古代漢民族が避難した南方のエリアは音節末子音が残り現代でも客家語や粤語、閩語、呉語などの南方方言に受け継がれている。隋による南北朝統一より初唐までに中国全土が中古音の中古中国語に変化した。

上代日本語

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中古日本語

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中世日本語

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万葉仮名

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上代特殊仮名遣

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藤原不比等

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漢字の読みには呉音と漢音(当時の中国語の音)がある。当時の日本で一般的に使われていた音読みは呉音であり、古事記・万葉集も呉音である(他の万葉仮名も)。だが、『日本書紀』では(呉音も用いられるが)主として漢音が用いられており、異例である。このことは既に本居宣長が指摘している。日本書紀中国人述作説の根拠の一つである。

(万葉仮名 呉音と漢音)

学術的観点からも、本居宣長の時代には「日本書紀中国人述作説」があったようで。

神代文字

ttps://ja.wikipedia.org/wiki/神代文字#cite_ref-19

神代巻口訣

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私は神代文字の存在に対しては、可能な限り中立の立場であろうとしておりますが、正直偽書とされているのが多いのも事実。そしてこれらの存在の否定説の根拠にあげられているのが「上代日本語」と五十音順の成立時期です。

漢字

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仮名 (文字)

ttps://ja.wikipedia.org/wiki/仮名_(文字)

五十音

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「漢文」は当然ながら中国語に基づいた書記法であり、音韻や構文の異なる日本語を書き記すものではなかった。この「漢文」を日本語として理解するために生まれたのが「漢文訓読」である。しかし地名や人名などの日本語の固有名詞は、漢字をそのまま使ってもその音を書き記すことはできない。そこで使われたのが漢字本来の意味を無視してその発音だけを利用し、日本語の音に当てる「借字」(しゃくじ)であった。これはたとえば漢字の「阿」が持つ本来の意味を無視して「ア」という音だけを抽出し、「阿」を日本語の「ア」として読ませるという方法である。この借字によって日本語が漢字で表記されるようになった。この表記法を俗に「万葉仮名」とも呼ぶ。

(仮名 (文字) 仮名の生まれる以前)

先述の太安万侶が「已に訓に因りて述ぶれば、詞は心に逮らず。全く音を以ちて連ぬれば、事の趣更に長し」嘆くのも当然だと言えます。

神代文字

ttps://ja.wikipedia.org/wiki/神代文字#cite_ref-19

神代巻口訣

ttps://ja.wikipedia.org/wiki/神代巻口訣

さて日本の事を扶桑国という場合があるとは言いますが、その扶桑国?という話になると、中国の古文書頼みになってしまうのは大変情けない話です。まず扶桑という言葉が最初に出てくるのは「山海経」ですが、詳細といえる話が出てくるのは、舒明天皇元年(629年 皇紀1289年)の時代の「梁書」まで待たなければなりません。

