2026年2月28日「風の巻 第三帖」

いよいよの大建て替えは国常立の大神様、豊雲野の大神様、金の神様、竜宮の乙姫様、
まず御活動ぞ。
ギリギリとなって岩の神、雨の神、風の神、荒れの神様なり、次に地震の神様となるのだぞ。
今度の仕組みは元のキの生き神でないとわからんぞ、中津代からの神々様ではできない、
わからん深い仕組みだぞ。
猿田彦殿、天鈿女命殿、もとのやり方では世は持ちて行けんぞ。
今一度悪栄えることあるぞ、心して取り違いない様にいたされよ。
口と心と行いとで神示とけよ、堂々説けよ。

昭和21年1月4日(1946年 皇紀2606年 丙戌)

【ムー謎の古代文字】新資料公開! 麻賀多神社に伝来した神代文字文献

ttps://www.excite.co.jp/news/article/Getnavi_366635/

出雲文字

ttps://ja.wikipedia.org/wiki/出雲文字

という記述にあります。

地球ことば村 世界の文字 神代文字

ttps://www.chikyukotobamura.org/muse/wr_column_8.html#takeuchi

出雲文字文書の翻訳考【出雲石窟文字、トヨノ文字、書嶋字】

ttps://rendaico.jp/gengogakuin/mojikakutokuhico/izumomogi/izumomojibunsyonohanyakuco.html

竹内文書

ttps://ja.wikipedia.org/wiki/竹内文書

竹内巨麿

ttps://ja.wikipedia.org/wiki/竹内巨麿

神政龍神会

ttps://ja.wikipedia.org/wiki/神政龍神会

国之常立神

ttps://ja.wikipedia.org/wiki/国之常立神

トヨクモノ

ttps://ja.wikipedia.org/wiki/トヨクモノ

明治三十三年旧四月七日

此の筆先きは神と仏事との世の立替の筆先じゃぞよ。末代の宝に致す筆先ぢゃぞよ。
今では変化して御用を命して居るから、誰も判り難いなれど、
此の筆先に出した事は皆毛筋も違はぬやうに出て来るぞよ。
二度目の天の岩戸が開けるのぢゃぞよ。此岩戸が開けたら万劫末代続くぞよ。
ソンナ大望な事が仕組て在るから、人民の思ふ様にも行かねど、
もう神界には仕組は出来は出来て居るので在るから、
是から人民に改心を致さして境に一つ大望が在るから、
其れで世を変えて此の世界をこしらえた昔の元の神代え捻じ直すぞよ。
並や大抵で出来た世界で無い此の世界を潰しては成らんから、
此の艮の金神は力は何程でも有る神で有るから此の方が構ふ様に致して人民に改心させて、
末代心安き神国の世に致すぞよ。艮の金神は自信も在る神ぢゃ。負ける事は致さん神ぢゃ。
けれども時節には此の神でも叶はん事に成りて、余り天地のゆいつけも聞かず、
万の神の御意見も聞かずして、艮え押込められて居りて、世界を構ふて居りたのぢゃぞよ。
其の事情は今の神様は御存じ無い勝ちぢゃぞよ。
色々に変化て此の世の守護を致して居りたのぢゃ。
此の艮の金神は悪神に致して了はれても、此の世界を救けて居りたなれど、
何を申しても蔭からの守護で在るから誰一人祈請て呉れるものも無し、
穀一ツ供えて呉れるものも無かりた故にいろいろに変化て世界を潰さん様に守護致して居りたぞよ。
其れに就いては出口の御霊が変性男子の御魂で此の方の半分の御魂を女に変化て、
昔の元から世に落ちて今度此の大望が有る故に苦労斗りが使して有りたなれど、
やう茲まで化けて居りて下さりた、女ならこそ茲までの修行が出来たのじゃ。
是が因縁、変じての守護ならこそ茲までの辛棒致して下さりたのぢゃ。
因縁無しにはコンナ辛棒致すものは世界に無いぞよ。
今までは糞槽に落ちて居りて下されと明治二十五年から出口に艮の金神が頼みた事を一言も背反かずに御用を聞いて下さりた故、
此の大望な経綸就来が出来て神界には大変な御喜びぢゃぞよ。
初発に此の艮の金神が出口に表はれて此の世の守護致すぞよ。
次に坤の金神が変性女子に現はれるぞよ。女子が男子に化りて此の世の守護致して居りたなり。
男子が女子に化りて化けて居らねば出来んゆえ、
モウ化けることの無い所までトコトン変化て守護を致したぞよ。
ナカナカ変性男子、女子に成りての守護は辛かりたなれど、誠徳と言ふ事は結構なものぢゃ。
至誠を貫きた故に時節参りて元の神代え立帰るやうに成りたから、
一心と言ふものは強いものぢゃぞよ。
此の世に成りたら世界が自由に成る様に成りたから、世界の人民に改心致して、
ウブの真心に成れと申すのぢゃぞよ。
此の艮の金神も悪神崇り神と世界の人民に言はれた神で在りたのが、改心致したお蔭に因って、
コンナ結構が出来るやうに成りたから、世界を改心させて、よき世に変えて世界の神、
仏事人民、鳥類畜類餓鬼虫族まで救済るぞよ。悪神崇り神ぢゃないぞよ。
変性男子の因縁を説いて聞かせば、よき神で有りたか悪き神で在りたかと言ふ事が判るぞよ。
モウ近々に判けて見せて与るぞよ。永らく悔しかりたが時節参りて疑雲が晴れるぞよ。
此の艮の金神は昔の始まりに此の世界を建造た神で在るから、
此の世界の事は何一つ知らん事の無い神ぢゃに因って此の世のエンマとも言はれたのぢゃぞよ。
夫れで世界の改めを致すのは、艮の金神で無いと神様は数知れぬ程有るなれど、
他の神様では何程力が在りても出来ん大望な事で在るぞよ。
何でも早う夜が明けん事には此の暗闇の世に世界の人民が同志討ちを為て居るので、
今ドブ壷へはまるやうに思ふて見て居れば、危険うて見て居れんから、
神も世界の人民は皆我子で在るから、苦しみて居るのが可愛想で何でも良くして与りたいと思ふていろいろと言ひ聞かしても、
スコタンに感りて一寸も聞き入れる者無いが、一度に目覚しが出て来たら、ドウ仕様ことも出来ん様に成るぞよ。
此の広間へ出て来て此の中の様子が判りて、其の行ひの出来る人は直に其の日から利益を与れど、
此の中の真髄が判らん人は何時まで居りたとて神功徳は無いぞよ。神功徳は心丈けの事を致すぞよ。
神に敵対ふて来たら其れ丈けの事を仕て与るし、誠心誠意の精神で来たなれば誠の御神徳を与る神であるぞよ。
チットも別け隔ては無いぞよ。艮の金神の大本は世界を水晶に致す大本で在るから、
心さえ入れ直しを致して下さりたら此の世の事はドンナ事でも叶へて与るぞよ。病気位は直ぐ利益を与るぞよ。
艮の金神は此の世を始めた神なれど、余り我が強ふて丑寅へ三千年と五十年押込められて居りて、
蔭から構ふて居りたが、蔭からの守護は夫れ丈けの事、神の威徳はチットも人民に判らんから、
表に現はれて神の威勢の光りを出して世界を救けるぞよ。大望な事で在るぞよ。

艮の金神・坤の金神

ttps://onipedia.info/wiki/艮の金神・坤の金神

サルヂニヤ

ttps://onipedia.info/wiki/サルヂニヤ

霊界物語

ttps://ja.wikipedia.org/wiki/霊界物語

第四五章 ああ大変〔一九五〕

ttps://reikaimonogatari.net/index.php?obc=rm0445

2026年2月24日「天つ巻 第二十六帖」

天の日津久の神と申しても一柱ではないのだぞ、
臣民のお役所のようなものと心得よ、一柱でもあるのだぞ。
この方はオホカムツミの神とも現れるのだぞ、
時により所によってはオホカムツミの神として祀りてくれよ、
青人草の苦瀬直してやるぞ。
天明(岡本天明)は神示書かす御役であるぞ。

昭和19年9月11日(1944年 皇紀2604年 甲申)

大本事件後、天明は大本の関係者として就職口が全く見つからない、見つかっても、大本関係者とわかるとすぐにクビになる。(中略)家財道具を、あらかた質屋に入れても金が足りず、飢え死にするのを待つような状況の中、天明は、どうせ死ぬなら最後は好きな画を描いて死のうと考えた。(中略)天明は、来る日も来る日も家に籠もり、朝から晩まで桃太郎を描き続けた。一年のうちに、一万枚近くに及ぶ桃太郎を描いた。(中略)お伽話の桃太郎は,吉備国(岡山)が舞台だった。天明が生まれた玉島の岡本家は、備前一ノ宮・吉備津彦神社の氏子である。

岡本天明伝[日月神示]夜明けの御用(黒川柚月氏/著)121~122ページ

オオカムヅミ

ttps://ja.wikipedia.org/wiki/オオカムヅミ

『古事記』では黄泉の国の条に登場する。伊邪那岐命が、亡き妻の伊邪那美命を連れ戻そうと、死者の国である黄泉の国に赴くが、失敗して予母都色許売(よもつしこめ)や8柱の雷神、黄泉軍(よもついくさ)に追われる。地上との境にある黄泉比良坂(よもつひらさか)の麓まで逃げてきた時に、そこに生えていた桃の実を3個取って投げつけると、その霊力で雷神と黄泉軍は退散していった。この功績により桃の実は、伊邪那岐命から「意富加牟豆美命(おおかむづみのみこと)」の神名を授けられ、「汝、我を助けしが如く、葦原中津国に有らゆるうつくしき青人草の、苦しき瀬に落ちて、患(うれ)へ悩むとき、これを助くべし(お前が私を助けてくれたように、葦原の中津国(地上世界)のあらゆる生ある人々が、苦しみの激流に落ち、悩み悲しみ苦しむことがあったときには、これを助けてやってくれ。)」と命じられた。

もうここまで書けばお分かりでしょう。恐らく天明氏は、「神示書かす御役」として「青人草の苦瀬直して」もらったのでしょう。単にコピペしただけです何も書いていませんけど)

纒向遺跡

ttps://ja.wikipedia.org/wiki/纒向遺跡

南至投馬國、水行二十曰。官曰彌彌、副曰彌彌那利。可五萬餘戸。

(南へ投馬国に至る、水行二十日。官を彌彌(みみ。耳・美々か)と言い、副官を彌彌那利(みみなり。耳成・耳垂か)と言う。五万余戸ばかりか。)

南至邪馬壹國。女王之所都、水行十日、陸行一月。 官有伊支馬、次曰彌馬升、次曰彌馬獲支、次曰奴佳鞮。可七萬餘戸。

(南へ邪馬台国(邪馬壹国)に至る。女王によって都べられる(この都は動詞なので統べるの意味)所である。水行十日・陸行一月。官に伊支馬(いきま)があり、次を弥馬升(みましょう)と言い、次を弥馬獲支(みまかくき)と言い、次を奴佳鞮(なかてい)と言う。七万余戸ばかりか。)

崇神天皇

ttps://ja.wikipedia.org/wiki/崇神天皇

垂仁天皇

ttps://ja.wikipedia.org/wiki/垂仁天皇

垂仁天皇のwikiに、「先代の崇神天皇、次代の景行天皇と共に纒向遺跡付近に都したと伝えられる天皇の一人」と記述があります。纒向遺跡の「周辺」からは、「纒向編年」(纒向遺跡における土器の年代別分類)における「纒向1類」(西暦180年から210年)と推定される弥生土器が見つかっており、「西は山口県、東は神奈川県と広範囲の大量の外来品を含む土器。なお1つだけ鹿児島県の土器が発見されている。」という事です。下関の「関」とは、境界の地を意味するのでしょう。その反面、遺跡の中心部には弥生時代の集落は確認されていない事、太田微高地の平屋と高屋の住居跡と、辻地区の大型建物遺跡から、弥生時代から古墳時代への転換期の様相を示す遺跡と考えられているようです。

…それだけでは済まなかったのですけどね。

丁度ここに着いた時、山に隠れていた朝日が出てきたと同時に、この虹です。アイキャッチは一枚じゃ取り切れなかったのでパノラマ合成なのですが、WordPressの仕様上、両側が切れてしまっているのが残念…。

というわけで、もういっちょ。

…さて

Screenshot

一の鳥居から見える細い道を通ります。

やり直し。

…。

…気を取り直して参拝する事に。今回も写真撮っていないのですが、他に参拝している人もいたのでちょっと、というのが。ご無沙汰していた事をお詫び申し上げてまいりました。

本日の天明氏宅跡。

そして奥宮へ。これで心置きなくこれからもここに来れます。ほっとしました。

2026年2月14日「黄金の巻 第二十九帖」

二二の盗み合い、世の乱れ。
心して怪しいと思うことは、たとえ神の言葉と申しても一応は考えよ。
神の言葉でも裏表の見境なく唯に信じてはならん。審神者せよ。
薬、毒となることもあると申してあろうが。馬鹿正直、まことの道 見失うことあると申してあろうが。
道は易し、楽し。楽しくないのは道ではないぞ。奉仕ではないぞ。
世界に呼びかける前に日本に呼びかけよ。目醒まさねばならんのじゃ。それが順序と申すもの。
神示で知らせてあろうが。ここは種作るところ、種は人民で作れんぞ。
神の申すよう、神の息、いただいて下されよ。
天の道、地の道、天地の道あるぞ。人の道あるぞ。何も彼も道あるぞ。道に外れたもの外道じゃぞ。
道は一筋ぞ。二筋ぞ。三筋ぞ。曲がっているぞ。真っ直ぐであるぞ。
心得なされ。節分から
オーヒツキオーカミ)と現れるぞ。讃えまつれ。
三年の大ぐれ。