山海経

ttps://ja.wikipedia.org/wiki/山海経

梁書

ttps://ja.wikipedia.org/wiki/梁書

扶桑國、在昔未聞也。普通中、有道人稱自彼而至、其言元本尤悉、故扞録焉。(中略)扶桑國者、齊永元元年、其國有沙門慧深來至荊州、説云「扶桑在大漢國東二萬餘里、地在中国之東、其土多扶桑木、故以爲名。扶桑葉似桐、而初生如笋、國人食之、實如梨而赤、績其皮爲布以爲衣、亦以爲綿。作板屋。無城郭。有文字、以扶桑皮爲紙。無兵甲、不攻戦。其國法、有南北獄。若犯徑者入南獄、重罪者入北獄。有赦則赦南獄、不赦北獄。在北獄者、男女相配、生男八歳爲奴、生女九歳爲婢。犯罪之身、至死不出。貴人有罪、國乃大曾、坐罪人於坑、對之宴飮、分訣若死別焉。以灰繞之、其一重則一身屏退、二重則及子孫、三重則及七世。名國王爲乙祁、貴人第一者爲大對盧、第二者爲小對盧、第三者爲納咄沙。國王行有鼓角導從。其衣色随年改易、甲乙年青、丙丁年赤、戊己年黄、庚辛年白、壬癸年黒。有牛角甚長、以角載物、至勝二十斛。車有馬車、牛車。鹿車。國人養鹿、如中國畜牛。以乳爲酪。有桑梨、徑年不壊。多蒲桃。其地無鐡有銅、不貴金銀。市無租估。其婚姻、壻往女家門外作屋、農夕灑掃、徑年而女不悦、即驅之、相悦乃成婚。婚禮大低與中國同。親喪、七日不食、祖父母喪、五日不食、兄弟伯叔姑姉妹、三日不食。設靈爲神像、朝夕拜奠、不制縗絰。嗣王立、三年不視國事。其俗舊無佛法、宋大明二年、罽賓國嘗有比丘五人游行至其國、流通佛法、經像、教令出家、風俗遂改。」慧深又云「扶桑東千餘里有女國(以下略)

扶桑国の話は以前はなかったが、普通年間 (520年–527年)、扶桑国から来たと言う者の話を記す。(中略)
永元元年(499年)、扶桑国の僧慧深が荊州に来て言った。
「扶桑国は大漢国の東二万余里(8700km余)、中国の東方にある。「扶桑の木」が多いことからその名がある。扶桑の葉は桐に似て、生え始めはタケノコのようで、扶桑国人は食用にする。実は梨のようで赤く、その皮を績いで布にして衣類や綿にしたり屋根を葺いたりする。文字はあり、扶桑の皮でできた紙に書く。城郭はなく、兵士や武装はなく、戦争をしかけない。
南北2つの監獄があり、軽罪の者は南獄、重罪の者は北獄に入る。南獄には恩赦があるが北獄にはない。北獄では男女を番わせ、生まれた男児は8歳・女児は9歳で奴婢とし、罪人自身は一生出られない。貴人が有罪となれば、穴の中に座らせ、酒宴を開いて処刑し、その上に灰を撒く。初犯なら当人が責を受けるだけだが、再犯なら子と孫、三犯なら7世に及ぶ。
国王の名は乙祁。貴人(「祁貴人」が王の名の可能性あり)の第1位は大対盧、第2位は小対盧、第3位は納咄沙と呼ぶ。国王が行くときには鼓笛を従える。その衣の色は年により変わり、甲乙年は青、丙丁年は赤、戊己年は黄、庚辛年は白、壬癸年は黒である。
牛の角は非常に長く、20斛(540kg、1斛≒57kg)以上を運ぶ。馬車、牛車にくわえ、鹿車がある。中国人が牛を飼うように、扶桑国人は鹿を飼い、乳から乳製品を作る。桑、梨、フトモモがある。鉄はないが銅(青銅か)はあり、金銀はふんだんにある。市場では税金がかからない。
結婚するときは、婿が女の家へ行き、門外に建物を作り朝夕掃除する。女が喜ばなかったら取り壊し、喜べば成婚となる。結婚式は中国とほぼ同じである。
親の喪には7日間絶食する。祖父母は5日間、兄弟姉妹おじおばは3日間である。死者の霊を神像とし、朝夕拝む。(先王が死んで?)王の跡継ぎが立ったときには、3年間国事に関わらなかった。
かつては仏教はなかったが、大明2年(458年)、罽賓国(ガンダーラ・カシミール近辺)から5人の僧が来て仏典と仏像をもたらし出家を勧めたので、風俗は変化した」
また慧深はこうも言った。「扶桑の東1000余里(430km)に女国があり、(以下略、一部意訳)

『梁書』巻54 列伝第48 諸夷 海南 東夷 西北諸戎 扶桑國

古代への扉

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科学の目で見た 『魏志倭人伝』 の「短里」(永井正範氏)

ttp://nagai.sub.jp/ronbun_pdf/yamataikoku/tanli.pdf

ここで「短里」(1里75m~90m)という説が出てきます。これは古代史を研究している古田武彦氏が提唱しました。この説の裏付けについては以上のリンク先が詳しいです。そこでこの「短里」の計算法に基づいて「邪馬台国は何処だ?」というのを検証する事にしたのです。

魏志倭人伝

ttps://ja.wikipedia.org/wiki/魏志倭人伝

倭人在帶方東南大海之中、依山㠀爲國邑。舊百餘國、漢時有朝見者。今使譯所通三十國。從郡至倭、循海岸水行、歷韓國、乍南乍東、到其北岸狗邪韓國、七千餘里。

(倭人は帯方の東南大海の中に住み、山島に依って国邑をつくる。もとは百余国。漢のときに朝見する者があり、いま使者と通訳を接触させているのは三十国。郡から倭に至るには、海岸に従って水行し、馬韓を経て、あるいは南へ、あるいは東へ進み、その北岸の狗邪韓国に到着する。七千余里。)

始度一海千餘里、至對馬國、其大官曰卑狗、副曰卑奴母離、所居絶㠀、方可四百餘里。土地山險、多深林、道路如禽鹿徑。有千餘戸。無良田、食海物自活、乗船南北市糴。

始めて一海を渡ること千余里で、対馬国に至る。その大官を卑狗と言い、副官を卑奴母離と言う。居るところは絶遠の島で、四方は四百余里ばかりか。土地は山が険しく、深林が多く、道路は鳥や鹿の径のようだ。千余戸ある。良い田はなく、海産物を食べて自活し、船に乗って南北に行き、米を買うなどする。

海を渡って対馬国というので、ここからにします。確かに絶遠の島ではあります。当時で千余戸あったと。意外と人いますね。

又南渡一海千餘里、名曰瀚海、至一大國。官亦曰卑狗、副曰卑奴母離。方可三百里。多竹木叢林。有三千許家。差有田地、耕田猶不足食、亦南北市糴。

(また南に一海を渡ること千余里、瀚海(かんかい。大海・対馬海峡)という名である。一大国(一支・壱岐)に至る。官をまた卑狗と言い、副官を卑奴母離と言う。四方は三百里ばかりか。竹林・叢林が多く、三千あまりの家がある。やや田地があり、田を耕してもなお食べるには足らず、また南北に行き、米を買うなどする。)

一大国(一支・壱岐)ですが、対馬国での船出の位置と到着港が分からないのですが、ぐるっと廻ったのならこんなもんでしょうか。

又渡一海千餘里、至末廬國。有四千餘戸、濱山海居。草木茂盛、行不見前人。好捕魚鰒、水無深淺、皆沈没取之。

(また一海をわたること千余里で末廬国(まつろこく。松浦付近)に至る。四千余戸ある。山と海の間の海岸に居住する。草木が盛んに茂り、歩いてゆくと前の人が見えない。好んで魚やアワビを捕え、水は深くても浅くても、皆が潜って取る。)

距離なら唐津の方が適切だと思いますが、末廬国というには…。

伊万里にした場合です。「山と海の間の海岸に居住する。草木が盛んに茂り、歩いてゆくと前の人が見えない。好んで魚やアワビを捕え、水は深くても浅くても、皆が潜って取る」ようなトコだとこちらの方が適切でしょうか?