昭和24年11月27日(1949年 皇紀2609年 己丑)

その理由は、2024年に「麻賀多神社に御札を返してきた」からでした。それがこの「黄金の巻 第二十九帖」の「心して怪しいと思うことは、たとえ神の言葉と申しても一応は考えよ」という一節でした。ですからその時そうした事に対しては、今でも「後悔していない」といえます。

梅の巻 第二十一帖

身欲信心スコタンばかり、天津日嗣の御位は幾千代かけて変わらんぞ、
日の大神様、月の大神様、地の大神様、御血統弥栄弥栄ぞ。
日本の人民アフンとするぞ、皆それぞれのゆかりの集団にゝ入れよ、
神示ひふみ(一二三)となるぞ、
天明(岡本天明)は画家となれ、絵描いて皆にやれよ、弥栄となるぞ、やさかいやさか。
今度はキリスト教も仏教も何もかも生かさならんのぞ。
早くからこの方の元へ来ていても因縁あっても肝腎がわからんと後戻りばかりじゃ、
肝腎肝腎じゃ、
学もよいが、それはそれのようなものじゃぞ、
途中からの神は途中からの神、途中からの教えは途中からの教え、
今度の御用は元のキの道だぞ、世の元からの神でないとわからんぞ、できはせんぞ、
生まれ赤児の心とは途中からの心、教え、すっかり捨ててしまえということだぞ。

昭和21年12月14日(1946年 皇紀2606年 丙戌)

五葉之巻 第十五帖

今に大き呼吸もできんことになると知らせてあろうが、その時来たぞ、
岩戸がひらけると言うことは
【半分のところは天界となることじゃ、天界の半分は地となることじゃ】、
今の肉体、今の理念、今の宗教、今の科学のままでは岩戸は開けんぞ、
今の肉体のままでは、人民は生きて行けんぞ、
一度は仮死の状態にして魂も肉体も、半分のところは入れ変えて、
ミロクの世の人民として よみがえらす仕組み、心得なされよ、
神様でさえ、このことわからん御方あるぞ、大地も転位、天も転位するぞ。

昭和36年9月1日(1961年 皇紀2621年 辛丑)

五葉之巻 第十六帖

マコトでもって洗濯すれば霊化される、半霊半物質の世界に移行するのであるから、
半霊半物の肉体とならねばならん、今のやり方ではどうにもならなくなるぞ、
今の世は灰にするより他に方法のないところがたくさんあるぞ、
灰になる肉体であってはならん、原爆も水爆もビクともしない肉体となれるのであるぞ、
今の物質で作った何物にも影響されない新しき生命が生まれつつあるのぞ。
岩戸ひらきとはこのことであるぞ、
少しくらいは人民つらいであろうなれど勇んでやりて下されよ、大弥栄の仕組み。

昭和36年9月1日(1961年 皇紀2621年 辛丑)

第十五帖の「半分のところは天界となることじゃ、天界の半分は地となる」は、第十六帖の「半霊半物質の世界」に係ると思います。この両者の記述、戦時中の以下の神示に関連しているのかも知れません。

夜明けの巻 第十一帖

岩戸開きのはじめの幕 開いたばかりぞ。
今度はみづ逆さに戻るのだから、人民の力ばかりでは成就せんぞ。
奥の神界では済みているが、中の神界では今最中だぞ。
時待てと申してあろうが。人民 大変な取り違いしているぞ。
次の世の型 急ぐ急ぐ。

昭和20年8月6日(1945年 皇紀2605年 乙酉)

神示読まないで、智や学でやろうとて、何もかも九分九厘で終局(厘止まり)ぞ。
我が我がが取れたらわかって来るぞ。慢心恐ろしいぞ。

昭和20年8月7日(1945年 皇紀2605年 乙酉)

夜明けの巻 第十二帖

あら楽し、あなさやけ、元津御神の御光の、輝く御代ぞ近づけり。
岩戸開けたり野も山も、草の片葉も言止めて、大御光に寄り集う、誠の御代ぞ楽しけれ。
今一苦労二苦労、とことん苦労あるなれど、楽しき苦労ぞめでたけれ。
申、酉過ぎて戌の年、子の年 めでたけれ。
一二三の裏の御用する身魂も今に引き寄せるから、
その覚悟せよ。覚悟よいか。待ちに待ちにし秋来たぞ。

昭和20年8月7日(1945年 皇紀2605年 乙酉)

ひふみ、よいむなや、こともちろらね、しきる、ゆゐつわぬ、そおたはくめか、
うをえ、にさりへて、のます、あせえほれけ。

昭和20年8月8日(1945年 皇紀2605年 乙酉)

今日までの御教えは、悪を殺せば善ばかり、輝く御代が来るという、これが悪魔の御教えぞ、
この御教えに人民は、すっかりだまされ悪殺す、ことが正しきことなりと、信ぜしことの愚かさよ、
三千年の昔から、幾千万の人々が、悪を殺して人類の平和を求め願いしも、それははかなき水の泡、
悪殺しても殺しても、焼いても煮てもしゃぶっても、悪は益々増えるのみ、
悪殺すというそのことが、悪そのものと知らざるや、神の心は弥栄えぞ、
本来 悪も善もなし、ただ御光の栄ゆのみ、八股オロチも金毛も、ジャキも皆それ生ける神、
神の光の生みしもの、
悪抱きませ善も抱き、あななうところに御力の、輝く時ぞ来るなり、善活かさねば悪なるぞ、
善悪不二といいながら、悪と善とを区別して、導く教えぞ悪なるぞ、
ただ御光のその中に、喜び迎え善もなく、悪もあらざる天国ぞ、
皆一筋の大神の、働きなるぞ悪はなし、
世界一家の大業は、地の上ばかりでなどかなる、三千世界大和して、ただ御光に生きよかし、
生まれ赤児となりなりて、光の神の説き給う、誠の道を進めかし、マコトの道に弥栄えませ。

言答(岩戸)明けたる今日(8月15日終戦記念日)ぞめでたし、二の言答(岩戸)早う明けてよ

昭和22年8月15日(1947年 皇紀2607年 丁亥)

以上を踏まえて「半物質」という言葉だけとらえると、「プラズマ」を想像してしまうのですが、このままでは「半霊」を含んでいませんし、そもそも今の地球上では、プラズマの状態を維持出来ません。

プラズマ

ttps://ja.wikipedia.org/wiki/プラズマ

扶桑之巻 第四帖

ツミケガレ 今はあらじと はらい給えそ。

空白とは九八九であるぞ、八と九、九と八の境をひらくことが岩戸を開くことじゃ、
空白とはもっとも根本を為すもっとも力あることであるぞ。

昭和36年5月5日(1961年 皇紀2621年 辛丑)

「空白とはもっとも根本を為すもっとも力あること」というと、二つの意味があります。一つは「無」=「0」。私が「0=1=i=∞=1⁄∞」という全てを生み出した「0」の事です。その話を書いているのが、先ほどの「宇宙論と数霊かずたまについて」です。