東南陸行五百里、到伊都國。官曰爾支、副曰泄謨觚・柄渠觚。有千餘戸。丗有王、皆統屬女王國。郡使往來常所駐。

(東南に陸行五百里で、伊都国(いとこく・いつこく。糸島付近)に到着する。官を爾支(にき。稲置・県主か)といい、副官を泄謨觚(せもこ。島子・妹子か)・柄渠觚(へくこ。彦子・日桙か)と言う。千余戸ある。世に王がいた、みなは女王国に統属していた。(帯方)郡の使者が往来し、常駐する場所である。)

使者にしてみれば「コッチに上陸しとけや( ゚Д゚)ゴルァ!!」だと思う…。糸島市は伊都国歴史博物館があるなど、オフィシャルで伊都国を自認しているようです。

東南至奴國百里。官曰兕馬觚、副曰卑奴母離。有二萬餘戸。

(東南の奴国(なこく・ぬこく。博多付近)まで百里で至る。官を兕馬觚(しまこ。島子か)と言い、副官を卑奴母離と言う。二万余戸ある。)

使者にしてみれば「コッチに上陸しとけや凸(゚Д゚#)ヤンノカゴルァ!!」レベルだと思う…。伊都国の外れ(に見える)、今宿からにしてあります。

東行至不彌國百里。官曰多模、副曰卑奴母離。有千餘家。

(東行して不弥国に(ふみこく・ふやこく)まで百里で至る。官を多模(たま。玉・魂・玉造か)と言い、副官を卑奴母離と言う。千余家ある。)

大宰府政庁跡の地点にしてみました。そしておそらくその先が邪馬台国だと思います。が、下の記述を見ると様子がおかしい。

南至投馬國、水行二十曰。官曰彌彌、副曰彌彌那利。可五萬餘戸。

(南へ投馬国に至る、水行二十日。官を彌彌(みみ。耳・美々か)と言い、副官を彌彌那利(みみなり。耳成・耳垂か)と言う。五万余戸ばかりか。)

南至邪馬壹國。女王之所都、水行十日、陸行一月。 官有伊支馬、次曰彌馬升、次曰彌馬獲支、次曰奴佳鞮。可七萬餘戸。

(南へ邪馬台国(邪馬壹国)に至る。女王によって都べられる(この都は動詞なので統べるの意味)所である。水行十日・陸行一月。官に伊支馬(いきま)があり、次を弥馬升(みましょう)と言い、次を弥馬獲支(みまかくき)と言い、次を奴佳鞮(なかてい)と言う。七万余戸ばかりか。)

ただ新訂 魏志倭人伝とされる中に帯方郡から女王国(邪馬台国)までの里数が一万二千里と記述されてはおります。ただこの数値を鵜呑みにしてしまうと、南は種子島、東は近畿地方まで至ります。しかしここまで来ておきながら、再び「水行」するなんて理解し難い。

自女王國以北、其戸數道里可得略載、其餘旁國遠絶、不可得詳。 次有斯馬國、次有已百支國、次有伊邪國、次有都支國、次有彌奴國、 次有好古都國、次有不呼國、次有姐奴國、次有對蘇國、次有蘇奴國、 次有呼邑國、次有華奴蘇奴國、次有鬼國、次有爲吾國、次有鬼奴國、 次有邪馬國、次有躬臣國、次有巴利國、次有支惟國、次有烏奴國、次有奴國。 此女王境界所盡。

(女王国から北は、その戸数や道里はほぼ記載できるが、それ以外の辺傍の国は遠く隔たり、詳しく知ることができない。次に斯馬国があり、次に己百支国があり、次に伊邪国があり、次に都支国があり、次に弥奴国があり、次に好古都国があり、次に不呼国があり、次に姐奴国があり、次に対蘇国があり、次に蘇奴国があり、次に呼邑国があり、次に華奴蘇奴国があり、次に鬼国があり、次に為吾国があり、次に鬼奴国があり、次に邪馬国があり、次に躬臣国があり、次に巴利国があり、次に支惟国があり、次に烏奴国があり、次に奴国(重出、また□奴国の誤脱か)がある。これが女王の境界の尽きるところである。)

其南有狗奴國。男子爲王、其官有狗古智卑狗。不屬女王。

(その南に狗奴国があり、男を王とする。その官に狗古智卑狗がある。女王に属さない。)

狗奴国は王の名前も書かれてないのに「その官に狗古智卑狗」となっているのは何でしょうか?その名前より「菊池彦」に通じるとして熊本県菊池郡との関連を指摘する説があるそうです。

女王國東渡海千餘里復有國皆倭種 又有侏儒國在其南人長三四尺去女王四千餘里 又有裸國黒齒國復在其東南船行一年可至

(女王・卑弥呼国から4000余里に侏儒国がある。また裸国と黒歯国があり、東南に船で一年で着く)

ついでに侏儒国も。種子島か屋久島かのどちらかだと思うんですけど。裸国?黒歯国?南に沖縄とか石垣島とかあるけど船で1年も必要かな?