もう一つが本神示の「空白」=「九八九」ですが、これを以下のように読み替えます。

因縁の身霊が生まれ変わり、死に変わりを経ている事は日月神示で明言されており、上の五葉之巻 第十五帖でも「魂も肉体も、半分のところは入れ変えて」とあります。一般的に生まれ変わりの際、前世の記憶が無い(と思うの)ですが、それ故に「失くす」「亡くす」事に対して、「悲しみ」「喪失感」「あわれ」「いとしさ」などの感情を覚えてきたと思うのです。それは私が言うまでも無く、日本人はその傾向が高いと言えますし、残してきた文化がその事を証明しています。

現在、私にも家族がいます。ネコですけど。これが意味する所は…。

銀河鉄道999 (アニメ)

ttps://ja.wikipedia.org/wiki/銀河鉄道999_(アニメ)

漫画版か、TV版か、劇場版か、というのはあるんですけど、私はTV版の第一話から見ていた事から、最初の劇場版の鉄郎のデザイン変更に違和感を感じたものの、見終わってみると大好きな作品になりました。まだ少年キングを手軽に買えるほどの年齢では無かったので、漫画版を見たのは、単行本が発売されて友人が買ったのを見せてもらってからです。公開は1979年8月4日だったのですが、冬休みに再度劇場公開された際、母親に連れられて見に行きました。面白いのは、1981年公開のさよなら銀河鉄道999 アンドロメダ終着駅もそうだったのですが、そのどちらも母親が「見に行こう」と言ってきたのです。そんな母が好きだったのは、安全地帯の「ワインレッドの心」はまだ分かるのですが、ある日の昼下がりに、Queensrÿcheの「Take Hold of the Flame」聴いてたら、洗濯物取り込んでいた母がいきなり「ダビングして」と言ってきたのは今も謎。

2026年1月11日「星座之巻 第三帖」において「葬送のフリーレン」のレビューをしましたが、フリーレンはヒンメルが死んで埋葬される瞬間まで、「人が死ぬ」という事の意味を理解していなかったのでしょう。それまでのフリーレンは、「人間はエルフより先に死ぬという、現象としての死についての理解でしか無かった」のではないかと思うのです。それは師匠であるフランメの死に立ち会っているにも関わらずでした(ただ、その事を思い出すのが辛そうな描写が後の話で出てきます)。それがたった十年という、彼女にしてみれば短い時間の付き合いでしかなかったヒンメルに対して涙を流したのは、それだけかけがえのない日々だったからこそ。

星座之巻 第三帖

時、時、と申してあるが、時間では無いぞ。神、幽身にも聞かせているのぞ。
地上人には時間が考えられるなれど、神界には時間が無く、神も霊人も時間は知らないのであるぞ。
ただ喜びがあるのみぞ。
神界で時間と申すのは、ものの連続と変化、状態の弥栄のことであるぞ。
トキ待てよ。トキ違えるで無いぞ。
地上人の時間と区別して考えねばこの神示は解らんぞ。

昭和36年5月10日(1961年 辛丑 皇紀2621年)

「君の名は。」は正にそれで、正確には生まれ変わったわけでは無いのかもしれないけど、世界線は変更され、記憶を失ったにもかかわらず、相手を求めあっているのです。

では、永遠にも等しい寿命の持ち主に、人と同じような感情、考え方は芽生えるでしょうか?フリーレンのエルフ族は、人としての感情、特に恋愛感情や生殖本能に乏しく、魔族は人を食べるために「言葉」で人を欺くようになった、スリーナインの機械化人たちは、人を燃料、部品、あるいは狩猟の戦果として「剝製にして飾る」ようになった。これらは人が考えた物語の設定上の話で極端過ぎるかも知れない。

碧玉之巻 第十帖

岩戸閉めの始めはナギ(伊邪那岐命)ナミ(伊邪那美命)の命の時であるぞ、
ナミの神が火の神を生んで黄泉国に入られたのが、そもそもであるぞ、
十の卵を八つ生んで二つ残して行かれたのであるぞ、
十二の卵を十生んだことにもなるのであるぞ、
五つの卵を四つ生んだとも言えるのであるぞ、
すべて神界のこと、
霊界のことは、現界から見れば妙なことであるなれど、
それでちゃんと道にはまっているのであるぞ。
一ヒネリしてあるのじゃ、
天と地との間に大きなレンズがあると思えば段々にわかって来るぞ。
夫神、妻神、別れ別れになったから、一方的となったから、岩戸が閉められたのである道理、
わかるであろうがな。
その後、独り神となられた夫神が三神をはじめ、色々なものをお生みになったのであるが、
それが一方的であることは申すまでもないことであろう、
妻神も同様、黄泉大神となられて、黄泉国のすべてを生み育て給うたのであるぞ、
この夫婦神が、時めぐり来て、千引きの岩戸をひらかれて相抱き給う時節来たのであるぞ、
うれしうれしの時代となって来たのであるぞ。
同じ名の神が至るところに現れて来るのだぞ、
名は同じでも、はたらきは逆なのであるぞ、
この二つがそろって、三つとなるのぞ、
三が道ぞと知らせてあろうがな。
時来たりなば この千引きの岩戸を倶にひらかんと申してあろうがな。

次の岩戸閉めは天照大神の時ぞ、
大神はまだ岩戸の中にましますのぞ、
ダマシタ岩戸からはダマシタ神がお出ましぞと知らせてあろう。
いよいよとなってマコトの天照大神、天照皇大神、日の大神、そろってお出まし近くなって来たぞ。

次の岩戸閉めは素盞鳴命にすべての罪を着せてネの国に追いやった時であるぞ、
素盞鳴命は天下を治しめす御役の神であるぞ。
天ヶ下は重きものが積もって固まったものであるからツミと見えるのであって、
よろずの天の神々が積もる(と言う)ツミ(積)をよく理解せずして罪神と誤ってしまったので、
これが正しく岩戸閉めであったぞ、
命をアラブル神なりと申して伝えているなれど、アラブル神とは粗暴な神ではないぞ、
あばれ廻り、こわし廻る神ではないぞ、
アラフル(現生る)神であるぞ、
天ヶ下、大国土を守り育て給う神であるぞ、
取り違いしていて申し訳あるまいがな。
このことよく理解できねば、今度の大峠は越せんぞ。
絶対の御力を発揮し給う、ナギ・ナミ両神が、
天ヶ下を治らす御役目を命じられてお生みなされた尊き御神であるぞ。
素盞鳴の命にも二通りあるぞ。
一神で生み給える御神と、夫婦呼吸を合わせて生み給える御神と二通りあるぞ、
間違えてはならんことぞ。

神武天皇の岩戸閉めは、御自ら人皇を名乗り給うより他に道なきまでの御働きをなされたからであるぞ。
神の世から人の世への移り変わりの事柄を、
一応、岩戸に隠して神ヤマトイワレ彦命として、人皇として立たれたのであるから、
大きな岩戸閉めの一つであるぞ。

仏教の渡来までは、わずかながらもマコトの神道の光が差していたのであるなれど、
仏教と共に仏魔渡って来て完全に岩戸が閉められて、
クラヤミの世となったのであるぞ、
その後はもう乱れ放題、やり放題の世となったのであるぞ、
これが五度目の大き岩戸閉めであるぞ。

昭和36年5月6日(1961年 辛丑 皇紀2621年)

従って、「この夫婦神が、時めぐり来て、千引きの岩戸をひらかれて相抱き給う時節来た」というのは、やっぱり「筋が違う」と思うのです。「理」を曲げているとも言えます。「半霊半物質の世界」、「〇∞〇」は違うのでしょうか?

2026年1月1日 「月光の巻 第十七帖」

そなたの仕事、思いつき結構であるが、神の御意志を頂かねば成就せん。
神と申しても、そなたが勝手に決めた神や宗教で固めた制限された神ではないぞ。
わかっただけでは駄目ぞ。行じねばならん。生活しなければならん。
芸術しなければならん。

昭和34年1月3日(1959年 皇紀2619年 己亥)

「それでも煩悩が巡っている」の「108」です。

長らくの更新停止で大変ご迷惑をおかけしました。申し訳ありません。

昨年の夏あたりから、特に海外からのアクセスが急増しておりまして、これがどっかのデータセンターのbot程度ならばまだ我慢できるものの、明らかに不審なアクセスが見られるようになった為、対処する事にしたのです。右クリック禁止の処置は対応策を練るまでの暫定的な処置で、今回の更新により解除しました。一抹の不安が残りますが。

これらの不審なアクセスの全て100%がVPN経由のアクセスでした。そもそもVPNという技術はこんな目的のために開発された技術ではない事は承知しております。しかしながら、「compromise」と判断されたアクセス全てがVPN経由であるなら遮断せざるを得ない。以外にもプロキシや、torの使用が見受けられなかったのは意外でしたが、今や、不正アクセスのトレンドはVPNに移ったとみて良いのかもしれません。VPN各社のIPをシャットアウトする方法を書いておられたブログもあったのですが、今回はその手段は見送りました。いたちごっこになるのが明白なので。ここまでしてもVPNプラグインをインストールしたブラウザ等には対応出来ておりませんが、桁が違うレベルで楽になりました。

先述した海外からのアクセスの大半は「Boardman」、「Columbus」、「council bluffs」、「Ashburn」などで、多くのWordPressユーザーも困っているみたいで、企業のデータセンターのbotでは?というコメントでした。こんな連中の怪しいビッグデータの構築やらAIの教育なんかに付き合ってやる義務などは無いので、ついでにシャットアウトする事にしました。

そもそもサーバー側とプラグインの両方で、海外からのアクセスを拒否設定にしているにも関わらず、あんな連中だけでなく、南アフリカやらベトナムなどからアクセスされるなんて、誰が考えてもおかしいと思うでしょ?

もう一つはブログの性質上、同一のテーマを扱った記事の場合、まとめたくなったという事にあります。今から書く記事もこれにあたります。初詣で麻賀多神社に参拝に伺った話については、本ブログ初投稿である2024年1月2日当時がオリジナルで、同年中に1回目のブログ更新で記事を書き換えた旧「第零話」、天日津久神社の由来について考察している旧「第二十五話」を今回のブログ更新にあたって記事をまとめました。タイムライン更新はもう少々お待ちください。重ね重ねご迷惑をおかけして申し訳ありません。

元々は、「日月神示の考察と日夜起こる出来事をこじつける罰当たりなブログ」として始めたわけですが、訳あって麻賀多神社に御札を返してきましたので、更新にあたりキャッチフレーズも「0=1=i=∞=1⁄∞」となっております。これではこのブログが何なのかサッパリですが、もう集客はあきらめました。こんな世の中でもありますし、縁があるのなら見てくれるだろう位に思ってます。

とはいえ、タイトルにあるように「神の御意志を頂かねば成就せん」とありますし、「ひつくの神にひと時拝せよ」(地つ巻 第九帖)という事もあり、2023年12月9日にブログ開設のお伺いに麻賀多神社(台方)を参拝したのですが、この話は旧旧「第零話」には書いておきながら、旧「第零話」で書き忘れていました(ダメじゃん…)。

ここまでの道すがら、12月だというのにまだ虫が鳴く音が聞こえてる!この話を執筆している2025年の12月現在とはえらい違いで、現在の方が普通の冬っぽいといえばそうなのでしょう。一方でここに着いたのは、午後2:00過ぎくらいなんですけど、日中なのにどことなく夕方っぽさを感じるのが12月らしいところ。だから暮れって言うのでしょうか?

ところで、境内では写真一枚も撮っていないんです。緊張感というか、圧迫感というか、気後れしたのか…。神社でこんなに緊張するのはここ台方だけです。参拝に来るたびに叱られに来ているような気分なのは、恐らく私が至らぬ故なのでしょう。

参拝を終えて、奥宮へお伺いする事にしました。実は麻賀多神社の名前を知ったのは奥宮の方が先だったのです。以前していた仕事で、成田駅西口大通りから国道464号線に至る道を通っていました。通りには看板もあって「変わった名前の神社だな」と。その当時は寧ろ日月神示の方を知らなかった位で。

台方の裏手に岡本天明氏の住居の跡地があります。実は最初の訪問でも後述する2024年元旦の再訪時でも人がいたからか写真撮っていなかったのです。これは2024年5月に参拝した時。

天つ巻 第八帖

嵐の中の捨て小舟と申してあるが、今その通りとなっておろうがな、
どうすることもできまいがな、船頭どの、苦しい時の神頼みでもよいぞ、
神まつりてくれよ、神にまつわりてくれよ、神はそれを待っているのだぞ、
それでもせぬよりはましぞ、そこに光あらわれるぞ。
光あらわれると道はハッキリとわかって来るのぞ、
この方に騙されたと思って、言う通りにして見なされ、
自分でもビックリするように結構ができてるのにビックリするぞ。
富士の御山に腰かけて、この方 世界中守るぞ。
辛酉、結構な日と申してあるが、結構な日は恐い日であるぞ。
天から人が降る、人が天に昇ること、昇り降りで忙しくなるぞ。
てんし様 御遷り願う時近づいて来たぞよ。
奥山に紅葉あるうちにと思えども、いつまでも紅葉ないぞ。

昭和19年9月2日(1944年 皇紀2604年 甲)

日月神示の奥山=天明氏が住んでいる所なのですが(ちなみに富士山が一の宮です、これは後述します)、紅葉が残ってて間に合ったな、と。

船形の奥宮はホントに落ち着く所だと思います。社伝によれば日本建尊が杉の幹に鏡を懸け、伊都許利命が船形に社殿を造営し、その鏡を神体として稚日霊命を祀り、杉の木の下から7つの玉を掘り出して神体とし、和久産巣日神を併せ祀ったとされております。その伊都許利命の墳墓は写真奥の高台になっている所です。