下有湯谷 湯谷上有扶桑 十日所浴 在黑齒北 居水中 有大木 九日居下枝 一日居上枝

(下に湯谷があり、湯谷の上に扶桑があり、10の太陽が水浴びをする。黒歯国の北であり、大木は水中にあり、9の太陽は下の枝に、1の太陽が上の枝にある)

大荒之中 有山名曰孽搖頵羝 上有扶木 柱三百里 其葉如芥 有谷曰温源谷 湯谷上有扶木 一日方至 一日方出 皆載於烏

(大荒(辺境)の中に孽搖頵羝(げつよういんてい)という山があり、山の上に扶木がある。高さは300里(130m)、その葉はカラシナに似る。温源谷(= 湯谷 ?)という谷があり、湯谷の上に扶木がある。1つの太陽が来ると1つの太陽が出て行き、太陽はみな烏を載せている)

(山海経)

東造扶桑游紫庭 西至崑崙戯増城

(東、扶桑に造りて紫庭に游び、西、崑崙に至りて増城に戯る)

そしてようやく「梁書」に戻します。扶桑の記述は、冒頭で紹介した慧深という僧侶の証言の他にもあるのです。

文身國,在倭國東北七千餘里。人體有文如獸,其額上有三文,文直者貴,文小者賤。土俗歡樂,物豊而賤,行客不齎糧。有屋宇,無城郭。其王所居,飾以金銀珍麗。繞屋爲緌,廣一丈,實以水銀,雨則流于水銀之上。市用珍寶。犯輕罪者則鞭杖;犯死罪則置猛獸食之,有枉則猛獸避而不食,經宿則赦之。

文身って入れ墨の事で、人は獣のように入れ墨をしていると書かれています。その位置は倭国の東北7000余里だと。

大漢國,在文身國東五千餘里。無兵戈,不攻戰。風俗並與文身國同而言語異。

倭人在帶方東南大海之中 依山㠀為國邑 舊百餘國 漢時有朝見者 今使譯所通三十國

(倭人は帯方の東南大海の中に住み、山島に依って国邑をつくる。もとは百余国。漢のときに朝見する者があり、いま使者と通訳を接触させているのは三十国。郡から倭に至るには、海岸に従って水行し、馬韓を経て、あるいは南へ、あるいは東へ進み、その北岸の狗邪韓国に到着する。七千余里。)

倭者自云太伯之後 俗皆文身 去帶方萬二千餘里 大抵在會稽之東相去絶遠

(倭は自ら太伯の後と云ふ。俗はみな文身。帯方を去ること万二千余里なり。たいてい、会稽の東に在り。相去ること絶遠なり。)

最後に宋に朝貢したのは477年(又は478年)「武」と思われる雄略天皇です。先述の「文身国」が倭国から東北7000余里(700X0.075=525㎞)に一致するのは確か。

上の地点を「宋」が認識している文身国と仮定すると、大漢国は関東?東北?。言語が違う?アイヌ語だとすると違うのは分かりますけど…。

今度は慧深の話を検証します。荊州から東二万余里(20000X0.09=1800㎞)…、

これはこれで興味深い話なんですが…。

慧深又云「扶桑東千餘里有女國、容貌端正、色甚潔白、身體有毛、髮長委地。至二、三月、競入水則任娠、六七月產子。女人胸前無乳、項後生毛、根白、毛中有汁、以乳子、一百日能行、三四年則成人矣。見人驚避、偏畏丈夫。食鹹草如禽獸。鹹草葉似邪蒿、而氣香味鹹。」天監六年、有晉安人渡海、爲風所飄至一島、登岸、有人居止。女則如中國、而言語不可曉。男則人身而狗頭、其聲如吠。其食有小豆。其衣如布。築土爲墻、其形圓、其戶如竇云。