時に2024年1月1日午前3時前位、「京成って終夜運転してたっけ」とか思い付きで宗吾参道駅へ。コンビニで腹ごしらえした後、一路印旛沼を目指します。初日の出の撮影の為。散歩している人に挨拶。「正月って不思議に晴れますね」と言うと「そう言えばそうかも」と。正直、私の記憶にある中では天気が悪かった記憶が無いのです。まぁ、忘れているだけかもですが。家を出た時は、東の方角が雲が多かったので冷や冷やしていましたが。

西側には雲が残っています。そして日と月の対比。

それでは麻賀多神社に向かうことにします。「一の鳥居」のそばには、かつての渡船の史跡がありました。昭和43年まで橋が無かったというのが驚き。下のリンク見ると印旛沼開発の完成は昭和44年と、思っていたよりは近年ではあります。

印旛沼開発の歴史 1. 近代までの開発経緯 【事業に至る経緯】

ttps://www.maff.go.jp/kanto/nouson/sekkei/kokuei/inba/keii/01.html

私は生まれも育ちも千葉県で、学生時代には香取海かとりのうみ、利根川、江戸川、手賀沼、印旛沼の干拓の歴史を教えてくれた先生がいた世代であって、この地もまたかつて「香取海」の一部だった事は知ってはおりました。「海マアカタとは印旛」(日の出の巻 第十八帖)とは、「香取海」だった話からと思います。2011年の東日本大震災の後、対岸の印西市や柏市でも「液状化」が見られました。関東平野の低地は埋立地と同義語だと思って良い位。以前どこかの掲示板で、千葉に住みたいという人に香取海を例に出して「可能な限り高台に住んだ方がいい」と言ったことがあります。その高台ですら、少し低くなっている所が、数十年前まで「沼」(湿地帯)だったなんて話があるほど。これ、私のすぐ近所だけでも複数ある話。昭和の終わり頃でさえも、雨が降ると氾濫する河川があって、学校へ行く道が水没し、校庭ではカエルが鳴いていたのは私の実体験。大分改善されたとはいえ、今でも大雨が降った後には、道路の消毒をしている所すらあります。理由はお察しください。

大伴家持が寄進したという「一の鳥居」です。「鳥居は要らぬぞ、鳥居とは水のことぞ、海の水ある それ鳥居ぞ」(下つ巻 第一帖)とされていますが、どうなんでしょうか?

大伴家持

ttps://ja.wikipedia.org/wiki/大伴家持

大伴馬来田

ttps://ja.wikipedia.org/wiki/大伴馬来田

大伴吹負

ttps://ja.wikipedia.org/wiki/大伴吹負

実は、大伴家持こそが麻賀多神社(台方)に天之日月神を祀ったのではないかと思っているのです。

神典研究家で神名には明るかった天明氏でさえ、天之日月神がいかなる神なのか、また、どこに鎮座され祀られている神なのか分からなかったそうですが、私が調べた限り、享保7年(1722年)の『佐倉風土記』の記述が最も古かったです。安政4年(1857年)10月に完成した『利根川図誌』(赤松宗旦氏/著)での麻賀多神社の記述は、その佐倉風土記を参照しているようです。かつて三十八座あったものの、享保7年時点での摂社・末社は五座で、印波國造社、幸靈さきたま神社、馬來田まくた朗女いらつめ神社、猿田彦神社、天日津久神社となっていたようです。まず伊都許利命を祀るのは分かる、猿田彦神社も分かるのですが、ここからが問題です。幸靈神社(幸霊神社)?愛知県に幸霊社という神社があるそうですが、あちらも由来が不明だそうです。島根県松江市には、三穂津姫命を祀るとされる幸魂神社があるそうですが、断定まではちょっと…。馬來田朗女神社(馬来太郎女神社)という名前から察するに木更津市馬来田辺りに由来する神社だと思うんですが、弟の吹負が天武天皇の代に常道頭(常陸国の守)を務めた事から大伴馬来田も馬来田村・望陀郡を治めた可能性を指摘している方もいるようです。この事から大伴家は上総国から常陸国にかけては一定の影響力があったと考えられ、伴氏神社の創祀が平安京遷都時(延暦13年/794年)と後々の時代であって、家持が一の鳥居を寄進した際、馬来田を祀った可能性はあります。吹負の名前さえあれば確実性が増したのですが…

そしてもう一つの手がかりが万葉集にあります。

皇位

ttps://ja.wikipedia.org/wiki/皇位

「あまのひつく」、「日嗣」(ひつぎ)という神名は、古代では皇位と同義語であり、かつて大本事件に巻き込まれた天明氏にとっては、その名を出すだけでも命がけだったと言えます。官憲への対策だったのか、戦後の「雨の巻 第一帖」までは「日津久」表記でした。(例外は終戦十日前の「夜明けの巻 第九帖」で「天津日嗣皇尊大神」を称した。)実は「あまのひつぎ」で検索すると、以下のようなサイトもヒットするようになるのです。

あまのひつぎ

ttp://jmapps.ne.jp/kokugakuin/det.html?data_id=31655

記紀・宣命・祝詞等に「天津日継」(記)、「宝祚」「天業」(紀)、「天日嗣」(宣命)、「天津日嗣」(祝詞)等多くの用例を見るが、いずれも「あまつひつぎ」と読み、「皇位につく」の意で用いられている。万葉集では、この句は「あまのひつぎ」という形で5首の歌に詠まれている。作者はすべて大伴家持である。

郷社麻賀多神社。

●台方にあり祭神を稚産霊神となす。応神帝の朝印波国造伊都許利命の齋祀せる所なりという延喜式内神社の1つ。(中略)印旛沼畔に一大華表あり延歴2年9月勅使大伴家持卿始めて建立せる所なりと云う。爾来61年毎に建替を定例とする又郡内の一勝地なり。

以下、特に要太字注目。()内は対訳。

以下、万葉百科 奈良県立万葉文化館 様

巻18-4089 獨居幄裏、遥聞霍公鳥喧作歌一首〔并短歌〕

ttps://manyo-hyakka.pref.nara.jp/db/detail?cls=db_manyo&pkey=4089

高御座天の日継と天皇の神の命の聞し食す国のまほらに山をしもさはに多みと百鳥の来居て鳴く声春されば聞きのかなしもいづれをか別きてしのはむ卯の花の咲く月立てばめづらしく鳴くほととぎすあやめぐさ玉貫くまでに昼暮らし夜渡し聞けど聞くごとに心つごきてうち嘆きあはれの鳥と言はぬ時なし

(高御座にあって、天日をうけ嗣ぐものとして、天皇たる神の命がお治めになる国、この秀れた国土には山があちこちに多いので、いろいろな鳥がやって来て鳴く。その声は春になると聞いていてかわいいことよ。どの声がいいというのでもないが、中でも卯の花の咲く月になると、愛らしく鳴くほととぎすは、菖蒲草を薬玉に通す五月まで、昼は一日中、夜は一晩中聞いても聞くたびに心が動いて感嘆し、興尽きない鳥だといわない時はない。)

巻18-4094 賀陸奥國出金詔書歌一首〔并短歌〕

ttps://manyo-hyakka.pref.nara.jp/db/detailLink?cls=db_manyo&pkey=4094

葦原の瑞穂の国を天降り領らしめしける皇御祖の神の命の御代重ね天の日嗣と領らし来る君の御代御代敷きませる四方の国には山川を広み厚みと奉る御調宝は数へ得ず尽しもかねつ然れどもわが大君の諸人を誘ひ給ひ善き事を始め給ひて黄金かもたしけくあらむと思ほして下悩ますに鶏が鳴く東の国の陸奥の小田なる山に黄金ありと申し給へれ御心を明らめ給ひ天地の神相誘なひ皇御祖の御霊助けて遠き代にかかりし事を朕が御代に顕はしてあれば食国は栄えむものと神ながら思ほしめして物部の八十伴の緒を服従の向けのまにまに老人も女童児も其が願ふ心足ひに撫で給ひ治め給へば此をしもあやに貴み嬉しけくいよよ思ひて大伴の遠つ神祖のその名をば大来目主と負ひ持ちて仕へし官海行かば水浸く屍山行かば草生す屍大君の辺にこそ死なめ顧みはせじと言立てますらをの清きその名を古よ今の現に流さへる祖の子等そ大伴と佐伯の氏は人の祖の立つる言立て人の子は祖の名絶たず大君に奉仕ふものと言ひ継げる言の官そ梓弓手に取り持ちて剣大刀腰に取り佩き朝守り夕の守りに大君の御門の守りわれをおきてまた人はあらじといや立て思ひし増る大君の御言の幸の/ [一は云はく、を]聞けば貴み[一は云はく、貴くしあれば]

(葦がしげるみのり豊かなこの国土を、天から降ってお治めになった皇祖の神の御代を重ねて、天日を継承するものとして支配なさる天皇の御代御代に、統治なさる四方の国には、山や川が広く豊かなので、貢上する宝物は数えきれず尽くすこともできない。しかしながらわが大君は、多くの人々をさそってりっぱな事業をお始めになってから、黄金がたしかにあるだろうかとお考えになり、心を悩ませておいでだった。ところが鶏の鳴く東の方、陸奥の小田という山に黄金があると申しあげると、御心のふさぎをお晴らしになった。「天地の神々も尊いこととお思いなさり、皇祖の御魂も恩恵を施され、遠い昔にあった、こうした事を、またわが御代にもお見せくださったので、わが統治の国は繁栄するにちがいない」と、大君は神の御心にお考えになり、多くの廷臣たちを従え政治に向かわせる一方、老人も、女も子供も、その願いが心のままに満足するように安らかにさせ、治めなさる。そのことを私は、ふしぎに尊く嬉しいことと、ますます考える。大伴という、遠い祖先の名を大来目主として掲げもち、朝廷奉仕を役目として来た氏は「海に征けば水につかる屍、山に戦えば草のはえる屍。大君のかたわらに死のう。わが身をふりむくまい」と言立てをして、勇敢な男の清らかな名を昔から今の現実に伝えて来た末の一族であるよ。大伴・佐伯の両氏は、祖先の立てた言立てによって、子孫が祖先の名を絶やさず大君に奉仕するものと言い伝えて来た、そのことばどおりの役目の氏であるよ。梓の弓を手に握り持ち、剣太刀を腰に帯び「朝の守護・夜の守護に大君の御門の守護をするのには、自分以外に人がいまい」と、ますます心をふるい立たせ、気持は高ぶる。大君のおことばの幸いが〔一ハ云ワク、を〕、聞けば尊いので〔一ハ云ワク、尊く思われるので〕。)

巻18-4098 為幸行芳野離宮之時、儲作歌一首〔并短歌〕

ttps://manyo-hyakka.pref.nara.jp/db/detail?cls=db_manyo&pkey=4098&dicCls=d_kanno&dicDataId=18&detaillnkIdx=0

高御座天の日継と天の下知らしめしける皇祖の神の命の恐くも始めたまひて貴くも定めたまへるみ吉野のこの大宮にあり通ひ見したまふらしもののふの八十伴の緒も己が負へる己が名負ふ負ふ大君の任けのまくまくこの川の絶ゆることなくこの山のいや継ぎ継ぎにかくしこそ仕へ奉らめいや遠長に

(高御座にあって、天日を承けつぐものとして天下をお治めになった遠い天子が、畏れ多くも始めなさり貴くもお定めになったみ吉野のこの大宮に、わが大君は通いつづけて風景を御覧になるらしい。多くの廷臣たちも、それぞれがもつ氏の名にたえず背かず、大君の任命に応じつづけ、この川が絶えることのないように、この山が次々と重なるように、このようにお仕え申し上げよう。一層永遠に。)

巻19-4254 向京路上、依興預作侍宴應詔歌一首〔并短歌〕

あきづ島大和の国を天雲に磐船浮かべ艫に舳にま櫂しじ貫きい漕ぎつつ国見しせして天降りまし払ひ言向け千代重ねいや継ぎ継ぎに知らしける天の日継と神ながら我ご大君の天の下治めたまへばもののふの八十伴の緒を撫でたまひ整へたまひ食す国の四方の人をもあぶさはず恵みたまへば古ゆなかりし瑞度まねく申したまひぬ手抱きて事なき御代と天地日月と共に万代に記し継がむそやすみしし我ご大君秋の花しが色々に見したまひ明らめたまひ酒みづき栄ゆる今日のあやに貴さ

(秋津島の大和の国を、天雲に磐船を浮かべ、船尾にも船首にも左右の櫂を一面に通して漕ぎながら国見をなさって地上にお降りになり、邪魔者を掃い従え、千代を重ねて一層次々と平定なさってきた天皇の御位にあって、神のままにわが大君が天下をお治めになると、廷臣の多くの者どもをいつくしみなさり、整備なさり、支配する国土のあらゆる人々をも残さずお恵みになるので、昔からなかった瑞祥が度々奏上されることだ。何もせず手を組んでいても太平な御代として、天地・日月と共に万代の後までも記録しつがれるだろう。八方を支配されるわが大君が、秋の花のさまさまな色どりを、それぞれに御覧になって御心を晴らす、酒宴が賑やかな今日の、ふしぎな貴さよ。)

巻20-4465 喩族歌一首〔并短歌〕

ひさかたの天の門開き高千穂の岳に天降りし皇祖の神の御代よりはじ弓を手握り持たし真鹿児矢を手挟み添へて大久米のますら健男を先に立て靫取り負ほせ山川を岩根さくみて踏み通り国求ぎしつつちはやぶる神を言向けまつろはぬ人をも和し掃き清め仕へ奉りてあきづ島大和の国の橿原の畝傍の宮に宮柱太知り立てて天の下知らしめしける天皇の天の日継と継ぎて来る君の御代御代隠さはぬ明き心を皇辺に極め尽くして仕へ来る祖の官と言立てて授けたまへる子孫のいや継ぎ継ぎに見る人の語り次てて聞く人の鑑にせむをあたらしき清きその名そおぼろかに心思ひて空言も祖の名絶つな大伴の氏と名に負へるますらをの伴