(慧深また云う、「扶桑の東千餘里に女國有り。容貌は端正、色甚だ潔く白し。身體に毛有り。髮長く地に委(ゆだ) ぬ。二・三月に至り、競いて水に入り則ち任娠し、六・七月に子を産む。女人は胸の前に乳無く、項の後に毛生え、根は白く、毛の中に汁有り、以って子に乳す。一百日に能く行き、三・四年に則ち成人す。人を見て驚き避け、偏(すこぶ)る丈夫(じょうふ=成人した男性)を畏(おそ)る。鹹草(かんそう=「あしたば」)を食い禽獸の如し。鹹草の葉は邪蒿(じゃこう)に似て氣は香しく味は鹹(から)し」と。天監六年、晉の安人有りて海を渡り風に飄う所と為し一島に至る。岸を登り、人有り、居して止まる。女は則ち中國の如くして言語は曉(さと)るべからず。男は則ち人身にして狗頭、其の聲は吠えるが如し。其の食に小豆有り。 其の衣は布の如し。土を築き墻(しょう=かき。かこい)と為し、其の形は圓、其の戸は竇(とう=あな。あなぐら)の如しと云う。)

是神風伊勢國 則常世之浪重浪歸國也 傍國可怜國也 欲居是國

(この神風の伊勢の国は常世の浪の重浪帰する国なり。傍国の可怜国なり。この国に居らむと欲ふ)

— 垂仁天皇25年3月丙申(10日)条

以上の事から、神武天皇は関東へ「東征」したのではなく、関西圏へ「西征」したのでしょう。大陸から入ってくる人や文明を無視出来なくなった事、海を隔てた九州は特に。だから後の日本建尊も九州へ西征に向かったのだと。これでは渡来人は「朝敵」と見做されてしまいます。だから古事記や日本書紀には書くわけにはいかない、と考えれば辻褄が合うのです。

上つ巻 第四帖

急ぐなれど、臣民中々に言うこと聞かぬから、言うこと聞かねば、聞く様にして聞かす。
神には何もかもできているが、臣民まだ目覚めぬか、金の要らぬ楽の世になるぞ。
早く神祀りてくれよ、神祀らねば何もできぬぞ。
表の裏は裏、裏の裏がある世ぞ。
神を「ダシ」にして、今の上の人がいるから、神の力が出ないのぞ。
お上に大神を祀りて政事をせねば治まらん。
この神を祀るのは、見晴らし台ぞ、富士見晴らし台ぞ、早く祀りて御告げを世に広めてくれよ。
早く知らせねば日本が潰れるようなことになるから、早う祀りて神の申すようにしてくれ。
神急けるよ。
上ばかり良くてもならぬ下ばかり良くてもならぬ、上下そろった善き世が神の世ぞ。
卍(ドイツ)も一十(イタリ)もアテにならぬ、世界中一つになって
(神)の国に寄せて来るぞ。
それなのに今のやり方でよいと思っているのか、
わからねば神に尋ねて政治せねばならぬと言うこと まだわからぬか。
神と人とが交流合わせて この世のことが、させてあるのぞ。
人が聞かねば神ばかりで始めるぞ。神ばかりで洗濯するのは早いなれど、それでは臣民が可哀想だから、
臣民みなやり直さねばならぬから、
気をつけているのに何しているのぞ、いつどんなことあっても知らんぞ、神祭第一、神祭結構。
二三の木ノ花咲耶姫の神様を祀りてくれよ。コハナサクヤ姫様も祀りてくれよ。

昭和19年6月13日(1944年 皇紀2604年 甲申)