(ひさかたの天の戸を開き、高千穂の嶺に天降った、天皇の祖先神の昔から、わが一族は櫨弓を手に握り持ち、真鹿児矢を脇にかかえて、大久米部の勇敢な男たちを先頭に立て、靱を背に山川の岩を踏み分け踏みくだいて国土を求めつつ、ちはやぶる神を平定し、反抗する人々も従え、邪悪なものを一掃して、お仕え申して来た。また、秋津島の大和の国の橿原の畝傍の宮に、宮殿の柱をりっぱに立てて天下を支配なさった皇祖の、それ以来の御位として引き継いで来た君の御代御代に、隠しへだてなく赤心を、天皇に向けて極め尽してお仕えして来た。そうした祖先代々の役目としてことばにあげて天皇が官をお授けになるわれら子孫は、一層次々と、見る人が語りつぎ聞く人が手本にするはずのものを。惜しむべき清らかなその名であるよ。あさはかに思慮して、かりそめにも祖先の名を絶やすな。大伴を氏の名にもつ大夫たちよ。)

の5首ですが、以下に意味深なのを貼っておきます。

大伴宿禰家持

巻20-4509 波布久受能多要受之努波牟於保吉美乃賣之思野邊尒波之米由布倍之母

ttps://manyo-hyakka.pref.nara.jp/db/detail?cls=db_manyo&pkey=4509&dicCls=d_utabito&dicDataId=174&detaillnkIdx=0&lnkDic=true

延ふ葛の絶えず偲はむ大君の見しし野辺には標結ふべしも

(蔓(つる)を伸ばす葛のように絶えずお慕いしよう。大君が御覧になった高円の野辺には標縄(しめなわ)を張っておくべきであるよ)

だから「一の鳥居」を立てたのではないかと…。

いや、正直疑問もありまして、鹿島神宮では無く、香取神宮でも無く、常陸国総社宮でも無く、何故(台方の)麻賀多神社だったのでしょう?家持は宝亀5年(774年)9月4日、左京大夫兼上総守(例の馬来田村を含む)に任ぜられましたが、印旛沼は管轄外のハズです(上記三社にも言える事ですが)。そして「大君」とは、先述の日本建尊であるのか、それともかつてこの地に訪れた歴代の天皇を指しているのか、もしくは関東こそが本来の都だったからでしょうか?(私はそう思っておりますけど)もし仮に日本建尊だとするならば、この地を訪れていた事が社伝として伝えられているので、整合性はあります。

ただ、天日津久神社を祀ったのが家持だったとしたら、何故「摂社」になったのでしょう?ちなみに菊の御紋があるのは、麻賀多十八社で台方だけという事も…。

考察が長くなってしまいましたが、2024年1月1日の麻賀多神社(台方)です。鳥居に菊の御紋が見えるでしょう。参拝者の方々は緊張する様子なんて見られないのに、私一人ビクビクしているとか不審者みたい…。私には霊感は無いって思ってはいるのですが、とにかくプレッシャーがキツイ。神示に囚われているだけかも知れませんが、そのくせブログにしようというのだから全く以ってどうかしてます。

下つ巻 第二十七帖

この方は祓い戸の神とも現れるぞ。
この方祀るのは富士に三と所、海に三と所、江戸にも三と所ぞ、奥山、中山、一の宮ぞ。
富士は、榛名に祀りてくれて御苦労であったが、これは中山ぞ、
一の宮と奥の山にまた祀らねばならんぞ、
海の仕組みも急ぐなれどカイの仕組み早うさせるぞ。
江戸にも三と所、天明(岡本天明)の住んでいるところ奥山ぞ。
あめのひつく(天の日津久)の家、中山ぞ、富士(二二)が一の宮だから気つけておくぞ。
この方祀るのは、真ん中に神の石鎮め、そのあとにひもろぎ、前の右左にひもろぎ、
それが「あ」と「や」と「わ」ぞ、
そのあとに三つ七五三とひもろ木立てさすぞ。
少し離れて四隅にイウエオの言霊石置いてくれよ。
鳥居も注連も要らぬと申してあろうがな、このことぞ。
この方祀るのも、役員の仕事も、この世の仕組みも、
みな七七七七と申して聞かせてあるのに気がまだ付かんのか、
臣民の家に祀るのは神の石だけでよいぞ、
天のひつくの家には、どこでも前に言うようにして祀りてくれよ。
江戸の奥山には八日、秋立つ日に祀りてくれよ、
中山九日、一の宮には十日に祀りてくれよ。
気つけてあるのに神の神示読まぬからわからんのぞ、このこと、よく読めばわかるぞ。
今の様なことでは神の御用つとまらんぞ、正直だけでは神の御用つとまらんぞ。
裏と表とあると申して気つけてあろうがな、
シッカリ神示読んで、スッキリと腹に入れてくれよ、
読む度たびに神が気つけるように声出して読めば、読むだけお蔭あるのぞ。

昭和19年7月31日(1944年 皇紀2604年 甲申)

ところで、[日月神示]夜明けの御用 岡本天明伝(黒川柚月氏/著)の177ページ[注3]に、「天明第一仮約」では「富士(二二)が一の宮だから」になっているという記述があるのです(本文太字)。こちらが正解と思うので、本ブログでもそのように記述しております。

ところが、第二仮訳を底本にしている「日月神示 謄写版第一訳文」(ビオ・マガジン)や、「新版 ひふみ神示」(コスモビジョン)などの書籍を始め、現在オンラインで公開されている神示の多くは「ここが一の宮だから」という記述になっているようです。

しかしこの下つ巻 第二十七帖、「この方祀るのは富士に三と所、海に三と所、江戸にも三と所ぞ、奥山、中山、一の宮ぞ。」と冒頭にあり、天明氏の住んでいる所は台方であれ、至恩郷であれど、奥山なのです。そして「あめのひつく(天の日津久)の家、中山ぞ」(台方と思われる)という事は、「ここが一の宮だから」では意味が通じないという事を指摘されているのです。実際読んでみるとおかしいのですけどね…。だから「富士(二二)が一の宮だから」が正解であるハズ。

ただ「天明第一仮約」の入手は困難なので、外にも違っている点があるかもです。「この神示八通りに読めるのじゃ」(海の巻 第十五帖)という事ですし…。

この後は当然、奥宮も参拝しました。夕方っぽく見えますが、もちろん朝です。もうちょっと明るかったけど、こんな感じに見えていました。ここ、JR成田駅西口から真っすぐというアクセス良さげなのに、なんでこんなに人少ないんだろう?って思っているのですけど。

一万字超えちゃっているので、本日はここまで。ホントは麻賀多神社に伝わる神代文字の話(旧第二十話)とかもあったのですけど、これは別の話に繋げた方が良さそうだったので。大伴家持の話は、大半コピペで済んだけど、参拝部分は多くが書き直し。原稿丸めてポイっていうのもアナログっぽくて良いかなって(前回の更新でも言ってた)。

では、今後もよろしくお願いいたします。